「知性」への歪んだ憧れ

インターネットの普及によって「知識」の価値がグッと下がったように思われる。物知り博士の価値は下落する一方だ。ググればすぐにわかるようなことをどれだけ知っていても、その組み合わせから導き出されるもの、自分なりの考察を提示することができなければ意味が無いように思われている。必要とされているのは「知性」であり、「知識」ではない。つまり求められる知的レベルが上がっているように見えるのだ。

そういった「知性」への憧れやコンプレックスが人々を池上彰に向かわせているのだろう。

その分、それに取り残された人々は未だに「本を何冊読んだ」「映画を何本観た」のように「量」に価値を置いてしがみついている。もちろん、量をこなしていないと見えてこないものがあるのでその行為については否定しないが、その知識を持たない人を「こんなことも知らないの」と見下したりバカにする行為は空虚だ。なぜなら知ればいいだけの話だから。

また、それとは別に前回のpostで触れたが、昨今はツイッターでも「逆張り」のような単語が散見されるようになった。有識者の言論に反論すれば賢く見えるような感じがする、アレである。しかし一般に、有識者や専門家の言論には反論し易いものなのである。なぜなら彼らは概ね「断言する」から。

彼らがそう断言する際に切り捨てた、あるいはあえて言及しなかった諸々について読み手は考察し、敬意を払わなければならない。しかしながら賢く見られたい有象無象は「そうとは限らない」と言いさえすれば自分が何かを考えているように見せることができると思っている。これはもはや「逆張り」とは言えない。相手方の言論にのっかっているに過ぎず、そこに知性は無い。要は受け身なのだ。

あらゆるSNSに登録し、ニュースサイトやアプリを頻繁に更新する姿は一見、自発的であるようにも見える。しかし、発信する側が選択した情報をさらに自分好みにフィルターをかけたものに茶々を入れるのでは到底、能動的とは言えないだろう。

元来、「知識」は「知性」にとって必要不可欠なもので、「知識」によって「知性」は支えられているものなのである。それが「知識」を軽んじ「知性」にのみ重きを置いた結果、「知性」に対する歪んだ憧れが生じ、ものを考えない人間が増えている。正確には何かを考えているようであり、本人すら何かを考えているように思っているが、実際には考えられていない人間が増えている。害を為さない虚栄心であれば問題無いのかもしれないけれど。

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