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シラノ・ド・ベルジュラックを観ました


シラノ・ド・ベルジュラックを観ました。
マーティン・クリンプ版脚本の、日本演出版。
東京芸術劇場プレイハウスにて。

公演詳細は公式ページをご参照ください。

初日の舞台写真をたまたまTwitterで見かけて、
面白そうだなと思ってチケットを取って、

3連休初日の2/11日に観て、
12日はシアタークリエでSLAPSTICKSを観て、

どうしてももう1度シラノが観たくて、
13日にもシラノを観ました。

3連休が終わりました。

谷さんの日本語は音の響きが美しく、しかし言葉の意味にハッとさせられたり、時に赤裸々に欲望や感情が露わになり、時に自分自身の言葉を、時に他人の言葉を語る。その表現もラップから詩、歌、ボディパーカッション、方言、そして落語まで多様な手段で言葉とリズムが、その時々の語る内容、状況で変化していきます。

言葉。空間。想像力。戦い。個人。社会。色々なものに思いを馳せた観劇でした。


ちなみに私はNTL(ナショナルシアターライブ)でやっていたマーティン版シラノを見ていません。
なんてこった。大変悔やまれます。
アンコール上映しないかしら…。

なんだか長くなったので目次もどき。


シラノの登場人物ってこんなに生々しかったんだ

思いつくままに書きますので話があっちこっち行きそうですが、感想を書いていきます。

古典版のシラノは、吉田鋼太郎さんや鹿賀丈史さんで観たことがあります。そちらのシラノでは思わなかったことで、今回大きく感じたのは主人公側の人々ー、シラノ、ロクサーヌ、クリスチャンの美しくない部分。

シラノって顔にコンプレックスはあるけれど、嫌なやつを舌と剣で爽快に倒し、惚れ惚れするような詩の世界を持った寂しいながらも素晴らしい人。と、いう印象があったのです。
でも、シラノのやったことってめちゃくちゃエゴじゃん????シラノって傲慢だったんだな。って、強く感じたというか気付かされました。

たとえ下手くそだろうと客が求めて主催者が決めた役者を、自分の好みのために喧嘩を売って脅して、無理矢理舞台から引き摺り下ろす。
自分に勝てない相手に喧嘩を売っては敵を作り、更に大きな敵を求める。
これはシラノにとって、きっと一種の自己防衛。
傷つけられないように、先に自分で自分を傷付けて、傷を浅くしておく。
攻撃を受けないために、自分から先に攻撃をしかける。
そして自惚れと自虐。
シラノの世界はシラノでいっぱい!!!

大きく動き、裏声を使い、派手に立ち回る道化のシラノ。
シラノが自分で用意したステージ。

弱くて、我儘で利己的で、残酷で優しいシラノが、人間的でとても好きでした。

台詞回しが美しく、うろ覚えなのですが登場してすぐの「それとも、やるか?」の繰り返しの台詞で、他の登場人物から抜きん出た言葉の感覚を持っているキャラクターだと感じることができました。歌うように話す人。
しかし人前に出る時以外は弱々しく滑稽に振る舞う。
マイク捌きも美しかったです。

クリスチャンも田舎育ちを気にしていて他人を信用せず、喧嘩腰で登場する。
自分でやると立ち上がっては、こんなことできなくても良いだろうとヤケになる。
ロクサーヌは身勝手で理想家で、断定的な人。
今の女子大生!という等身大なロクサーヌ。
可愛くてチヤホヤされて、他の子よりも周りが見えるから高飛車だけど籠の鳥。でも籠を壊そうという強さがある。
この2人もやっぱり自己防衛のための性質や環境がそうさせたものだと思うけど、それでもやっぱり印象としては想像していたシラノの登場人物と比べてエゴばっか!!!

そういうエゴばっかりの愛しい人たちが作品の中でしっかり描かれていて素敵でした。
シラノが冒頭も最後も「僕が悪い」と言います。
その通りだと思いますがこれを言うシラノはとても魅力的です。
理想的でもなんでもない、一人の身勝手なロマンチスト。


虚と実とシラノの夢

セット、カッコよかったですね…。
NTL版の舞台写真を見ると、デザインは違えど、構成要素はどうやら同じみたい?
壁、階段、蛍光灯。無機質でシンプルな空間。

小道具の剣もなく、マイクと、シンプルなプラスチックの椅子以外に無いこのセットの上で殆どのシーンが展開されます。
(シラノの鼻さえもメイクしないのですが、この話は後ほど。)

でも、そのまま終わるのではなくて、最後のシーン。戦争が終わって15年後のカフェでのシーンだけ、カフェのセットがリアルに飾られます。

1幕でもカフェのシーンはあるのに、そこでは椅子のみを使っていた。それなのに、2幕の最後のシーンでだけはリアルなセットを出すと言うのはもちろん訳があると思うのです。

シラノの最期のセリフに、これまたうろ覚えですが「本当は、空想の世界に浸っていたのは僕。棒を持って走り回っていたのは、彼女の方だ。」というものがありますが、この台詞が大きな鍵になるのかなと思います。

1幕のカフェでシラノとロクサーヌが幼い頃の思い出を語るシーンではロクサーヌが空想ばかり、シラノが駆け回っていた。これは会話の中での自然なやりとりで、嘘をついて遊んでいるようにも見えません。

そして2幕での最期のこの台詞はシラノの独白と私は取ります。ロクサーヌは反応していない…と思います。

ここでいう「空想の世界にばかりいたシラノ」と「棒を持って走り回っていたロクサーヌ」はつまり、
シラノはロクサーヌとクリスチャンのためではなく、自分自身のために手紙を描き続け、敵を作り続けた。シラノの詩は、剣は、シラノが自分の居心地の良い空想の世界を作るためのものだった。
そして、社会と真っ向から向き合って戦っていたのはロクサーヌだった。
そんな意味ではないかと感じました。

ロクサーヌは身勝手だけれど強い人。彼女は精一杯戦うけれど、そのうえで傷つくことは恐れない。

でもシラノの夢は、クリスチャンが死んで手紙も途絶え終わってしまった。
夢の続きをなんとか生きようとして、シラノはまだシラノを演じて喧嘩ばかりしているけれど、
このシーンでは「夢ではない」「現実の」風景がセットになるのではないか。
それまで言葉でしか示されなかった、詳細は観客の想像に委ねられていた小道具や風景が示されるのは夢との区別のため?
というのが私の感想です。

お芝居、特に劇場でのお芝居は虚と実の入り混じる世界。嘘は時に本物よりも本物らしく見え、虚が実を描き、無限の可能性をその記号性に秘めていると思います。

映像が映し出される大きな壁。前後で2枚のパネルを段差をつけて降ろしていて、シャッターのようにも見えました。
そういえば下だけ開いて中を潜って出てくるみたいな使い方はしてなかったけど、あっても面白そう。

階段は一段が高く(椅子とほぼ一緒くらいだったので42㎝くらい?)、時に戦場、時に劇場。その隙間から這い出てくる演出も、足踏みのリズムの力強さに似た、ガスコーニュの面々が持つ地面からのエネルギーが感じられて良かったです。

今回美術を担当された石原敬さん。昨年、日生劇場でジャック・ザ・リッパーを観劇した際にセットの美しさと作品世界の魅力的な表現に感動してお名前を覚えていた方でした。
調べたら会社のホームページに担当された作品が並んでいて、これも、これも!???と今まで無知だったことを恥じました。
今後ここに載っている作品を沢山観ていきたいです。


詩と水

2幕。戦地にて。
ロクサーヌと共に食糧と水を届けに来たレイラが疲弊した兵士に詩をせがまれて聴かせるシーン。

この作品で1番好きなシーンになりました。
ひたすらに美しい。

小道具と同じように、彼女たちが持ってきた食糧も舞台上には存在せず、客席側にそれが置かれているという想定でシーンは進んでいきます。
その、視覚の情報を持たない「水」と「食べ物」。
くり返される「水を飲ませてやれ」の台詞。

レイラが一言ずつ、丁寧に言葉を紡いでゆく時、それを聞く皆が乾ききった砂漠で雨を浴びるように、少し上を向いてレイラの言葉を身体に染み渡らせているような気がしました。

ああ、詩は水なんだ。
命を潤すもの。精神を潤すもの。

飢え、渇けば人は荒れる。
1幕で愉快だったガスコーニュの仲間たちは悪態をつき心も荒れていた。食糧と水、そして詩を受け取ることで彼らは気力を取り戻す。「伝統的なレモンタルト」も、もしかしたら詩のことかも。

ド・ギッシュ伯爵はきっと、あの時まで渇いていたのだと思います。
彼は渇ききっていて、そして水をもらった。
やっと心が潤った。そして渇いていたことに気付いた。
そんなふうに見えました。

皆に詩が染み渡っていく美しいシーンです。


言葉を持たない人

あれは誰でもない。ただの男だ。

あとから公演を思い返すうちに、じわじわと脳を侵蝕してくるシラノの台詞。
「クリスチャン!」
シラノが「誰でもない男」と言ったその、倒れた兵士に
ロクサーヌは彼の名前で呼びかける。
でも封筒ではなく中身が本物ならクリスチャンは誰?

その直前、ロクサーヌへ宛てた手紙のことでクリスチャンに責められたシラノは(しかしこのクリスチャンの言い分は至極真っ当。週に1回の約束を、彼女の夫に黙って1日に2通も手紙書いてたとか、どう考えても異常だし駄目すぎる…)、
「その綺麗なルックスがなければこうはいかなかった」と言います。

が、こんなに一緒に過ごしてきたシラノでさえ、クリスチャンを表す言葉は
「その綺麗なルックスがなければ」。
それはないだろうに…。

観客にしか聞こえない心の声としての独白すら、クリスチャンには与えられていません。
ミュージカルなら胸の内を吐露する歌があってもおかしくないポジションの役ながら、彼の心はついに、最後まで誰にも語られることなく幕は閉じます。

詩を読めないことは、あの世界、あの人々の中では言葉を持たないことに等しい。
じゃあ、言葉を持たない人はどうしたらいい?

クリスチャンの便箋は白紙なのか?
透明のインクで書かれているだけじゃなくて?
私たちの知らない言葉で書かれているだけじゃなくて?
彼は誰でもないのか?ただの男?
彼は空っぽなのか?

彼は咄嗟に飛び出しただけかもしれないし、
何か役に立とうとして敵に向かっていったかもしれない。
死ぬつもりだったかもしれない。

でも、彼の言葉は語られなかったから、あの最後の「死」が、彼の言葉になってしまったのです。

クリスチャンの声は、誰が聞いた?
誰が聞こうとした?

シラノですら聞かなかった。彼を見ようとしなかった。それはシラノが彼自身のエゴで動いていたから。ロクサーヌのことを思うならば嘘を通せないでしょう。クリスチャンのことを思うなら、本当の彼を理解しようとしたでしょう。
でもシラノには自分の想いを伝えることしかなかったのです。

そしてクリスチャンは死んでしまった。
何も言葉を残さないままで。

死んだ人間の言葉や心は、生きている人間の望むように解釈されると思います。それが意図的であれ無意識であれ。
生前に言葉を残した人はまだ良い。残していない人は?

クリスチャンはいなかったことになる?
「死んだ」ことが彼の言葉となって残された人々はそこに、自分の望むクリスチャンを作り上げる?

声を持たない人の封筒は空なのか?という問いが、頭の中を巡っています。


ちょっと逸れますが戦場に飛び出す直前に、
「二人の男が一人になって同じ人生を生きる。そういうことはできないのか?」
という台詞とともにクリスチャンがシラノにキスをしますが、これがまたシラノの顔を固定して正面からけっこうしっかりと、唇を合わせるキスなのが印象的でした。

シラノへの尊敬と同情と妬み、ロクサーヌへの想いとは別の、そんな複雑な感情が爆発した結果、1つになりたいという衝動になったのは理解できます。
しかし、それだけでなく、「唇を重ねる」ということが、この芝居では他でよりも意味を持つのではないかなとも思いました。

言葉は唇に乗せるもの。唇や舌というのは言葉と強い繋がりをもったイメージだと思います。
シラノと唇を重ねることで、彼の言葉を自分の唇にも移そうとするような、そんな印象がありました。
もしくは自分の魂とシラノの魂を互いに流し込むような。口って、そういうイメージを持った器官であるように思います。


言葉と肉体

今回のシラノでもう一つ、今まで見てきたシラノと違った印象を受けたのは生々しい「性」と「肉体」を示す言葉の多さです。
猥雑な俺を削除しないというのをそのままに、というか猥雑な俺、あけっぴろげ!

そんな官能小説みたいな表現でアプローチすんの?という印象もありましたが、嫌いではありませんでした。

「あいつらは私を性奴隷にしようとしてた」とかは露骨な上にビジュアルの現代性とミスマッチな感じがして、言い方が違っても良いのではと思いました。
が、シラノの告白での肉体描写や、キス、ロクサーヌの「あの人とだけヤってない」は「言葉」という形を持たない理想的なものと対照的な、「肉体」という実際にそこにあって触れることに意味がある欲望、愛に直接触れる行為かもしれない。

戦場で読まれるレイラの詩にも、死に抱かれる描写がある。

言葉を愛する彼らも、そうでない多くの人々も生々しく求める性の温度の強さ。
そしてシラノが手に入れられないもの。

シラノの冒頭ラップなんかも下ネタが目立つし、ガスコーニュのシーンでは皆が上裸になって力強いボディパーカッション、足踏みで仲を深め士気を高める男性社会の「裸の付き合い」といった印象で、やはり作品全体で言葉と対比になる肉体のイメージも強かったです。

詩が理想や夢、武装のための武器ならば、肉体や顔の造形、接触はリアルな欲望、現実、本音のところ皆が求めるもの…?


拍手 自由

ダブルを演じ最期の一席をやり終えて、主人公としての台詞を終わりまで言うことなく命を終えたシラノ。
明かりが消えて、点いて、カーテンコール。
この芝居が終わった時に、何故だか思い出した台詞があり、できるだけ沢山、沢山拍手を送りたい気持ちになりました。

シェイクスピアの「テンペスト」。「嵐」と訳されることもあるこの作品の最期に、裏切りによって国を追われ、無人島で12年を過ごした主人公のプロスペローが客席に語りかけます。

ここに私を留めようと
ナポリへ送り返そうと、皆様のお気持ち次第。

(略)
お手を拝借。皆様の拍手の力で
私のいましめをお解きください。

(略)
祈りによって救われないかぎり
私の幕切れに待ち受けるのは絶望のみ。
祈りは天に達し、神のお慈悲に訴えかけ
すべての罪は許されます。
皆様も罪の赦しを請われるからは
ご寛容をもってどうかこの身を自由に。
(ちくま書房シェイクスピア全集「テンペスト」松岡和子訳より)

「どこまでも自由に」最期に語ったシラノ。

この拍手で、シラノを自由にできるだろうか。
彼を呪縛から解放してあげられるだろうか。
プロスペローの台詞がよぎり、そんな気持ちで拍手を送りました。



おまけ 付け鼻は(不)必要か?

そのままの意味の問いです。
今回の演出では、というよりもロンドンでのマーティン版のシラノでは、言葉を際立たせるために、セットや小道具、衣裳の要素を削ぎ落としてシンプルにしていったそうです。(パンフレットにそのような内容の記載がありました。)

無機質、シンプルでいて強いセットは美しく、想像の世界を膨らませ、そして前述しましたが、無機質な空間に最期のシーンだけリアルなセットを作ることで、シラノの夢とリアルを描き出していると思います。小道具がなかったからこそ、剣は言葉であったし、水と食糧も言葉に見えました。

しかし、シラノの鼻は、本当にビジュアルでの説明がゼロで良かったのかどうか。という疑問があります。
というのも、シラノを演じる古川さんのお芝居は素晴らしく、外見にコンプレックスを持つシラノをとても繊細に表現されていたと思います。

特に外見について話すシーンや喧嘩のシーン、ロクサーヌやクリスチャンと話すシーンでは付け鼻がなくとも、彼のコンプレックスが想像できました。
何度も何度も泣かされました。
しかし、その想像力で、観客が最後までずっと「鼻」を意識し続けるのは難しい。

たとえ醜い付け鼻をしていたとしても、だんだんと慣れて気にならなくなるくらいだと思います。でも佇むシラノの横顔に、笑う影に、時々はっとすることはあると思います。
役者が特別美しい造形でなくても、言葉を中心に据えたものだとしても、シラノが気にしているのは見た目。外見です。

近年では生まれ持った特性ではない髪の色や肌の色をメイクアップしない、ルッキズムによる役の表現を避ける芝居は少なくありません。

でも、だんだんと彼らに同情し涙し愛するとしても、
例えば「オペラ座の怪人」で、ファントムが初めて仮面をとった時。
例えば「WiCKED」で緑色の赤ん坊が掲げられた時。
「劇中で醜いとされる役の外見がキーになる作品」において、
初見の観客が一瞬ひるむ、その感覚は無くても良いのだろうか?とも思います。

付け鼻では醜さを具体的に指定してしまうことになるのであれば、何かシンプルな、それこそ無機質なものでも仮面を付けるのはどうだろうか。鼻の一帯か鼻から口にかけてを覆うタイプでも良いし、何か記号的なメイクでも良い。

シラノを醜くする必要まではないとしても、
他の登場人物とシラノを視覚的に差別化することで、
大勢で楽しんでいるように見えるシーンでも
「見た目」という点で彼は孤立していることが明確に分かるのではないだろうか。

例えば「ノートルダムの鐘」では、身体と顔の歪んだ怪物とされるカジモドは顔に黒い塗料でシンプルな汚しを、醜い姿の記号として入れます(それがラストには登場人物みなが同じ塗料で顔を汚して人々の醜さとは何かを問います)。
これはとても効果的な方法で、醜さをリアルに再現しなくても、彼と周りとを視覚的に差別化し、彼の見た目の異質さ、孤独を浮き上がらせます。

シラノの古川さんは整った顔立ちをされていますが、特別整っているからどうというよりも、周りと同じノーメイク(特殊メイクなしの意)だと、
3時間の間シラノの根底にある劣等感をずっと意識していることは難しい。無意識のうちに忘れてしまう。

むしろ、シラノの言う言葉、仕草、それぞれに、彼が美しいことによって、異質なアイコンが視覚的に存在しないことによって、無意識のうちに客席の感じ取る印象がプラスになってしまう気がします。

シラノは魅力的な人。みんな彼と友達になりたい。でも彼と恋はしないよね。というような残酷さが、作中のあの世界には少なからずあると思います。
客席の受け取るイメージが美しさによって無意識にプラスに働くことで、シラノにとっての、「俺が愛されることはない」という孤独を納得しづらくなってしまう気がしました。

付け鼻は必要か?という問い、これは作品ごとに答えが変わってくると思います。
私は、今回のシラノを観て、シラノのコンプレックスが見た目である以上、それをリアルに作る必要はなくとも、視覚的に何かで示すことはあった方が見やすいなと感じました。


思いつくまま書いた、まとまりのない長文感想で失礼しました。
ここまで読んでくださった方の根気に感謝。
このページ開いてくださった皆様ありがとうございました。

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