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客観視が上手くできない

客観視が下手だ。そりゃまぁ自分の事を自分で見ることは出来ないのだから。けれども自分の姿を見て驚いてしまう。もしくは、自分の姿をふと考えて驚くのだ。意味がわからない。何なんだろう、私は。

保育園の頃、私は6歳で卒園式の練習をしていた。花道を皆で列になって歩いている時、私は何故か自分の頬と口の端が上がっていることに気付いた。妙に上がっているのだ。違和感が酷い。どういう事なんだろう?不思議に思っていた。だから、実験してみた。頬と口の端が上がっている状態ってどういう感じなんだ?と鏡の前で確かめてみたのだ。具体的にはその時を思い出しながら、その表情を、見てみたのだ。

それは「笑顔」と言われるものだった。今の私の語彙を使って言えば「照れ笑い」とか「はにかんでいる」とか言われる表情だった。私は驚いた。真面目に列を歩いているつもりでいたのに、私は笑っていたのだ。衝撃でしかない。そして「恥じらっている」ということにも驚いた。こんな事に驚くのも妙な話かもしれないが、私は自分の感情とかその辺の諸々を理解するのが下手なのかもしれない。

感情が昂ると涙が出てくる。
喉の奥がキューっと締まって、鼻水がグズグズと出てきて、目元が熱くなって、最終的にはボロボロと涙が零れてくる。喉の奥が締まるから、泣きそうな状態になると喋りたくない。喋ると泣きそうな人間の喋り方になってしまうから。そして、実際に泣いてしまうから。観察している。何故か、観察していた。子供の頃は、泣くと怒られたから。もしくは困られたから。だから、泣かないために観察していた。

どういう時に泣くのだろう?考えた。パニックになっても泣いた。悔しくても泣いた。痛いときは勝手に涙が出てくる。これを止めるのは難しい。それ以外にも、怒りすぎても泣いたし(これはパニックにも近い)、嬉しすぎて泣くということも発見した。かなり色々見つかった。27年生きてようやく理解した。私は、喜怒哀楽の楽以外では全て昂ったら泣くのだ。ハチャメチャだ。しかし、そういう人間なんだと理解した。

何だか随分と小難しい話になってしまった。今日の本筋はここではない。

今日は法事があった。
酔っ払った親類を各々の家に送り届け、疲れたからと1人で海を見に行った。日本海は割と穏やかで、私はいつも通り砂浜を少し歩き、そして少し波と戯れて、車に戻り家に戻った。

家に帰ってから、ふと気付いた。私は法事が終わったあとのままの格好。つまり「喪服を着て」海辺を歩いていたことになるのだ。…考えてみてほしい。夕方の日本海、喪服を着たそこそこ若い女。そんなのがぼんやりと砂浜を歩いている。

…なんだか危うくないか!?

ありがたいことに誰も声をかけてこなかったので何事もなく済んだのだが、これで何か勘違いしてしまった優しい人が青ざめた顔して声をかけてきたりなんてしたら、何かしらの物語が始まってしまうところだった。

こんな具合に、私はどうにも客観視が下手なせいでおかしなことになってしまいがちだ。…優しい読者の方、もし私がおかしくなっていたら、こっそり教えてほしい。



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