いろいろなんじゃ

どうせ誰も読んでないんだし、もっとちゃんと誰にも読まれたくないようなことを書く。全部フィクションだし大丈夫。


人を伏し倒した。蹴飛ばした。

ちょっと待てよ、少し時間を遡ろう。私には私の熱烈なファンがいて、そのうちのコアな人で、本当にもう私のことが大好きすぎて、街中で私を見かけたらうっかり、轢き殺すんか?ゆうくらい車で横をビュンと走り抜いてしまったり、横断歩道を歩いている私に低レベルなナンパか?ていうくらい雑な声かけを決めてくれるロン毛のかっこいいお兄さんがいる。血走ってて素敵な目をしてる


ちゃんと、靴を脱いでから、それもお腹ではなく肩を蹴ったし、植栽に向かって倒したので怪我はしてない。

私はいかなる理由でも、私自身を正当するには躊躇する。

ので、事件そのものの記述は控える。どう書いても、その文は私を助けることになるだろうから。


激しくなった動悸をおさめるため、家がバレないようにするため、遠回りして帰った。こういうことはとても久しぶりだった。こういうことというのは、意図して人を傷つける行為のことだ。非常に荒れた中学と高校であったため、シビアで物理的なコミュニケーションが絶えなかった。私は大抵やられる方であったけど。


文がまとまらない。


男性の呪いについて書く。
『オイディプス王』はギリシア悲劇の名作とされていて、いまなお、その輝きが失われていないのは、男性が、男性であるがゆえに課せられている呪いについて的確に記述しているからだ、と私は考えている。

雑にあらすじを書くと、オイディプス王は、母とセックスし、父を殺す。もちろん誰だってそうしたくはない。オイディプスは知らず知らずのうちにこの二つの罪(何に対しての罪だろう?)を起こしてしまう。

男性性の呪い、それはすなわち、そうしたくなても、絶えずなにかを破壊せざるを得ないということだ。女性性が「与える」ことで世界と関係性をなすのに対し、男性は奪うことを通してでしか世界と関われない。原則的に。(もちろん、女性はまた別の「女性の呪い」をかけられているのだが、ここでは語らない。)

私が私のジェンダーに対して抱く最大のジレンマはこれだと思う。

いくら、極度に男性的な言葉遣いを避けても、中性的な衣服に身を包んでも、私は逃れようもなく男性という呪いを課せられている。そのことをごまかすことは決してできない。

奪うこと。それが私の世界の基調をなしている。


もういいやてきとうで。最後に猫の話でも書く。

飼っていた猫の目が見えなくなったのは私のせいです。風邪を引いてたのは見てわかった。調子が悪そうでご飯も食べない。でもどうすることもできなかった。お金もないし、動物病院がどこにあるのかも調べられない。そして最悪なことに無気力の引きこもりだった。治るだろうとも思っていた。

でも、猫にとっての風邪は生死にかかわる大病らしい。そのときは知らなかった。それで数日経って、風邪が治る代わりに、グレの目は白く濁ってしまった。悲しくて、でもどうしようもできなかった。祈るように背中を撫でた。背中を優しく撫でているうちにいつか自然に治るのではないか。

悲しくて毎日泣いていた。孤独というより、自分の無力さに泣いた。思い出すと今もなく。ひたすらに背中を撫でた。グレが行きたいところがあれば抱っこして連れて行った。目が見えなくなるのはどういうことなんだろうか、毎日考えた。

困ったのはグレがなかなか水を飲もうとしないことだった。お皿を目の前に出しても、自分自身が飲んでみて、「ほらここだよ」って言っても飲もうとしない。「これ、なんか違う気がするんだけど」ていう風に訴えかける。目が見えなくなってよく鳴くようになった。か細い声。

グレは彼女が思う、本当の水を探し続けている。でも、どこにもないのだ。水があることがわからないのか、お皿の水のことが信用できないのか。とにかく、お皿を変えても、場所を変えてもダメだった。
困ったと思いながらだっこしてよしよししてると、自分の口のあたりを鼻でふんふんとする。2日くらい水を飲んでいなくて、本当に喉が乾いていたんだと思う。もしかして、と思ってよだれを出してみると、グレが舐めた。あ、これなら飲んでくれるんだと安心した。

それからは自分の口から水をやっていた。グレは、私の口に水があると学習したようで、喉が乾けば私の口あたりをふんふん寄ってくる。よだれを舐めさせていたのは確か最初の1,2日だけで、途中からは口を大きく開け、口の中から直接水をやっていた。私はよだれだとかわいそうだと思って、グレに水をあげる前に自分でコップの水を含み、それをあげた。

キスしてるみたいだった。口移しだから、キスなんかよりもっとえっちな感じかもしれないけど。当時、人間より、動物と触れ合っている時間のほうが長かったから、恋人みたいだと思っていた。みたいというか、ほんとうにそう思っていたのかもしれない。とにかく、それくらいの親密さだった。

自分はこの10代のころの思い出が大切すぎて、というより思い出と呼べるようなものがこれくらいしかなくて、いつも自分の世界観の源をここに求めてしまう。

生きていて、たびたび気づくことは、私は引きこもりだった頃にやっていたこと、考えていたことを反復しようとする癖がある。まあ人間はみんな10代の時期を反復したがるのかもしれないけど。

人と、すぐえっちなことをしたくなるのも、そういう関係性しか知らないからだろうか。友達という価値観が信用できないから、全部恋人にしたくなるんだろうな。恋人という関係性は、私が唯一信用できる関係性だから。親とか、友情だとかいった無償の愛って嘘でしょう?て思っちゃう。知らないから

男でも女でも関係なくって、親しく思える人にはみんなセクシーさを見出してしまう。友情としての好きと、恋愛の好きとを、まったくの同一視してしまっている。好きの延長にえっちしたいがある。仲が良くてもしたくない人も、まれにいるけど。

雑に倫理を振りかざすことはとっても便利なことで、当然私のような人は許されないということになる。便利な倫理を信じようとしてもうまく没入できないことが問題だ。

もうこういった問題から距離をおきたくて、地元へ戻ったというのもある。男性も女性もみんな魅力的で、せまれば応じてくれる人が多いから。さいてー。カオスな人間関係を清算したかった。実際には逃げただけだけど。彼らから裏切られる前に、自分から裏切ってやったのだ、とも言えはしないか。

さいてーであることを自覚しながらも、ひらき直るor悔い改めるのどちらの道も選択しないところが私の一番さいてーな部分。

もうおしまい。3日くらいにわたって書いた文だから最初の方と最後の方でテンションが全然ちがうな..。例によって推敲はしない。

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