ついに強制在宅勤務になった。何かある場合にのみ、承認をもらわないと出社できない。

先週一週間は自分の匙加減での在宅勤務だった。上の子は、小学校から学童に行かず、直接家に帰宅する。安心なのか嬉しいのか、明らかにそんな表情を浮かべながら帰ってきた。

と思っている。そのあとはやはり習い事が学童である為に、また出掛けるのだが。

平日、私がいないのが当たり前な毎日。寂しいと感じているんだろうか、という考えもあまり考えない様にしていたところもある。

強制在宅勤務になったいま、帰宅したときに誰かいる家って、やっぱりいいのかな、なんて自分の幼少時代を思い出した。

両親が共働きで、帰ると6つ離れた高校生の姉が洗い物をしていた。私が小学生の時は、まだ土曜日に午前中だけ授業があって、土曜日は帰ると姉が先に帰ってきていて、焼きそばやおにぎりを食べながら、吉本新喜劇をぼーっとみてたっけ。

平日は小学校から帰ると誰もいない。1番下だった私は、授業が終わるのも1番だった。必然的に帰宅すると家に1人。9つ離れた兄はすでに他県の大学へ。3つ離れた姉は、後から帰ってくるが部活をやっていたので遅かった。

隠してある鍵を取り、玄関の鍵穴に鍵をさし、誰もいない家の扉を開け、たまにミシミシいう部屋にびびりながら、テレビをつけて、お菓子をたべ、たまにチビ(飼い犬、雑種)を見に行きながら、誰か早く帰ってこないかな、と思っていた。不安だったんだな、と今思い出した。

子供達にとっては、やっぱり嬉しいことに違いない。かくゆう私も、朝バタバタで作っていたお弁当ではなく、暖かい夜ごはんを作り、子どもたちと食べるのをとても楽しんでいる。たとえこの野菜はイヤ、この味はなー、といわれて食べてもらえなくても。

晩ご飯ができるまでの間の、子どもたちの過ごすそれぞれの時間もまた、わたしの癒しの空間になっている。本のページをめくる音や、なにかを書いてる鉛筆の音が心地が良いのだ。

部屋から見える夕方の色も、オフィスからみるものとは全く違う空気を纏っているから不思議だ。

増え続ける感染者で、たくさんの不安があって、なにが起こるかわからない毎日、やっぱり家族が家にいる、というだけで安心感がある。

仕事をして毎日あくせく働いていると、思ってなくてもきっと忘れてる絆や、なにか大事なものと、家に一緒にいる、という当たり前の有り難みを、再確認させてくれたとわたしは感じた。

それは皮肉にも、死者を出しながら世界規模で勢力を増す見えない敵がもたらした、唯一のアドバンテージだ。


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