好きなものは何年経っても好き

放送当時、テレビドラマに興味が無い私が食い入るように見ていたのが、「アンナチュラル」である。
現在1か月のうち20日近くを家で過ごしているため、Amazonプライムにてドラマを垂れ流しにしている。
そんなとき、おすすめとして表示されたのが「アンナチュラル」だった。

父との急な死別が未だに疼く傷となっている私にとって、「死」そのものが前面に出ているこのドラマは自傷行為のように傷を抉る感覚と、誰かに共感してもらいたい虚しさ、寂しさを埋めるようだった。

父の死を思い出しても、以前のようにパニックにはならなくなった今、改めて見返したらどうなのだろうか。
不安と期待がないまぜになりながら見始めて、5話に突入。5話はとくに号泣して、思い出すだけで胸が締め付けられる。

物語の展開がある程度思い出せるため、新たな驚きやハラハラ感は無い一方、素人目には匠の技と言いたくなる細やかな演出に、流し見ではなくしっかり見るべきだったと後悔。
一度復習のつもりでザっと流し、再度じっくりと見て、気づいた部分を改めてまとめようとは思う。

以下、蛇足。

井浦新さんの「クソが」が大好き民な私だが、ここだけの話、石原さとみさんが主演であることで「アンナチュラル」はシリアスになりきらないのだろうと思っている。

石原さとみさんは好きだ。世界的に美女と認められる彼女の、(おそらく)自身の魅力を最大限に引き出すために努力を重ねた、心身ともに美しい方なのだと思っている。(石原さとみさんへの愛を語ってしまうと話が逸れてしまうため、今はここまで)
一方、石原さとみさんは、何を演じても「石原さとみ」になってしまう俳優だと感じている。ちなみに、他には木村拓哉さんや綾野剛さんが私の中では分類されている。
上手い下手ではなく、何を演じても「これこの人の素顔なんじゃないか(以下、素顔タイプ)」と思ってしまうのだ。カメレオン俳優なんて言われる人は、表情や仕草だけではなく体型まで別人のようになる人もいる一方、この「素顔タイプ」は、役を自らのものにしすぎて同化しているのだろうと考えている。

「アンナチュラル」の場合、フィクションに迷い込んだ石原さとみ氏、という印象が私のなかにある。彼女は「アンナチュラル」の世界の住民であると同時に、現実世界の石原さとみでもある。
他の登場人物は、「アンナチュラル」でしか出会えないが、三澄ミコトは石原さとみさんを見れば面影がある。そんな印象だ。

じっくり見返すときには、石原さとみさんの表情も今以上に観察してみようと思う。

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