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寿がれて三十余年

無知は罪だという言葉が嫌いだと、以前の日記で書いたことがある。
先日、ハンセン病資料館に行ったときに、その言葉について人生で初めて真剣に考えたので日記に残しておくことにする。
資料館を見学している間、自分のこともいろいろと考えた。ハンセン病についてのインタビューでは、病を克服した女性がこんなことを仰っていた。メモをとっていなかったので一言一句正しくはないけれど、こんなことだ。
「父親が尊厳の根源」

わたしの両親は、わたしが小学生の頃に離婚していたらしい。
らしい、というのは、わたしが母の口から明確にそれを聞いた(ようやく聞き出したというほうが正しいかもしれない)のは、ここ2年くらいの話だからだ。
幼稚園の頃までは、わたしは両親とともに母方の祖父母が建てた古い一戸建てに住んでいた。あまり記憶にないが、日当たりが最悪でいつもじめじめしていて、すみっこが三角形にとんがった家だった。
父と母は職場恋愛だった。母は寿退社、父もほどなくして銀行を辞め、起業した。
幼稚園の年中くらいの頃に、父方の祖父母がマンションを建てた。4階建ての小さなマンションだが、わたしは家族でそこに移り住み、高校卒業まで暮らした。
両親が離婚したのは小学生なのに、高校卒業まで母と共に、父方の祖父母と暮らした。
情けない話だが、わたしは18歳まで「お父さんは仕事が忙しくて帰ってこられないだけ」という話を信じていたのだ。父方の祖父母が同居だったことも、その馬鹿げた話の信ぴょう性を増した。
まさかお父さんがわたしを捨てて、他に家庭を持ち、とっくのとうに子どももいるだなんて、夢にも思わなかった。
母は父のことを、一度も悪く言わなかった。父の現在の家庭にいるお子さんの年齢を逆算すれば、多分不倫だったんじゃないかと思う。しかも舅姑と同居。父が出て行ったあと、ローンの返済があるからと、家賃を請求されていたということも最近知った。二世帯のような造りで、わたしたちがいなければよそに貸せるのだから、と毎月十二万円。
わたしの感覚では不倫した息子のせいで離婚した女性と実の孫にそんな高額な家賃を請求するのが信じられないが、母には帰る実家があった。すぐにでも出て行くこともできたが、それでも母はわたしが高校を卒業するまで環境を変えないことを選んだ。父から振り込まれる養育費など、家賃を遥かに下回っていただろう。
今思えば、確かに母方の実家のほうが遥かに裕福であった。一軒家を都内に二軒建て、今はもう売却したが当時は別荘まで持っていた。当時はありがたみもわかっていなかったけれど、わたしは母方の祖父のお金で大学まで出してもらい、現在まで金銭的な苦労は一切せずに生きてきたのである。
父方の祖父は酒飲みでギャンブルが好きだったそうなので、祖母は苦労をしたのかもしれない。よく薄暗い仕事場で縫物の仕事をしていた。どこかから依頼があって縫物の仕事をしているらしかった。昔は洋服の仕立ての仕事で来ている男の人もいたけれど、気付けばいなくなっていた。
父方の祖母は料理がうまくて面倒見がよかったけれど、ちょっと嫌みっぽいところもあった。母が仕事で帰りが遅くなると、よく「お父さんみたいに、お母さんも帰ってこなくなったらどうする?」とわたしをちくちくいじめる人だった。
わたしは平気な顔で、「ふたりとも仕事が忙しいんでしょ」と答えていたけれど、部屋に戻って泣いていた気がする。今思えば祖母には別の孫がいたことになるので、そっちのほうがかわいかったのかもしれないし、祖父と喧嘩でもしてイライラしていたのかもしれない。今となってはわからない。今年十年ぶりくらいに祖母に会ったら、すっかりとぼけて子どもに戻ったようで、わたしのことは毛ほども覚えていなかった。
わたしが大学に入学する直前に、母はわたしを連れて実家へ戻る。距離的には数駅で、生活にはさほど支障もなかった。
わたしはその頃に、お父さん、もうわたしのところに帰ってこられなくなるな、と思ったのを覚えている。
何となく察するものがあった。両親はもう別れているのかも。でもわたしも母も、父と同じ苗字のままだった。はっきりと、お父さんとは別れたの、という言葉を聞くこともなかった。
わたしの思い出には、父の車で出かけた旅行や、小学校1年生のクリスマスの夜に買ってきてくれたテディベアだとか、そんなきらきらしたものが多めに残っている。
お父さんがわたしに連絡してくれないのは仕事が忙しいからで、本当はお父さんもわたしに会いたいに決まってる!と思い込んでいた。
何年も会わず、連絡がないことは客観的に見てちょっとおかしい、ということは、考えないようにしていた。

そういえば、こんなことがあった。
中学生のころ、当時の同級生の家に遊びに行った。その子のお父さんは仕事が休みで家にいて、一緒に昼食を食べた。
「ささぬまちゃんのお父さんは何をしているの?」
「仕事が忙しいみたいで、何年も会っていないんです」
そう言うと、同級生のお父さんは笑って、「そりゃ捨てられてるんだ!そうじゃなきゃ、帰ってこないはずないから!」と言った。
わたしは、何て失礼な人だとショックを受けたが、それよりも同級生が泣き叫びながら「何でそんなこと言うの!ささぬまちゃんに謝って!!」と怒り狂ってくれたことのほうが心に残っており、そのとき彼女のお母さんもいたはずだが、お母さんは何も言わなかった。
わたしはそのあと同級生の部屋で、隠していたマンガ(わたしとその同級生は、当時からボーイズラブのジャンルを愛好していた)が父親に見つかってかなりきつく叱られ、母親によって全部捨てられてしまったことを聞かされて、ひどく同情してしまった。わたしはどんなマンガを読んでいても叱られないし捨てられない、常に欲しいもの(金額ではなく、思想の話だ)は手に入るような、そんな暮らしだったから、父親の非礼を詫びる同級生の前で、同情で胸がいっぱいになってしまい、怒りなど忘れていた。同情されるほど惨めなのは自分のほうであるとは、思いもしなかった。
とにかく、客観的に見てもわたしは父親に捨てられていた。でもそう指摘されても気付かないような、そんな生活を送っていたのだ。

わたしが現実を直視せざるを得なくなったのは、大学生のときだ。
父親のフルネームで検索すると、ブログが出てきたのである。
そのブログには、父の生活のあれこれについてが記載されていた。
犬を飼っていること。子どもが小さなときに、子育てのことを考えて自然が豊かな郊外に家を買っていたこと。わたしはそのブログを隅から隅まで読み、父親にわたし以外の子どもがいることを初めて知った。
人生で一番の衝撃だった。わたしは昔から、お父さんのことを考えると夜中にぽろぽろ涙が出ることがあった。割としょっちゅうあった。
それでもわたしはお父さんの一人娘で、きっと愛されているに違いないと信じていたのだ。連絡もないけど、きっと何か、のっぴきならない事情があるに違いないと、この瞬間まで信じていた。
二十歳を迎えて初めて、父はもしかして新しい子どもがいたから、わたしのことは特に会いたいとも、必要だとも思っていなかったんじゃないか、という新しい知見が生まれたのである。
動揺して、そのブログに載っていたメールアドレスに「○○です。覚えているかわかりませんが話がしたいので連絡をください」と送った。返事があったのは翌日くらいだったと思う。
忙しくて、のっぴきならない事情で連絡ができない、と思い込んでいた父からあっさりと届いたメールには、「お久しぶりです。連絡をくれてありがとうございます。子どものころのあなたが一生懸命自転車に乗っている姿を今も覚えています」といったようなことが書かれていた。
これは完全に、「関係が終わった過去の女」への文章じゃないか?
わたしはそのとき本当に動揺していて、更にメールを返すことはできなかった。
父親の娘の思い出は、新しい娘、つまりもっとも価値のある「本物の娘たち」との思い出に上書きされ、捨てた娘であるわたしとのことは少ししか残っていないのかもしれない。打ちのめされるほど惨めだった。
どうにかしてそれを否定したいので、その週末にデートの約束をしていた当時の彼氏に、父親について打ち明けた。ブログや、メールのことも。わたしたちは八景島シーパラダイスに向かう乗り物の中で、並んで座っていた。
わたしはとにかく慰めや、父親への怒りや罵声を欲していた。人生で一番被害者の気分だった。わたしの人生で一番悲しい出来事だったのだから、彼氏にそれくらい望んでもバチは当たらないと思っていた。
彼氏は同い年で、好きなマンガはスラムダンクとドラゴンボール、みたいなごく普通のいい子だった。温厚だし。勉強もできたし、運動神経もよかったし、不満もなかった。
彼氏はこれから水族館でデートする、付き合って1年半くらいの彼女から打ち明けられた、まぁまぁ重いけれどよくある事案に対して、少し困った顔で「そっか。今日、何して遊ぶ?」と言った。
今ならまぁ、そんなもんだよな、と思う。
いきなりそんなことを言われても反応に困るし、何よりも「よくある話」なのだ。いくらわたしの人生でもっともひどい仕打ちだと感じたとしても、よくある話だ。他のことは恵まれていてよかったですね、もっとつらい方はたくさんいるんですよ、と言われても、仕方のない話だ。
でもわたしはひどく主観的で、被害者意識が強くて、自意識過剰な性格で、今よりも昔のほうがもっとその傾向が強かったものだから、彼氏への愛着はそれが原因でいっぺんになくなってしまった。
今までの楽しい思い出も、かけてもらった優しさも、すべてがなくなったような気持ちだった。
そしてわたしはそれから数か月で、一方的に彼氏のことを振ってしまった。今もスラムダンクの話題を聞くたびに、彼のことを思い出す。あとは水族館へ向かう電車と、わたしの履いていた今じゃ信じられないようなイチゴ柄のスカートのことだとか……。

わたしの顔は父親にそっくりである。
父親のブログに掲載されていた、「本物の娘たち」の写真もなかなかに父親似であったが、わたしのほうがその数倍父親似だという自覚がある。
もう三十歳を過ぎて、いい加減過去のファザー・コンプレックスに折り合いもつけたい年頃だった。
世の中にはいろいろなことがある。離婚は珍しくないし、父親がいないのもよくあることだ。
数年前に、性別や年齢を変えられるフィルターの入ったアプリが流行ったのを覚えているだろうか。自撮りをしてフィルターをかけると、子どもになったり、女性が男性になったり、その逆だったり、というやつだ。
わたしもそれを試した。子どもになるやつ。男の人になるやつ。
男の人になったわたしの顔は、記憶の中の父親にそっくりだった。
わたしはその画像を眺めて、もういい大人の年齢になったというのにまだ過去と同じ理由でほろほろと泣きながら、愛されていなかったのだろうか、と考えた。
よく聞くじゃないか、離婚した妻が育てている子どもに会いたい、と言う父親の話を。
父親という生き物は、子どもに会いたいんじゃないのか。なぜお父さんはわたしに連絡をくれなかったのだろうか。
そんなことは、再婚先で新しい、正真正銘の「やり直した正しい人生ルートでの子ども」を手に入れたからに決まっているのだが、この期に及んでそれは信じたくない。
結局わたしは三十代という、だいぶ大人になってから父親と再会することになる。
再会して、何度かご飯を食べた。
わたしが高校まで一緒に暮らした父方の祖父は、知らないうちに亡くなっていた。
わたしが少し泣くと、父は困ったような顔で、「ご連絡したほうがよかったですか?」と聞いた。わたしは、さすがに葬式くらいには呼ばれると思っていた自分の考えを改めた。父にとってのわたしは、「よその人」である。
そうして今思うのは、「この人はわたしの父親を自主的、かつ積極的にやめたんだな」ということである。
嫌われても憎まれてもいないけれど、特別愛されてもいない。
「よその人」
そういうことである。

ハンセン病資料館は、東村山市にある。駅から遠いので、バスを使った。
ハンセン病については、小説で読んだくらいの知識しかない。
「ハンセン病を正しく理解する週間」とのことだったので、足を伸ばして見学することにした。
人権や尊厳を、どう理解すればいいのか、わたしは考え続けているがまだ答えが見えない気がする。自分の中に確実にある無意識の差別や加害について、正しく対処できていない。
選挙が近い。人間が尊重されるというのはどういうことなのだろうな、と考える。
わたしは怠け者だが、怠け者を言い訳にできることとできないことがある。人権と尊厳については、怠け者は言い訳にならないのである。
東村山市の国立ハンセン病資料館の展示はすごかった。もっと早く来ればよかった、と思う。ゆっくり見学したら、3時間くらいかかった。
展示のラストに、ハンセン病の元患者の方のインタビューが視聴できるモニターがあった。
座って、パネルを操作すると、日本中にある療養所、たくさんの人のインタビューが記録されており、ひとりひとりのお話はしっかりと長い。
これはとても見切れないので、ひとりだけ選ぼう、と思い、ひとりだけ、本当にフィーリングだけで選んだ女性のインタビューを視聴した。
その方は、お母さまと共に療養所に隔離された。当時ハンセン病は、本当にひどい差別を受けていて、しかもそれはごく最近まで続いていて、今も元患者の方々の名誉は完全に回復していないとされている。
悪いことをした天罰でかかる、天罰病だ、などという信じられないほどひどいことを言われ、病気の診断を受けると、家族からも見捨てられることがあったという。
そんな時代に女性のお父さまは、ハンセン病になった妻と娘を見捨てずに、療養所に深夜忍び込んでまで面会に来てくれていたそうだ。
その女性は、父親が自分を見捨てなかったことが、父親が自らの尊厳の根源であると語っていた。
わたしは自分でも信じられないくらいに泣きながらそれを見ていた。マスクなんか鼻水でべしょべしょだったし、喉からひゅうひゅう変な音は出るし、見終わったあともしばらく座ってズビズビ言っていた。
わたしは運よく健康で、祖父のおかげでお金にも困らずに育ち、人権が著しく侵害された経験もない。それなのに弱虫で卑屈で毎日つらいめんどうくさいばかり言っているし、胸を張って生きることがどうもできない。
無知は罪だと言う言葉が嫌いだった。責められているような気がするし、最近それは行政サービスを調べられない、保証や制度に辿り着けない人のことを指しているような気がして、それも嫌だった。もっとわかりやすく簡単にしろよ。わたしはおじいちゃんのおかげで奨学金もなしに大学を出て、スマホもパソコンも持っていて、バカで怠惰だけど何かあれば聞けるし、あ~あ損した、で済むかもしれないけど、そうじゃない人だってさぁ、いるだろ。だから嫌だった。
でも資料館で見聞きする「無知は罪」について、本来こういうことで使う言葉なのだと思ったので、やはりわたしは遅れている。情けないけれど、今更目が覚めたような思いだった。
ハンセン病を正しく知っていれば患者の人は人権を踏みにじられないでも済んだし、家族とも暮らせたし、病気だというだけで罵倒されないでも済んだし……。
どれほど迫害されても、人間の誇りまでは奪えないのだ。深夜に会いに来た父親。尊厳の根源。尊敬できる人。

父と食事をしたときに、祖父の話になった。母方の祖父だ。
話を聞きながらわたしは、父は祖父があまり好きではなかったのだろうな、と気付いた。
端々に、祖父を馬鹿にする物言いが感じられた。祖父は心配性でせっかちで、真面目一筋の人だ。お酒は飲まないし賭け事もしない。
父と母が結婚したばかりの時に、父が駐車違反をしたという。
「当時は無視するのが当たり前だったのに、おじいさんはね、知り合いの警察官のところに行って、話をつけたから大丈夫だ、なんて言うんですよ。そんなことする人、他に誰もいませんよ」
「おじいさんも小さい会社を知り合いと起こして、だいぶうまくやったんでしょう。昔、おじいさんが応援している議員の手伝いにわたしも行かされてね、そういうことに熱心な人がお金を貯められるんでしょうね」
痛々しい人を笑うようなニュアンスだった。祖父のアイデンティティを濃く受け継いだわたしには、笑いどころがわからない。
わたしはそれを聞きながら、「祖父は真面目なんです」と言った。
そうすると父は、「これは悪口じゃないですよ。わたしにはできないことをする人がいるなぁ、という話です」と答えた。
わたしは皿の上の肉か何か切りながら、それを黙って聞いていた。

その時のわたしは、お父さんが会社を辞めて起業した時に、おじいちゃんに無利子で多額のお金を借りたことをまだ知らなかった。
お父さんにはお子さんがいて大変だから、前妻の子どもであるわたしの学費も出さなかったことも、まだ知らなかった。
知っていれば、この時もっと祖父の名誉のために反論できたかもしれない。するべきだった。時間を戻せないだろうか?戻せないのだ。
おじいちゃんは雨の日に、他の子はお父さんが車で迎えに来ていいな、とわたしが言ったら、その日から免許を返納するまでどんな小雨でも駅まで迎えに来てくれた。
つらくても真面目にこつこつやれ。お金は貯めておけ。苦労するくらいなら結婚しなくてもいい。
そして母も祖父も祖母も、わたしに父の悪口を一度も言ったことがない。
それがいかに難しいことか、今ごろになってよくわかる。
だからわたしは父親に捨てられたと気付かなかったし、父親をいつまでも好きでいられた。

話を変えたくて、お父さんにわたしが最後にもらったクリスマスプレゼントのテディベアを覚えているか尋ねた。わたしはそのぬいぐるみを捨てずに、今も実家に置いてある。
お父さんは肩を竦めて「覚えてない」と笑った。
わたしは、嘘でも覚えていると言えばいいのに、と思いながら、「そうですか」と言った。
父には父の言い分があるだろう。父の人生なのだから好きに振る舞っていいし、父側に立てば母も祖父も悪者なのかもしれない。
わたしは小学生の頃、もし次にお父さんに会えるのが、おじいちゃんのお葬式だったらどうしよう、そう考えて一晩泣いたことがある。
あれから二十年以上が経つ。父方の祖父は、いつの間にか亡くなっている。小学生のわたしは、家族は当然お葬式に出るのだと思っている。
「おじいちゃんは亡くなりましたよ。3年前。連絡したほうがよかったですか?」
大人のわたしはよその人なので仕方がない。そうなんですね、お悔やみ申し上げます、と言うだけの年齢になっている。名字だけが父と同じである。この人の娘だったから。かつて。捨てられるまで。かつて。
父親はわたしの卑屈さの根源である。

他人を尊重したいな。わたしは人間とうまくやれないし、他人はほとんど嫌いだけど、嫌いでも尊重したいな。人権とか。尊厳とか。わかりたいな。人を差別したくない。加害者になりたくない。バカにされてばかりだけど、思い返せば同じくらい人をバカにしてきたな。
愚かで嫌になる。恵まれているくせに被害者ぶってばかりで、大した苦労もしてないくせに泣いてばかりで、父親がいないなんてよくある話だし、よくある、本当によくある、みんなよくあるって言ってる。みんなってみんなだよ。みんな……。

おじいちゃんはよくわたしを美人だと褒める。
本当に美人だと言う。そうなのかもしれないな、と思う。
真面目なおじいちゃんがそう言うのだから、そうなのかもしれない。みんなはそう言わないけど。
でもみんな、雨の日に駅までわたしを迎えに来ないでしょう。
来てくれたのはおじいちゃんだけだ。多分わたしはこの先一生、どれほど惨めな時も、迎えに来てくれるおじいちゃんがいた時代を忘れることはない。
それを尊厳と呼ぶのであれば、まぁそうだ。この時ばかりはさすがのわたしも、恵まれていて寿がれた娘であったと信じることができる。

無知は罪だという言葉が嫌いだと、以前の日記で書いたことがある。
先日、ハンセン病資料館に行ったときに、その言葉について人生で初めて真剣に考えたので日記に残しておくことにする。
資料館を見学している間、自分のこともいろいろと考えた。ハンセン病についてのインタビューでは、病を克服した女性がこんなことを仰っていた。メモをとっていなかったので一言一句正しくはないけれど、こんなことだ。
「父親が尊厳の根源」

わたしは来年も同じ時期に、資料館を再訪しようと思う。
もうすぐ選挙だ。人間の尊厳というものは、本当に何よりも大切なものだな……。
それをわたしに教えたのはハンセン病資料館と、おじいちゃんである。
日記のタイトルは「卑屈のルーツ」にしようと思っていたけれど、わたしはおじいちゃんの孫なのでもう少し前向きになりました。

長生きしてくれ!

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