死にたいと消えたいと、自己愛

ネットを調べても答えが出てこないけれど、きっとこの悩みは私だけじゃない。そう思い、文章に起こす。メモ。

低学年のころに曾祖母が死んで、初めて死んだ人は燃やされることを知った。生きたまま燃やされることを想像しては、恐怖で身を縮こませて寝るのが日課だった。

初めての自傷は、親指の腹をカッターで切った。カッターの切れ味が知りたくてやったこの行為は、両親にとっては自傷以外の何でも無くて、めったに怒らない両親が焦りながら私を叱った。

中学生になって、リスカの代わりに手首をかきむしるようになった。かきむしると、皮膚の表面が擦り傷のようになるのだ。そこに水道のお湯を当てる。当時は自傷だと思っていなかったが、当時の私は痛みを求めていた。

消えたい、と思うようになったのはこのころだ。

死ぬのは違う。痕跡を残したくなかった。死ぬのは、私が死んだという事実が残ってしまう。そんなことではなく、消えたいのだ。私の影響によるできごとはすべてなかったことになって、「私」なんて最初からいなかったことにしたかった。
タイムマシンがあるなら、過去に行って、私が生まれないようにする。私は新婚旅行でできた子らしいから、その月をずらす。たったそれだけで、きっと私は生まれていない。その後に生まれた子は、私とは別人だ。

衝動的には、死にたいと思う。

日常的には、消えたいと思う。

そして、そんな私が嫌いで、愚かだと思ってるし、私のことを理解できる人はいない、なんて自己愛にまみれた思考でぼんやりしている。

ついったーで自殺サークル的なものに所属してみた。なんてことない、死にたいを好きなように呟くだけだ。どこの誰かもわからないし、死にたいの程度すらわからない。ファッション感覚で気軽に言っているのかもしれないし、呟いた直後にはいないのかもしれない。
ただ、所属すれば何かわかるのではないかと思った。

なぜ、消えたいのか。
死にたいのか。

仕事が忙しい時ほどその思いは無い。
ただ、忙しさが終わった束の間で、消えたいはやって来る。

私はきっと長生きする。生命線は二股に分かれているし、短い気もするけれど、長生きすると思っている。

これを書いている今も、どこか遠くに行きたいし、消えたいし、「私」が存在した事実が消せるならそうしたい。

死にたいわけじゃないけど、消えたいはずっとつきまとっている。もう、一生つきあっていくしかないんだろう。この思考は治療の範囲外だ。

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