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良心の声に従う

良心の声に従う時、多くの制約を受け入れることになる。
完全に良的な存在になることは、人間には無理だし、間違いを犯すことによって進化してきた部分もある。

僕の中の良心の声は、僕のありたい姿からきているのかもしれない。それらの声は、「誠実であれ」「素直であれ」「思いやりを持て」「正直であれ」というようなことを僕自身に課す。酔っている時や、自暴自棄な時は、この声を無視することの罪悪感から逃れることができるのだけど、自分がニュートラルな状態に戻った時に再度罪悪感を感じる。

この声に従うことは、僕に多くの困難を提示する。疲れてる時や、自分の現在の快適な領域を超えるような要求をされた時に、良心の声に従うことは短期的にはかなりの負荷である。自分の制約に縛られて、自分の心がいっぱいいっぱいになる時もある。それは、自分で自分を苦しめているようにも見えるし、楽しい人生には見えないかもしれない。

でも、人は根本的には「善でありたい」という欲求を持っていると信じている。だからこそ、僕は苦しくてもその声に従っている。善であることは、ただの社会適合であって、その方が生きやすいから、それを選択しているだけで根本的欲求ではないかもしれない。しかし、ある程度の「善」とされるもののイメージを私たちが共有できていることと、悪を働いた時に罪悪感を感じることは、人間は本質的に善を求める存在であることの証であると信じたい。

「影響力のある人」と「良い人」であるかどうかは、あまり相関しないのかという疑問からこのことを考えた。特徴的で目立ちやすい人がバズり安く影響力を持ちやすい世の中だけど、より良い存在でありたいという修行僧のような生き方をする人を僕は応援したいし、自分自身もそうでありたい。

自分自身へのコミットメントとして。

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