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「誇り(プライド)」

私的感覚ではありますが、誇り(プライド)という言葉には使い方によって良い意味と悪い意味に変わるように思います。

誇り高き人や日本人としての誇りの”誇り“は何か立派な印象ですが、学歴が誇りってなると、劣等感の裏返しの優越感を求めた脆弱な鎧を表す”誇り“になり、誇りを失う“誇り”は人として持っていたいもの(自尊心が近い)になります。

他人が勝手に作った物差しに振り回され苛まれた劣等感の裏返しの優越感を求めた鎧としての“誇り”ほど社会や文化の発展を妨げるものはないと言えるでしょう。同時に劣等感を抱いたまま誇りを持てずに安全地帯に引き篭もったまま隠れてコソコソと石を投げる卑屈さも、発展を妨げる存在です。

そもそも、苫米地英人氏の書籍の一節にある「大多数の人が常に世間の目を気にし、本音に蓋をし、他人の物差しで自分の価値を推し量る。周囲から変な人と思われないよう、権威やメディアが作った価値観を受容して、それを行動規範にして生きている。」というような奴隷的な生き方では、良い意味での誇りなど持てるわけもありません。

先日の投稿に書いたように、思考におけるボタンの掛け違い(間違った思い込み)に気付きさえすれば、性根の卑しさが露呈した、日常の当たり前のように足の引っ張り合いをしてしまう、行動しない人から転換できるわけですが、その鍵が、他人の物差しに左右されない、過去の自分に縛られない、自らの奴隷解放であり、良い誇りを持つ、つまりありたい自分に向かって最善を尽くしている状態に誇りを持つように思考軸を転換する。そうすれば、自分より優れた人や自分にできない事が出来る人が、妬みや羨みの対象から、学びの対象に変わるわけです。

そして、できることならば、より社会に役に立つ方向に向かえば幸せ間違いなしです。

つい先日、企業の新人研修を担当する友人の投稿に、今の若者はどんどん進化しているという感想がありました。最低でも、奴隷に同化することを強いる事なく、無力化しないでもらえれば、まだ日本にも希望が持てます。

#共倒れ日本人は嫌
#より良い自分


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