無限の組入れ

わかることとわからないこと、あるいはわかると思っていることとわからないと思っていること、見えないものと見えないもの、知っていることと知らないこと、これら無限と有限のバリエーションについて吉本隆明の含意には無限遠点の設定による無限のくりこみがある。それは非知の視点とほぼパラレルである。有限でしかありえない人間の決定など、無限の視点からは非知に相対化される。それは知識人と大衆の循環ゲームであるかのようにあらわれるが、そこでは無限は知/非知、意志/非意志、生死までもが有限の外部、無限の領域に一緒くたに相対化されてしまうが、それを吉本は死の視線と呼んだ。ここにおいては生死の相対化のみが歯止めをくらうが、(近代=生命の権利にせよ非近代=宗教的他界にせよ生死は相対化されない。ほぼ本能という定義されない用語が無限に先送りされる)ここで吉本言説自体が解体してしまう可能性があるのだが、吉本自身は唐突に死を相対化してしまうとすべてが相対化されてしまうというような警句を発している。非知においては吉本言説それ自体に着目することが否定される。その言説がそれ自体相対化の契機を有していなければ文学とはいえない。そうした意味で吉本の言説は文学であって学説ではない。そこで究極に無限と非知の間に取り残される。しかしこれは有限から無限、非知から知そして非知への往還という時間的経過をあらわしているのではない。無限(世界視線)はいわばはじめからつきまとっていて全てを取り囲んでいる。視線ならば距離=時間が有るだろうと人はいうかも知れない。しかし無限を入れた点でそれは有限な時間でありえない。つまり厳密には視線ではなくイメージが=視覚でないようにイメージでしか無い。しかしそれは有限な五感から材料を借りてこないイメージ、対象を結ばないイメージである。無限は理解できない。よって非知であり操作も管理もできない。ただその周りを巡るだけである。無限の視線により意志が相対化され非知へと至るというのは、おのずからということの進化論的含意として今西錦司を思い出すが、なるべくしてなったのではなく、そもそもなるべくしてかそうでないかはわからないのである。 
 ハイ・イメージ論の時期は吉本隆明において「非知」への視点が拡張した時期に当たる。そこでは吉本がフーコーとの対談でこだわったような意志の問題は、フーコーの問題意識を取り入れたかのように相対化されてしまい、「たかだか人間の考える範囲」に(無限遠点の世界視線と相対して)極限の微小世界に限定されてしまう。それは死後の世界を想定して世界を相対化する宗教に対して吉本が出した別の「善悪の彼岸」なのだが、それは決して世界視線という概念に対して島田雅彦やその他が批判するような全体性の視点ではない。全体をつかもうとする意志が極小の有限性に閉じ込められてしまうような世界である。
要するに吉本は神の意志=必然は初発においてないといっている。偶然の累積の系のうち必然に見えるものが有る、といっていることになる。

 吉本隆明における「神」の処理は以下である「変換定数」しかしこれは無限遠点の世界視線から見られた自然であり、この偶然は無限回数の自然の試行を前提とし、その結果「必然」に移行した結果から遡及した自然である。

 吉本隆明は意味の凝縮より拡散、意味を捕まえることより解き放つことを問題にしていた。しかし絶対的内在意志が絶対的外在偶然に転化する(あるいはその逆)には無限回の試行が必要であり、それには永遠の時間が必要なのだ。しかしそれは遡及的に構造化された過去であり、未来にはつかえないものだ。吉本は身体的に(いわば身体内の自然史的時間時計的に)了解できるものを無理やり理解しようとした「何でもわかろうとした」(山口昌男)と批判されるが、結局無限の時間などは有限の身体内の了解の次元などでは感知さえできないものである。非知とは無限の介入による非決定であり、 正定聚の位、知の頂きとは無限の介入であり、還相と往相の間は無限が介入しているのである。これは空間的に無限個の選択が並んでいるのではなく、時間的に無限回の試行が前定されているという事である。しかしこれは量化されるものではなく、一回一回の個別の試行の無限回の累積なので、そもそもそういうことは人間に思考不可能であり、理解不可能なものである。

 吉本は自分の著作を無限回呼んでくれればという趣旨のことをそのままの言葉ではないが言っている。また吉本の言うような知の頂きを極めたものなどいないと柄谷行人は言っているが、これは無限の視線の介入のことであり、実際に存在するとかしないとかいうことではないのである。

 吉本は彼の想定する日本を代表する知識人について
1鴎外、漱石ら西欧に追いついた同時代人
2折口、柳田ら西欧を相対化する視点
3親鸞人類知の相対化
のように挙げている。これは1から3へ至って最も射程が大きくなるのだが、ここにおいては無限の視座をわたしは付け足したことになる。

 何が死ななかったために吉本隆明が構想した消費資本主義ユートピアは実現しなかった(あるいはしていない)のか?吉本隆明の消費資本主義の視点はことごとく楽観であり否定されたと考えられている。それはバブル期の考察であり、それが永遠に続くと思われた一瞬のうたかたであったと。しかし吉本は近代的自我と国家の崩壊に対する幻想的反動がバブルを続けさせなかっただけだと見ている。しかし失われた30年は過ぎた。この経験のうち得たものはなにがあるのか。吉本は自殺を平時の戦死(大塚英志のいうような内面地獄の結果等)と見ている。結局人間は内在的にも外在的にも大量死を迎えてきた。死は外在的に構造化されているが内在的には理解の埒外にある。
 吉本は手段=目的関係に構造化された生産=消費サイクルが非決定的な要因によって遅延してゆくことを問題化していた。これは労働力の生産と二重に構造化された人間概念そのものの成立条件の変化を問題にしており、階層化された手段=目的関係の連鎖のシンギュラリティの解体あるいは横滑りなのだが、さまざまな論点は散種されたものの収穫されなかった。私はそこに無限の問題を挿入して再構造化できないかと考えているわけだが、ヘーゲルが主に論理学で批判しているような数学や物理学の無限の処理の仕方、無限を避けるヘーゲルのいわゆる「悪無限」のゼノンのパラドックスのようなことを言っているわけではない。
 宇宙が有限であるという議論は神学でも形而上学でもなく有限性の人間論に、希少性の経済学に、マルサスの人口論に影響的にあらわれる。実際には無限の介入がなければありえないものを有限なスケールでとらえ手段目的関係に落とし込む役割を果たすのだ。
 シンギュラリティを求める思考は前提の中に結論が含まれるトートロジーの中に世界を閉ざそうという欲望である。

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