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心の整理をする場所としてやる。
誰に見せるとかは特に考えずに。
もっと良い使い道が見つかったらそれはそれでリニューアルするので。

あまりにも最近溜まりすぎている。

ある人の、ルームシェア解消のnoteに、同居人たちへの感謝やリスペクトの気持ち、彼らとの思い出がふんだんに綴られていて締め付けられるような思いになった。
こういう、友情とか絆とか、そういうのが絡む話を聞くと、いいなあ、羨ましいなあ、と思うと同時に、いつもモヤモヤするんですよねー。それは多分、心のどこかで、自分には友達も絆も無理だって諦めていて、でもまたどこかで、友達や絆を手に入れる希望を捨てていない、矛盾した感情なんでしょうね。自分には無理だって諦めているから、「友情、絆なんてくだらない」という方に行って、なんとか楽になろうとするけど、心の奥底で真逆の感情を抱いているから、余計に苦しくなる。
心の底から尊敬、感謝している人と、くだらない会話を当たり前のように交わせるって、すごいことだと思う。昔から羨ましいなと思ってる。でもなんか、どこかで、そっち側にいっちゃダメだ、と思っている自分がいる。友達を作らないでいることが正しさだという決めつけがずっと僕を縛っている気がする。
でも実際、友達を作らないことが、僕が僕らしく生きていく、ということにおいては正解であると本気で思ってるし、
友達がいる人ってなんて美しいんだろう、羨ましいなって本気で思ってるし、
どっちもほんとに嘘じゃない。だからモヤモヤしてる。
そもそもなんで友達を作らないことが僕の美学なのか?
多分それは、自分の悩み、苦しみ、喜びなどを、まるで自分のことのように相手が感じることに、ものすごく気持ち悪さと、むし暑さと、生々しさを感じるから。(それは逆も然りで、相手の感情をゼロ距離で受け取りたくない。)誰にも干渉されたくない、誰にも知られたくない、自分以外の誰かにわかってたまるか!って思っちゃうから。でも自分のそういう部分、捨てたくないんですよ。大事にしてたい。
じゃあ僕は、友情のどういうところに憧れているのか?僕が読んだルームシェア解消のノートには、たくさんの同居人との思い出が書かれていて、「家に帰って、もうその景色がないと思うと寂しい」とあった。この感情に、僕はすごく憧れている気がする。帰ってきて玄関を通ったら、当たり前のように、いつものような日常がそこにはある。自分にどんな悲しみが襲ってきても、何事もなかったかのように、僕の感情とは関係なく、彼らの生活が続いている。それが羨ましいんだと思う。
今日は父親に「明日死んでも良い、この世の中何も楽しくない」と言われた。僕はお風呂で泣いた。今日は学校がなくて、天気もそんなに良くなくて、逃げ場がない。そういう時、笑っている自分に戻れる、笑っている自分を装える場所が欲しい。もう一個帰る場所があればよかった、家族よりも大切な人がいたらよかったって、ちょっと思ってしまった。
家族以外に本音を話すことができる人なんていないし、別に望んでもいない。けど、笑わせて欲しい。嘘でいいから笑わせてくれよ。って思っちゃった。
だからか、余計に今日は「友情」が輝いて見えたなあ。でも、もし自分にルームシェアするほど仲の良い友人がいたら、って妄想している時、家族のことも学校のことも忘れられて、楽になったなあ。
いつか、本当に出会えたらいいなあって思う。でも、僕が心を開こうとしてないから無理ですね。心を開いてなくてもいい、全くお互いに干渉されない
関係の人が、ずっと家にいて待ってくれればいいのにって思う。それが最適解かも。
それにしても、時間が経つだけで、なんでもなさそうな日常もノスタルジックになるもんだから不思議。過去には戻ることができないからですかね。
いまは当たり前のように仲良くしてるけど、思い返せば初対面は変な出会い方だったよなあ、みたいなのも好きですねぇー。そういう人たちがいつまでも仲良く、お互いを大切に思ってたら素敵だなあと思う。
やっぱ僕には無理そうだなって思っちゃうけどね。


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