1月号のユリイカは『書体の世界』特集です。

二年前までの私なら秒で買ってたね、この夢のような特集。本屋でパラっ見た所、金属活字時代のお話が多めぽかったのがなおさら私のハートを鷲掴みにしただろうよ。

漢字圏言語の書体を作るのってすごく難しいのよ。日本語だって、常用漢字だけでも5,000字。5000字だけだと、無い文字も少なくなくて、一通り揃えようとしたらだいたい2万文字。もちろん使いまわせるパーツ(部首とか)は多いからひとつひとつを一から作るわけではないけど、それでもすべての文字を揃えるに必要な労力はとんでもないはず。

ただ作るだけでも大変なんだから、違和感なくさりげなく、読字を邪魔するほど華美ではないが、ふと目に入った美しい言葉を装飾するには十分に美しい書体を設計することは人間離れしていると言っていい。私の母校で教鞭をとっていた過激派のデザイナーは「この世に美しい日本語書体は二つのみ(意訳)」と言ってのけた。彼の教育手法を代表とする、出身学科のあまりにも広がりを欠いた教育に反発を覚えていた私は、彼の意見の反駁を提出しようと、彼が指定した学科の(半)公式となった書体を2度と使うまいと決めた。とんでもない天邪鬼である。

私は様々な書体の可能性を試した。新しいもの、古いもの、伝統的なもの、革新的なもの。まず、内的な研究として自分の名刺を100パターン作ろうと決めた。サクサクと作業は進んだが、5,60パターンで手が止まってしまった。私には美しい文字の組み方についての教養が不足していた。作業の停滞はそのことを知らしめた。

日をそれほどまたかず、私は、私同様に前述の講師の教え方に疑問を抱いていた別の講師に接触し、教科書となる本はないかと尋ねた。教えられた本は私には刺激が強すぎた。思いもつかなかったような可能性。伝統を踏まえた誠実なレイアウト、文字の扱い。そのような制作者たちの矜恃は私を突き動かした。彼らに共通するのは先達への敬意だ。偉大なる先達たちがすでに成し遂げた偉業に目を向け、発見し、大切にすること。それらの上に自らの抱える時代精神とを重ね合わせることで彼らの美しいデザインは生まれるのだ。そして、上から受け継いだ美の精神はさらに下の世代へと渡っていく。下の世代もまた、さらに下の世代へと遺産を明け渡すのだろう。そのような大きな時代の流れそのものが美しいと言っていい。私もぜひともそこへ参加したい。それが私の切実な願いとなった。

それ以来私は本屋ジャンキーだ。ひとつの本は、また別の世界への入り口となっている。どういった本を買えばいいかは、すでに持っている本が教えてくれた。あらゆる美しい本を見た。また、定規を片手に測りまくった。紙面に対してのほどよい文字の大きさ、行間、天地左右の余白。それはもう測りに測って測りましたとも。

そうして私は学科で1番文字に詳しい人間になりました。3年生のとき、Adobeの日本語ローカライズ担当トップの人の授業で提出した課題が参考作品に選ばれたことは未だに私の胸を温めているよ。その年は二人しか選ばれなかったのよ。えへん。

んでね、一通り文字にくわしくなった私が卒業して、同じ大学の研究室で事務やってた頃、学生の作品見て「あれ?なんかこの文字、異様ににキレイだな」って思った書体が前述の講師が言ってた書体だったって話。その書体の名前は本明朝。もうね、ひっくり返ったよね。認めざるを得ない美しさ。彼のいってたことは半分は当たってたね。当たってたのは本明朝の美しさ。当たってないのは、世の中には本明朝以外にも美しい書体があるってこと。




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なんで書体特集のユリイカを買わなかったのかについて書きたかったんだけど、まあいいか。

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