生きるということ

だれの死も願わずに生きたいというのに、殺される夢と殺す夢しか見ない。夢の中で誰かを殴ったり蹴飛ばしたりするたびに内臓が冷たくなる。なぜかというと、そこに少なからず満たされる気持ちがあるからだ。振り払うことが難しい。復讐心だと思いたい。自分の人生を誰かのせいにしたくてたまらない。自省も規範も哲学もなければ自己中心に最適化されるのは当然だ。しかし、その人間が私でないとなぜ言えるだろう?私が殺しているのは私かもしれない。

それに比べたら殺される方は救いともとれる。誰かの手によって唐突に終わせてほしいとずっとずっと願っている。それが楽なことだと知っているから。
そうでなければ朝食を選ぶような気軽さで死ぬのだろうなと思う、人は。死にたくて生と死のギリギリの縁に立っていたとき、全てが終わったらここで首をくくろうとだけ決めて心を落ち着かせていた。それは深い決心などではなく、自然な選択肢として私の頭の中に根を下ろしていた。よく言うように「ぼんやりとした霧の中」を泳いでいた。どちらへ進めばいいのか判らない中、おぼろげに光るものが見えたならそれがなんだっていい、前へ進むんだから。
でもいざ全てが終わったら?何もかも虚しくなってしまった。その場所が美しくて、私だけでなく、いろんな人の助けがありその場所があるのだと理解し、死ぬことはできなくなった。美しさに救われた。大学を卒業するときの話だ。すこしだけ浮上して、それからまた死のどん底だったけど。

生きているものであふれてる日常世界とのギャップが激しくて、死のことを書くのは馬鹿らしい。いつか、はたと気づいて愕然としたけどもう十数年も死の観念に取り憑かれている。たぶんでも、具体的な死ではなく、単に死を救いのタネにしているだけではないのかな。

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