吉本の広松渉論

 吉本の広松論を読み返す。共同的なものと個人的なものがどちらが先で後かということに広松はこだわっているが、それはどちらでも同じでその後先を問題にすることは意味が無い、とある。
 共同幻想、対幻想、個人幻想がそれぞれ還元不可能な三者とすれば、どこからそれ以外が出てきたとか出てこないとかいうようなものではなく、別個に考えなければならない位相にあるものとしていることと対応するか。
 それと「『物質』は抽象物ではない」、思惟の産物ではないとしている。
 広松は主客の分離を止揚することが大事だと立てるから、物質も人間も歴史的概念とし、人間の思惟は自然物の延長であるとするが、吉本は主客の分離を共同主観性で止揚するという考えを大した意味の無いものとしている。
 あくまで共同幻想は個人的、対的なものから説明できないものとして抽出されており、止揚とか統合がそもそも課題にのぼらないとしているようだ。
 また、国家の廃止について制度的次元を問題にし、そのプログラムを広松は描かなかったとしている。
 自然科学のエンゲルスの解釈は誤っているとあるが、自然科学から方法を抽出したりするやり方は間違っていて、全く別個に論を立てるか媒介抜きには意識は自然の延長とはいえないとしている。
 ところで上海かなんかに広松記念館が出来るって話があったが。2003/08/07 18:49

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