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ちょっと

クインテット、今でもたまにyoutubeで見返す。『ただいま考え中』とか。『ちょっと』も「とっても」好き。

ちょっとってどのくらいって分かんない。

幸福は大きいよりも小さく、不幸である方が正当性があるように思われる場面があることを知っている。それは不幸であることの理由が自己責任ではなく社会に帰される時で、不幸の当事者は被害者であるという主張ができるからだと思う。
欧米系男性と欧米系女性とアジア系男性とアジア系女性がいて、我こそは最も不幸であると後三者が主張する。私に比べればあなた方の不幸はちょっとであり賢しらに僅かな不運を見せびらかすなと言う。何か嫌なのは、この目指す先がともすればピラミッドの逆転になりうる気がするところ…。……。
自由主義において有能なものが偉いとすれば、ここにおいては最も虐げられたものが最も偉いというような…。
本当は、どんな人も平等に生きられる世界が目指されているのだろうが、恨みによって変質する感じがある。
だから幸不幸の比較はしても良いけれど、それは結果を平等とするための補償や審判のために使われるべきで、それを理由に階級を作ろうとしてはいけない。ジャイアンがのび太をボコボコにしたとして、良識ある大人によるお説教の後に出されるおやつのケーキは半分こであるべきだと思う。
もう一つ、禍根を次に持ち越してはいけない。なぜなら歴史の中でした側された側というのはころころ変わるのだから、係争状態にある者同士がどのスパンで切り取るかで事情は変わる。
ところで、この平等への回復みたいなことを「した側」が言うというのはポジショナリティ的に許されるのだろうか?

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