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お役所民族誌 第一話第六章 インターンシップの終わりと次のステップ


(44)恋人たちの夜

 二日目のインターンシッププログラムを終え、みなもは県庁前のバス停から澄舞大学行きのバスに乗る。すぐ先の県民会館がバス路線の結節点になっているので、この時間帯は次々とバスが来て、大勢の人を運んでいた。
 ラインで秀一に帰宅の目安を尋ねると、ノー残業デーの水曜日なので十九時くらいには帰れるという。ならばと最寄りのひとつ先のバス停で下り、スーパーましみやに立ち寄った。
 ましみやは松映を本拠とする地元チェーンだ。地産地消は、カーボンフットプリント(生産・流通・消費サイクルから発生する二酸化炭素量試算)が相対的に低く地元産業の振興にも貢献するエシカルな取り組みのひとつ。二階堂から聞いたそんな話を思い出しながら、みなもは地元農家のコメントが貼り出されたコーナーで食材を選んだ。
 二日ぶりにアパートに戻り、料理を始める。頃合いを見計らってグリルで鮭の切り身を焼き始めた。
「ただいまー」
「おかえり。うん、ナイス自分」
「どしたの?」
「秀くんレーダーが優秀だから、ちょうどお魚が焼き上がるところ」
 今夜の二人の食卓は、炊きたてのご飯と焼き鮭、牛蒡サラダ、それにオニオンスープ。小さな正方形の座卓、対面ではなくL字方向に並んで座る。
「いただきます」
 二人は合掌して口を揃えた。おばあちゃん由来の香守家の自然な習慣に、自然と秀一も馴染んでいる。
 食事をしながら、みなもはこの二日間のあれこれを話し続けた。秀一は適度にコメントを挟みながら、まるで小学校であったことを一所懸命話す娘に相対するお父さんのような、慈愛の面持ちで耳を傾けた。
 二階堂とナチュラリズムの交渉で茂乃への返金の方向性が決まった後、みなもはすぐに朗に電話をした。朗は仕事を休んで茂乃とともに警察の事情聴取に臨んでいた。みなもの知らせを朗から聞かされた茂乃の歓喜の声が、スマホを通じて聞こえていた。
「インターンシップ先が消費生活センターじゃなかったら、こんな風におばあちゃんを助けることはできなかった。なんて運がいいんだろう」
「日頃の行いがいいんじゃない?」
「それ。おばあちゃんがいう信心のおかげって奴ね」
 食事を終え、秀一が洗い物、みなもはお風呂の用意を分担する。手を動かしながら話は続き、二階堂から聴いたインタビュートラブルの話に及んだ。
「ああ、それ、うちにも話が来たよ」
 昨日、生活環境総務課の河上補佐が広報課を訪れ、生活環境部として今回の事案は看過できず、広報課を通じてすまテレに抗議して欲しいと申し入れていた。広報課の仕事柄、各局の朝・昼・夜の報道番組はニ台のレコーダーで毎日録画している。課長の求めで秀一がリモコンを操作し問題のシーンを再生した。「見た感じはむしろ勢いがあるし、全体にいい構成だけどねえ」と広報課長は言ったが、約束違反を見過ごせないという生活環境部の意向にも筋はある。広報課マターとしてすまいぬの件もあり、合わせて抗議するに至った。
 もちろん、こうした情報をあまり話すわけには行かない。気を遣いながら、秀一は話を最小限に継いだ。
「一昨日の朝もさ、柳楽アナの約束違反の話、したでしょう。問題が続く時には続くね」
「問題なのかなあ。二階堂さん、カッコよかったよ?」
「それは俺もそう思った」
「そういえば、明日すまテレに行くんだ。ラジオ収録の見学」
「へえ、俺もすまいぬの収録があるよ。何時頃?」
「午前中、時間はわかんない」
「もしかすると会えるかもね」
 ジャスミンティーを入れて、二人はあらためて座卓につく。白磁のカップを口元に近づけると爽やかな香りが鼻をくすぐり、ひと口含めば口中に温かなものが膨らんで、喉から胸、お腹へとゆっくり落ちていく。
「あー、沁みるなあ」みなもは緩んだ笑顔を秀一に向けた。「昨日今日、ずっと緊張してたんだなあって、今更気付くよ」
「大変だったでしょう。お疲れさま、あと一日だね」
「あと一日頑張るために、秀くん分を補給しなきゃ」
 カップを置き、すすす、と秀一にくっついて両腕で抱き締めた。そのまま鼻先を秀一の首の横に押し当てる。すうっ、はふう。微かにツンとしたものが混じる香り。
「んー、一日働いた後の秀くんの匂い。これはこれでよしっ」
「えー、変態ちゃんですかあ」
「へへへ、吸わせろー」
 くんくんくんくん、と犬のように首筋の匂いを嗅ぐ。たまらん。そういや昨日、母しゃんも父しゃんの匂いを嗅いで悦んでたな。遺伝かな。
「俺も働いて疲れたー。みなちゃん分を補給しなきゃ」
 そう言いながら、秀一はみなもを抱き返し首筋に顔を埋めた。
 みなもを「みなちゃん」と呼ぶのは秀一だけだ。
 家族は「にゃも」と呼ぶ。
 知人は「香守さん」と呼ぶ」
 近しい友人は「かがみん」と呼ぶ。
 親友・奥田多賀子は「香守みなも」とフルネームで呼ぶ。
 呼称は人間関係の表れ。恋人からの「みなちゃん」との呼びかけは、耳に甘く響く。恋人の夜の匂いは、昼の張り詰めた心を緩ませる。
 そのままみなもは身を横たえ、秀一が上から覆いかぶさる体勢になった。
「一昨日の朝から我慢してたっけね」とみなも。
「お預けは、もうおしまい」と秀一。
 みなもの首筋にキスを、二回、三回。顎から頬へと移って、唇が触れ合い、舌を絡める。粘膜を弄りあうと、甘美な痺れが脳と全身にゆっくりと沁みていく。秀一の掌が服の上からみなもの胸を包んだ。恋人の手に体を触れられることの心地よさ──。
 おぱーい、といいながら母しゃんの胸に手を伸ばして邪険に撃退される父しゃんの姿が脳裏をよぎった。
「……ぷっ」
 突然みなもが吹き出したので、秀一は怪訝な顔をした。
「なに?」
「いやあ、なんでもなあい。こっから先は、お風呂の後でね」
 若い二人の夜は、始まったばかりだ。

(45)ラジオ収録見学

 インターンシップ最終日。
 二階堂の運転するロシナンテは、今日は機嫌の良いエンジン音を鳴らしていた。
 松映市街は、広大な澄鶴湖すんずこ央海おうみそしてそのふたつを繋ぐ央梁おうはし川によって南北に分割されている。橋北地区には県庁・市役所などの官公庁や国宝・松映城などの歴史景観地区があり、橋南は松映駅を中心に商業地区を構成している。
 駅から橋を渡ってすぐの央梁川北岸に澄舞テレビ本社屋が新築移転したのは、わずか三年前のことだ。秋晴れの空の下、広い敷地を生かした低層の真新しいビルが鈍い黒銀に輝いていた。
 二階堂を先頭に、みなもと小室は玄関に向かう。玄関前に、台車で大きな荷物を運ぶ若い男女の姿があった。男は紺のスーツ姿、女はゆったりしたベージュのズボン、白のブラウスの上から水色の作業着のような上着を羽織っていた。
「あ、見覚えあるな。県の広報課の人だよ」
 二階堂がいうより先に、みなもは男が秀一であることに気付いていた。待ち合わせたようなタイミングに頬が緩む。秀一もみなもに気付いたようだ。
「おはようございます!」
 二階堂が二人に歩み寄りながら挨拶すると、二人も口々に挨拶を返してきた。
 二階堂と秀一は互いに面識がない。敢えて言えば、秀一は問題の録画を見ていたので、二階堂の顔はそれと分かった。女性の方は広報課の非常勤嘱託職員で、仲村静佳という。真っ直ぐに揃った前髪に隠れ気味の、少し陰のある瞳が印象的だ。消費生活室と広報課の書類のやりとりなどで時折り行き来があり、二階堂とは顔見知りだ。とはいえそれほど親しく会話を交わしたこともなく、二階堂は小さな声で「お疲れさまです」といって通り過ぎることになる。
 すれ違いざま、みなもが秀一に小さく手を振り、秀一も同じように返した。
 玄関に入ってから、二階堂がみなもに「知り合い?」と尋ねる。「今年県庁に入った、大学サークルの先輩です」とだけ、みなもは答えた。
 受付で記名をして階段を上がり、二階の渡り廊下を進んだ別棟が、スマイレイディオのテリトリーだ。
 テレビと同じく澄舞・魚居両県をカバーするスマイレイディオでは、ウィークデーの十時から十四時まで自主制作番組「すまいっとストリート」を放送している。月に二回、金曜十一時頃から五分間が、澄舞県消費生活センターのスポンサードコーナーだ。生放送ではなく前日までに録音・編集したものを流す。今日は明日放送分の収録だ。
「江戸川さん、できれば原稿差し替えたいんですけど」
 二階堂は挨拶もそこそこに、メインアナウンサーの江戸川欣ニに書類を手渡した。六十歳手前、アナウンサー部の部長職にあるが今も現役だ。
「えー、そうなの? 今の原稿に絡めて渾身のギャグを仕込んどいたんだけどなあ」
「県内で起きたばかりの事件があって、県民にすぐに伝えたいんです」
 二階堂は香守茂乃の件を受けて、高齢消費者被害の防止のために家族や地域の見守りを呼びかける原稿を昨日のうちに書き上げていた。江戸川アナと二階堂の掛け合い体裁による、県民向け注意喚起。説明の主体は二階堂で、江戸川の合いの手はお任せだ。それだけに、収録直前の差し替えは普通は厳しく、調整室の技術スタッフの二階堂を見る目も渋い。
「無理なら来週に回しますけど、できればすぐ流したいなと」
「んー、ちょっと読ませて」
 江戸川はシナリオに目を走らせた。一度頭から終わりまで読み、再び頭へ。眉に皺を寄せた真剣な表情から、彼の脳が高速回転していることが窺えた。
「……ぷふっ、ふひゃひゃひゃっ」
 江戸川は突如破顔して両手を打ち鳴らす。
「うん、いいギャグ思いついた! この原稿でいきましょう。」
「ありがとうございます。で、どんなギャグを?」
「ないしょ。本番で爆笑しなさい」

 本番の収録は、一発で終わった。二階堂は朝イチでイメージトレーニングを繰り返していたし、江戸川はさすがのプロだ。
「──あれ、笑うところって、どこかありました?」
 二階堂は江戸川に怪訝な顔で尋ねた。
「またまたあ、今、必死で笑うの堪えてるんでしょ?」
「え?」
「え?」
 沈黙、二秒。調整室でその様子を聴いていたみなもは「ギャグってどこだった?」と小室に尋ねたが、小室も首を横に振るだけだった。
 江戸川は、しょぼん、とうなだれて立ち上がり、録音ブースから調整室へ続くドアを開けた。そこでくるりと振り返り、ビシッ、と二階堂を指差した。
「覚えてろ、来週こそ、爆笑させてやるぅ! うわあああん」
 だだだっ、とその場で泣きながら小走りの真似。なんだろう、この小芝居。
 その時ふと、二階堂は察した。ギャグを思いついたというのは、周囲のスタッフの前で急のシナリオ変更を受け入れる流れを作るための便法だったのではないか。
 二階堂は立ち上がり、江戸川に深々と頭を下げた。江戸川はその様子を見て、んー、と首を捻った。
「それはえーと、待ってよ当てるから、んー、素っ頓京四郎の真似だね?」
「え、それ、芸人さんですか?」
「ううん、今作った」
 二階堂は苦笑した。この人とは無駄に話が長くなる。でもそれが嫌ではない。「喋り」のプロとして長年かけて培われたキャラクターの故だろうか。
「帰る前にちょっとアナウンス部に寄ってくれる?」
 江戸川の先導で渡り廊下を戻り、促されてロビーのソファに腰を下ろした。江戸川は廊下の先でドアを開け、中を覗き込む。そこがアナウンス部なのだろう。
「なぎらっち、ちょっと来て! 県庁の二階堂さん来てるから」
 中から出てきた柳楽修を伴って、江戸川は二階堂のところに戻る。
「二階堂さん。先日の放送では、使うべきではない映像を使ってしまい、本当に申し訳ありませんでした。正式には報道部長が消費生活室に謝罪に伺うと申しておりますが、まずは柳楽の直属の上司として、心よりお詫び申し上げます」
 江戸川は頭を下げた。さきほどまでのおちゃらけた人気アナウンサーの顔ではなく、組織の管理職としての真面目な顔つきだ。柳楽も硬い表情で同じように頭を下げている。局内でたっぷり絞られた様子だ。
「いや、そんな、頭を上げてください」
 二階堂は慌てて両手を振った。
「結果的には、県民への注意喚起としてとても良い〆だったと、みんな言ってますから。香守さんと小室君も、ね?」
 二人が口々に同意するのを聴いて、江戸川はにっこりと笑った。
「そういっていただけると、助かります。なにせこいつは」がしっ、と柳楽の肩に右腕を回し「いいジャーナリスト魂を持ってんですよ。ただまだ経験が足りないから、やらかすこともある。自分のやりたい方向に無闇に突っ走るんじゃなくて、周囲と信頼関係を構築して表現できるようになれば、大成すると思ってます。──思ってるんだぞ、俺は」
 江戸川は柳楽に微笑んだ。それから身を離して両手でメガホンをつくって口に当て
「いよっ、すまテレの星! 俺を養って!」
「養うのは勘弁してください」
「えー、だめなの? ちぇっ」
 皆が笑い、柳楽の表情もようやく緩んだ。
「なぎらっち、せっかくだから皆さんを玄関まで見送ったげてよ。俺は会議があるからさ」

(46)柳楽と二階堂

 ガラス張りの一階ロビーは駐車場側と央梁川側の二方向に開けた構造だ。みなもはガラス越しに、央梁川前のイベント広場で犬の着ぐるみ──すまいぬが何やら舞っているのに気付いた。
「今日は県の広報枠で使うアクションシーンの収録があるんです。見ていきますか?」
 柳楽の言葉にみなもは思わず笑顔を浮かべた。すまいぬのアクションへの関心が半分。もう半分は、近くにいる筈の恋人の仕事姿を補給したい気持ちだ。期待に満ちた表情で振り向いたみなもに、二階堂は微笑みを返した。
「収録も短時間で終わったし、少し見ていこうか」
 柳楽がディレクターに話をつけ、撮影の邪魔にならない位置に一同を案内した。ディレクターの近くにいた秀一がみなもに気付き、小さく頷く。みなもは手を振りたいが、我慢。心の中では思いっきり振っている。
 先ほど玄関で見かけた仲村静佳の姿は周囲に見あたらなかった。
 左右に広がる川に面した広場は、秋の心地良い陽光の下、爽やかな風が吹いていた。広場の中心にいるすまいぬは、準備運動だろうか、脚を肩幅に開いてゆっくりと腰を回し、それに連れて両腕が体に巻き付き、離れる。
 二階堂は柳楽の様子を気にしていた。先日の取材時に比べて、今日は口数が少ない。
「柳楽さん、もしかして、随分叱られちゃいました?」
「まあ、ちょっと……すごく」
 柳楽は目を合わさずに答える。
「すごくかあ、はは。でも、後悔はしてないみたい」
 二階堂のこの言葉で、柳楽と視線が合った。
「おや、分かりますか?」
「なんか、そんな顔をしてたので」
「あー、修行が足りないなあ、俺。謝罪の相手に、反省してないことを見抜かれてる」
 柳楽は右手を挙げ、指で髪の毛を梳いた。
「──取材の仕事を続けているとね、感じるんですよ。みんなマイクの前で、心の中と違う事を喋ってる。隠したいことがあったり、自分をよく見せたかったり、綺麗なシナリオをなぞったり、世間から期待されている役割を演じたり」
 柳楽は少し言葉を切った。二階堂は、話の趣旨が見えないながら、続きを待った。
「最初にひととおり撮影した二階堂さんのセリフも、そう。良くも悪くも公式の作文です。でもね、撮影を終えた後のリラックスした二階堂さんからは、本当の声が聞こえました。放送した〆の場面は、悪質業者と戦い消費者を護る最前線の県庁担当者として、魂の籠もった叫びでした。あれは使わない手はないだろうと、今でも思ってますよ」
 約束を反故にされた二階堂は、いわば被害者だ。しかし、表面上は弁解と捉えることもできる柳楽の言葉を、素直に聴くことができた。この声に嘘はない。この人は信頼できるというあの時の印象は間違っていなかった、
「柳楽さんの今のこれも、魂の叫びですね?」
「あ──うん、そうですね」
 柳楽は言われて気付いた風で、二階堂の方を見た。二階堂も柳楽の目を見つめた。そこには少年のような光があった。
「俺ね、入社時はディレクター志望だったんですよ。人間に興味があって、ドキュメンタリーを撮りたくて、テレビマンになった。なのにアナウンス部に配属されて正直凹んだけど、取材対象と会話を交わして相手の本音を引き出す仕事に、今はとてもやり甲斐を感じてます。──でもまあ、今回のことでしばらく謹慎ですけどね」
「えっ」
 すまいぬインタビュー事件を知らない二階堂は、自分の件だけで謹慎処分は重すぎると驚いて、柳楽の顔を見た。
「大丈夫、しばらくテレビへの露出が減るだけの話です。二階堂さんに見抜かれたように、後悔はしてません」
 本番行きまーす、とディレクターが大きな声を上げた。映像撮りだけで音声は必要のない場面と聞いていたが、自然と皆が口を閉ざす。
 すまいぬが、すっ、と両手を胸の高さに挙げてから上体を捻り、歩き出す。地面に大きな円の軌跡を描きながら、身体は右へ左へ自在に転変し、両の腕はうねるように動く。時に指先が上段を突き、時に下腿が地を払う。愛されキャラの着ぐるみによる微笑ましい舞踏に見えるが、中の人の運動量と体幹の安定性がそれを支えていた。
 中国拳法の中でも難易度の高い八卦掌の套路だが、そうと知る者はこの場には他に誰もいない。孤高の武を「彼女」は演じていた。
「彼女も本当の自分を押し殺して生きている一人なんだよな……」
 柳楽の無意識の呟きが、みなもにはひっかかった。自分たち以外に撮影現場には男性しかいないように見える。敢えて言えばすまいぬだが。
「すまいぬって、男の子設定ですよね?」
 素朴に尋ねるみなもに、柳楽は「あ、ええ、そうですね」とだけ応えて、そのまま口を閉ざした。

(47)「練蔵じいさんの、わしゃダマされんぞう!」

 午後はいよいよインターンシップの仕上げとなる啓発素材作りだ。実質三時間余りという時間のなさが、却って選択肢を絞ることに繋がった。
 短編動画の製作。悪質商法被害防止のシナリオを作り、その演技を備品のデジタルカメラで撮影するのだ。
「俺、簡単な編集ならノートパソコンでできるから」
 小室はサークルのYouTubeチャンネルを担当しており、雑で良ければ五分程度の動画で三十分あれば編集が可能だという。
「じゃあ私は、シナリオ作ってくるよ」
 総合文芸研究会で物語作りは経験済み。昨夜は秀一と甘い時間を過ごした後、そのまま寝てしまいたいのを我慢してパソコンに向かいシナリオを書き上げた。
 今朝、動画を作ると聞かされた野田室長は、目を丸くした。
「さすがYouTube世代だねえ。プロに頼んで動画を作ったことはあるけど、自前で作る発想はなかったな」
「実は室長と二階堂さんにもちょっとした役をお願いしたいんですけど」
「ふむ」
「あら、私も? 喜んで」
 小室は三脚にデジカメを据え付け、画角を決める。カット割りはしない。単純な切り貼りはできるから、とちったらその場でやり直し。とちりまくりの演技は笑いに満ちたものとなった。
 撮影開始、終了。小室が動画を確認して「O.K.です、クランクアップ!」というと、皆が一斉に歓声を上げて拍手をした。
 ここから小室の編集作業がはじまる。カメラワークのない固定撮りから、不要な箇所をカットしてテンポ良く繋げていく。みなもは横でその作業を、まるで魔法を見るかのように眺めていた。
 二十分後、作品は完成した。

 小室の声でタイトルコール。画面は「練蔵じいさんの、わしゃダマされんぞう!」の書き文字に、高齢男性といわれればそう見えなくもないみなも画伯の絵が添えられている。明るいBGMは著作権フリーで使えるネット素材を用意していた。
 小室が登場。腰をかがめて高齢者のつもりだ。
「わしの名は練蔵、悪質商法にはダマされんぞう! さて、今日の郵便物を確認するかのう」
 手にした封筒からパンフレットを取り出す。練蔵は思いっきり顔を近づけたり、遠ざけたりのオーバーアクション。
「これは、老人ホームのパンフレットじゃな? 優しい家族と一緒に暮らすわしには、こんなものはいらんぞう。ぽーい」擬音を口にしてゴミ箱にパンフレットを放り込む。
 そこに電話の呼び出し音。練蔵が受話器を取る。
「はい、もしもし」
「こちらは澄舞福祉協会の悪野わるのと申します」
 相手の声は野田だ。少し高めの優しい声音。
「はあ」
「実は新しい老人ホームを建設中なんですが」
「わしゃダマされんぞう!」
「まだ何も言ってませんよ?」
「おお、そうか」
「実はある方がどうしてもそこに入居したいのですが、パンフレットの届いた人しか申込みできないんです。練蔵さまにパンフレットが送られていると聞きまして、どうかお名前を貸していただけないでしょうか」
「名前を貸すだけか」
「はい、お金を出す必要はありません」
「そうか、ならダマされる心配はないな。困っている人の助けになるなら、名前を使ってもらって構わんぞう」
「ありがとうございます、感謝します!」
 電話を切ってテーブルに置く。
「ふっふっふっ、良いことをすると気持ちがいいぞう」
 再び電話が鳴る。
「はい、もしもし」
「私はあーせいこーせい労働省の悪田わるだというものだが」
 野田の二役、今回は低くドスの効いた声だ。体格が大きいから迫力が違う。練蔵じいさんも少しびびった様子だ。
「あなた、入居権の名義を他人に貸しただろう。それは犯罪だ! じきに警察が逮捕に行くことになる」
「ええーっ!」オーバーに驚く練蔵。
「今すぐ二十万円の供託金を振り込めば、警察を止められる。金は後日全額返すから、すぐに振り込むように」
「はははいいっ!」と返事をして電話を切る練蔵。
「大変だ大変だ、通帳通帳、カードカード」
 練蔵が右往左往するところに、娘役のみなもが登場。
「お父さん、どうしたの?」
「たいへんだぞう、実はかくかくしかじか」
「かくかくしかじか! お父さん、それ、最近流行ってる詐欺よ!」
「ええええーっ!」
 練蔵はカメラ目線になる。情けない顔、情けない声で「わしの名は練蔵、ダマされたぞう。とほほ」
 オチのついた音楽。テーブル越しに正面からカメラを向く二階堂に切り替わる。手口の解説、ここはみなものシナリオではなく二階堂の知識と経験に任せた。
 悪質業者は人の心理の支配するプロ、自分はダマされないと思っている人ほど足下を掬われる。お金が絡まず名前を貸すだけという安心感、困っている人を助けたという満足感。そこに急転直下の事態が起こり、威圧的に迫られる。ジェットコースターのような感情の起伏を生み出すのが、心理コントロールの手口なのだ。加齢とともに、それに抗することは難しくなるのが自然の摂理。家族や地域の人たちの見守りが鍵となる。振り込みの前に止めるのが大事、振り込んでしまったら被害回復はとても難しい。
 二階堂のアップ。脚本家みなもは最後にあの台詞を用意していた。
「でも、そこで諦めちゃダメ! 黙って泣き寝入りはやめよう!!」
 一気にズームアウト。みなもと小室、センター職員がずらりと二階堂の後ろに並んでいる。どうせなら最後はみんなで、と呼びかけたら喜んで集まってくれたのだ。
「消費生活センターは正義の味方、困った時は電話番号188、『だまされるのは「いやや」』まで!」

(48)総括の時間

 セレモニー予定の十六時半まで、あと少し時間がある。小峠課長と河上補佐が来るまでは、所長席前の開放的なテーブルで歓談しながら待機だ。
「まさかこの短時間で自力で動画が作れるとは思わなかったよ。室長、うちも自前の動画広報を考えてもいいかもしれませんね」
 二階堂の言葉に野田は頷いた。
「そうだね。従来型広報がマンネリ化して効果が頭打ちだとすれば、SNS広報は可能性がある。来年度に向けて考えてみようか」
 リテラシーのある職員が必要なこと、事務量を考えればスクラップアンドビルドによる広報手段全体の再検討が必要なことは、敢えて口にしなかった。そうした事務のリアリティは、今後自分たちが引き受けることだ。今は課題をやりきったインターンシップ生二人の健闘を称えよう。
「三日間やってみて、どうだった?」
 野田は挨拶の頭の整理になるように二人に水を向けた。小室とみなもは顔を見合わせ、みなもが(お先にどうぞ)と掌を向けたのを受けて、小室が口を開いた。
「行政実務の幅広さを実感できたような気がします。特に、実際の悪質業者との対応を間近に見ることができて、刺激を受けました。法律の勉強って、抽象的な条文と具体的な事件の関係を捉えるんですけど、日頃は判例から法律の意味合いを理解して行くんです。でも行政や法律家の実務は、目の前の事件を解決するために法律をどう解釈して適用するか、そこが一番大事なんだなと。新鮮でした」
「おー、三日でそこが分かるなんて、さすが」と二階堂。「私は法律に苦手意識を持ったまま消費室に異動してきたから、どうすれば目の前の違法行為を取り締まれるのか、散々頭を悩ませたんだ。法律の条文と、その解釈と、実務先例に照らして、この事件は白か黒か。担当者としての判断を県庁組織の意思決定にまで漕ぎつけられるか、議論してね」
 不利益処分は相手方が納得しなければ行政不服審査や取消訴訟にまで発展する。そのため処分の意思決定に際しては、そうした第三者判断にも耐えられるくらい処分の必要性・妥当性の根拠を詰めなければならない。
「ほんと頭の体操よ。最近、法律って面白いかも、と思い始めたところ」
「ああ、そういうの、ワクワクしますね。公務員になりたい気持ちが高まった気がします」
「あら、来年澄舞県庁受ける?」
 二階堂が食い気味に身を乗り出したので、小室は苦笑いをした。
「今のところは、国と五百島県庁を受けようかと」
「残念。でも、国でも五百島県でも、いろんな分野で澄舞県庁と仕事の繋がりはあるのよ。もしかすると数年後にまた出会ったりするかも。試験、頑張ってね」
 続いてみなもの番だ。
「私は正直、県庁の仕事についてあまり知らなくて、ひたすら机に向かっている事務仕事のイメージだったんです。でもこの三日間、事件の被害者に対応したり、悪質業者と電話バトルしたり、放送局で収録したり、広報啓発のためにみんなで賑やかに動画を作ったり。本当にアクティブというか、仕事って楽しいんだなと思いました」
 みなもの言葉を聞いた野田と二階堂は苦笑いをして、顔を見合わせた。
 ひとまず二階堂が口を開く。
「ありがとう、魅力を感じて貰えたなら、担当者として嬉しいな。インターンシップとしては予定していなかった事件対応とか、ある意味で大事な部分を見てもらえたと思う。ただ……」
 二階堂はちらりと野田の顔を見た。野田が後を続ける。
「我々の日常の仕事の大半がデスクワークなのは、確かだよ。事務仕事は役所の活動を支える基盤といってもいい。ボールペンを買うのも、書類を郵送するのも、放送局との番組制作契約も、事務仕事だからね」
 敢えて言わないが、インターンシッププログラム自体もそうだ。学生に仕事を理解してもらって就職の選択肢としてほしい県側と、学生の就職を支援したい大学の間で、仕組みの設計を行う。次に、県庁組織の中で数日間学生を受け入れてくれる所属を調整する。所属はインターンシップの趣旨に合ったプログラムを作成して、具体的な準備をする。本番が終わった後は、報告書を作成して人事課に提出。そんな地味な事務仕事が、この三日間を支えていた。
「感じ取って欲しいのは、そういう地味な仕事やメディア対応のような派手な仕事の全体で、何を実現しようといているかということなんだ。言い換えれば、役所のミッションだね。我々のミッションは……さて、なんでしょう?」
 野田がにっこりと笑って二人を見た。小室もみなもも思案顔でしばらく声が出ない。「ほら、初日に話した、あれよあれ」と二階堂が助け船を出し、小室が思い当たって口を開いた。
「消費者基本法第一条、ですね」
 みなもも初日のレジュメに書かれていたことに気付き、手元の資料をめくって目を走らせる。

消費者基本法(昭和四三年法律第七八号)
(目的)
第一条 この法律は、消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに交渉力等の格差にかんがみ、消費者の利益の擁護及び増進に関し、消費者の権利の尊重及びその自立の支援その他の基本理念を定め、国、地方公共団体及び事業者の責務等を明らかにするとともに、その施策の基本となる事項を定めることにより、消費者の利益の擁護及び増進に関する総合的な施策の推進を図り、もつて国民の消費生活の安定及び向上を確保することを目的とする。

「──国民の消費生活の安定及び向上を確保する、ですか?」
「うん、そのとおり」
 野田は目を見開いて顔を輝かせた。まるでひまわりのようだ。
「更に根源を辿るなら、地方自治法に定められた自治体の役割である「住民の福祉の増進」に辿り着く。いずれにせよ、抽象的でしょう? その抽象的な目的を大小様々な具体的な事務が支えている。地味で面倒で大変で、時には華やかで時には危険で困難な、本当に多様な仕事を通じて、法律が行政に与えたミッションを実現すること、少なくともそこに向けて努力することが、公務員の役割なんだ」
「勉強になります。日々の実務が忙しくて、そういう理想を忘れがちになるのが、つらいですね」
 二階堂が殊勝な顔で頷き、皆が笑った。
「そうだね、理想と現実が一致しないのは世の常。初日に「六十点で上出来」って言い方をしたけど、それが公務現場の現実だよ。そういうところも含めて、二人には、自分の進む道を考えるきっかけにしてもらえればいいな」
 澄舞県庁生活環境部生活環境総務課消費生活安全室の野田彌室長と二階堂麻美主任は、これから社会に出る二人の学生に心からの笑顔を見せた。香守みなもと小室隆朗は、やはり笑顔で「はいっ」と大きく応えた。

(49)彼女が師匠と呼ぶ人

「こんにちは」
 ふいにみなもの背後から声が聞こえるのと、正面に座る野田の視線がみなもの頭上に向けられたのが、ほぼ同時だった。
 みなもが振り向くと、すぐ背後に男が立っていた。最初に目に飛び込んで来たのはキャメルのジャケット、ネクタイはしていない。腰を捻って仰ぐとようやく顔が見えた。ウェーブのかかった髪、黄色いサングラス。年齢は五十歳前後か。少しその筋の人にも見えた。
「やあ、大森君」と野田。
「あっ、師匠。お久しぶりです」と二階堂。
「来客中だね、またにしようか」大森と呼ばれた男が遠慮する素振りをみせると、慌てて二階堂が立ち上がり、彼と相対した。
「いや、インターンシップの学生さんです。プログラムも終わってセレモニー待ちなので、大丈夫ですよ」
 小室も新たな来客に席を譲ろうと立ち上がりかけたが、大森はそれを掌で留めた。
「近くまで来たついでに立ち寄っただけだから。あさみん、月曜の夕方すまいル、観たよ」
「えー、師匠にも観られちゃいましたか、はは」二階堂は微妙な笑顔で目線が泳ぐ。その様子をみなもは、じっ、と観察していた。
(二階堂さんが師匠と呼ぶ人は、二階堂さんをあさみんと呼ぶ。クールビューティなお姉さんがなんだか女の子の顔になってる。ダンナ様ではなさそうだし、んー、興味津々)
「で、ちょっと感想を伝えておこうと思ってさ」
「わあ、ありがとうござ」
 います、まで言い終わらないうちに大森がかぶせるように言った。
「ポジティブなのとネガティブなの、どっちが先がいい?」
 うっ、と二階堂は一瞬言葉に詰まった。
「……えーと、じゃあ、ネガティブなのを先に」
 大森は頷いた。
「うん、ではまず澄舞県商工会議所連合会の顧問行政書士として、少し苦言を呈します」
 低く張りのある声に、二階堂の表情が固まり、野田の頬の緩みも消えた。室内の皆の注目が大森に集まった。
「消費生活センターは正義の味方、と言ったね。今回の事件のように悪質商法の行政処分をする場面では、そのとおりだと思う。でもね、多くの一般事業者は、法律を守って商売をしている。センターは、消費者から苦情があれば事業者と対峙する存在だ。一方のセンターを「正義」だと高らかにいうのなら、他方の一般事業者は「悪」ということにならないか?」
「そんな──」
 二階堂の声が少し擦れた。大森はすぐに笑顔で言葉を継いだ。
「──と、いちゃもんを付けられる隙があるね、という話だよ」
「連合会で誰かがそう言っていた、わけではない?」
 野田の問いに大森は頷いた。
「ええ。あくまでリスクマネジメントの視点です」
 小峠課長と同じようなことをいう、と野田は思ったが、もちろん口には出さない。
「僕は今は県庁の人間じゃない。市民を代理する行政書士として役所と調整・交渉する立場だ。そのミッションに適合するように物事を見るし、行動する」
 ミッション=使命。先程出たばかりの言葉だと、みなもは思った。
「ごめんね、あさみんをいじめたいわけじゃないんだ。隙を見せれば、足下を掬われる。センターと利害対立する側が、あの発言をどう受け取るか。可能性を幅広に想定してリスクを避けた方がいい。そう伝えておきたかったんだよ」
 二階堂だって、インタビューの時点でそれは分かっていた。だから、本番では慎重に言葉を選んだ。使う筈ではなかった映像を放送された。でも、そんなことは県とすまテレの間の話だ。県を辞めた大森に説明できる筈もない。
 二階堂は寂しそうな表情で微笑んだ。
「ありがとうございます。ああ、ダメだな、私。いつまで経っても師匠に叱られる不肖の弟子ですね」
「めげることはない。失敗は、学びの機会だよ。──さて。じゃあ今度はポジティブな方ね。県庁の元先輩としての所感」
 大森は優しい目で二階堂を見下ろした。
「不利益処分は行政に特別に与えられた刃だ。法令の課したミッションを遂行するために、適正に用いなければならない。それはとても難しく、とても大切な仕事だ。調べたら、特定商取引法の業務停止命令は澄舞県庁で初事例じゃないか。大役を果たしたね、ご苦労様」
 その言葉に、二階堂の沈んだ顔からゆっくりと大きな笑顔が咲いた。師と仰ぐ人に褒められるのは嬉しいことだ。
「ありがとうございます。やりきりましたよ」
 二階堂は右腕を掲げて、力こぶの辺りを左手でポンと叩いてみせた。
ここでは・・・・、きちんと刃を振るえるんだね」
「はい」
「良かった」
 しばらく言葉が止まった。二人の間で、何か言葉にならない会話が続いているようだった。
「まあ、野田さんの下なら、そこは安心だよね。鍛えられたでしょ」
「ええ、それはもうたっぷりと」
「野田さんは馬力ある人だから」
 大森の言葉に、野田は破顔した。
「なに、褒めても何もでないよ? 飴食べる?」
 野田は自席の缶に手を伸ばし、飴をふたつ取って大森に差し出した。大森も笑って
「昔もよくこうやって飴もらいましたね。ひとつだけ、いただきます」
と一個をつまんだ。
 その時、入口の方で気配がした。小峠課長と河上補佐が来て、近くにいた相談員に入口に貼ってあるポスターについて何かを話している。
 大森は野田と二階堂にささやいた。
「さっきの話、僕の私的な感想なんで、上に伝えなくていいですからね」
 執務室まで来た小峠は、大森を見て目を見開いた。
「あ、大森さんじゃない。おひさ」
「どうも、ご無沙汰してます。丁度退散するところで」
「なんだ、ゆっくりして行けばいいじゃない」
「いや、次の予定もあるので。じゃあ、あさみん、頑張ってね」
 大森は二階堂に小さく手を振った。二階堂も嬉しそうに笑って手を振り返す。
「野田さんも、また勉強会企画してくださいね」
「分かった、その時は連絡するよ」
 去って行く大森の背中を、皆が見つめていた。彼の姿が消えてから、小峠が野田を振り返る。
「大森さん、何用?」
「いや、近くまで来たから立ち寄ったそうです」
「ふうん」小峠は少し何かを思案している風だ。「ま、いっか。じゃ、始めましょう」

 インターンシップ終了のセレモニーは五分ほどで終わった。拍手の中を小室とみなもは出口へ歩み、最後に皆に一礼して、澄舞県消費生活センターを退室した。
 エレベーターを待っていると、二階堂がやってきた。
「最後だから、玄関まで送るよ」
 エレベーターの中でみなもが尋ねる。
「さっきのお客さんは、OBさんですか?」
「そ。大森!雄大《ゆうだい》さん。私の新採の時の指導担当だったんだ」
「ああ、それで師匠」
「そゆこと」
 小室も口を開く。
「行政書士は法律系学生の目指す試験のひとつですけど、公務員経験者は無試験で取得できるんですよね」
「そうね、大森さんもそのパターンの筈だよ」
 行政書士・司法書士・税理士など、公務と密接に関わる民間法律職は、資格試験に合格することが標準のコースだ。しかしそれぞれに関連分野の公務経験を評価して試験を免除する特認制度があり、行政書士なら高卒以上で十七年以上の行政職公務員勤務経験があれば、申請によって資格を得られる。
「法律家さんなんですね。サングラス掛けてたから、恐い人かと」
「ううん、優しい人よ。サングラスは、多分、医療用。最近目を悪くされたって聞いてる」
「あ……そうでしたか」
 みなもは自分の迂闊な思い込みを恥じた。
 一階ホールであらためて三人は向かい合った。澄舞駅まで歩くという小室は南玄関へ、県庁前でバスに乗るみなもは北玄関へ向かうことになる。
「それじゃあ、二人とも、お疲れ様でした。これからも、頑張ってね。あと、もしその気があれば、澄舞県庁受けてね」
 二人は笑って頷いた。
 みなもは、北へ。小室は、南へ。二人の姿が消えるまで見送る二階堂。
 一期一会。それぞれに異なる場所で生きる三人は、よほどの縁がない限りもう会うこともない筈だった。

(50)心を定める

 帰宅時間の目処が立たないから晩御飯は職場で出前を取ると、秀一から返信があった。この半年余りでそういう日の寂しさには慣れた。みなもは帰路にましみやで自分用のお弁当を買って、アパートでそそくさと夕食を済ませた。
 公務員は定時退庁、というイメージとはかけ離れた実態を、秀一が就職して初めてみなもは知った。
「部署や時期にもよるけどね、二十二時に退庁して庁舎を見上げると、まだいくつも窓の灯りがついてたりするよ」
 新規採用一年目の秀一には、過重労働を避ける一応の配慮があるらしい。それでも定時で帰れるのは週に一、二度で、二十時台になることがザラだ。よほど急ぎの作業がない限り二十二時には退庁を命じられるが、たまに日付が変わることもある。
 社会人って、大変なんだな。
 みなもの労働経験は家庭教師のみ、サラリーマン的な働き方とは違う。父しゃんも秀くんもサラリーマンだ。会社や役所という集団の中で仕事をする、それはどういう感じなんだろう。
 みなもにとって、この三日間は本当に刺激的だった。漠然と抱いていた「お役所」のイメージとは大きく異なる世界。しかしインターンシップ生が垣間見るものもまた、公務組織のほんの一場面でしかない。
 ぼんやりと頭を廻らせながら、パソコンに火を入れる。メーカーロゴが浮かび、まもなくwindowsのログイン画面。パスワードは指が覚えている。
 卒論構想発表資料のワードファイルを開く。以前書きかけていた数行を全部消す。冒頭で点滅するカーソル。何かを生み出そうと脳内で思考を巡らす時の集中力。目は開いていながら物を見ていない。音は鼓膜に届いても意識が向かわない。五感とりわけ視覚と聴覚が、脳内で紡がれるイメージに置き換わっている。
 これまで文化人類学の講義で聴いてきたこと。見慣れたものを、見慣れぬものにする。異文化に触れ、潜り、細部と全体構造の連環を把捉する。厚い記述。他者理解と自己理解。骨格と血肉。
「県のミッションと具体的な事務事業の関係は、澄舞県長期計画の体系図を見るといいよ」
 夕方に野田室長から聴いたひとことが蘇る。
 ネットで計画PDFを開く。最初の方に三角形の図を見つけた。頂点に澄舞の将来像、続いてそれを実現する五つの政策の柱、政策を具体化する施策群と、実際に県庁組織で行う事務事業。なるほど体系的に編まれている。
「消費生活センターは正義の味方!」
 たまたまニュースで見た二階堂の啖呵の意味、その少なくとも一端を、みなもはおばあちゃんの事件を通して感じ取った気がする。計画書のどこに位置づけられているかを探すと、政策の柱「それぞれの地域で安全・安心な生活ができる澄舞づくり」の下に施策「消費者問題対策の推進」、その下に事務事業「悪質商法事犯対策の推進」がある。
「六十点でも合格というのが、現実なんだよ」
 美しく整えられた行政計画の事業体系と、限られたリソースで実務に取り組む公務員たちの現実の姿。骨格だけでは血肉の細部の動力は窺えない、血肉だけでは骨格の総合的な作用は見えない。
 文化人類学の基本はフィールドワークだ。研究者は研究対象となる異文化集団に密接に関わり、共に暮らし、五感で観察する。その集団の血肉と骨格の総体を感じ取り、民族誌としてまとめる。
 ──よし、これだ。
 みなもは心を定めた。指が滑らかに打鍵を始め、カーソルの跡に文字が生まれた。

 月曜日の文化人類学ゼミは、三年生の卒業論文構想報告会だ。該当者四人の中でも、香守みなもの報告は、ちょっとした波乱をゼミに引き起こした。
「澄舞県消費生活センターのフィールドワーク(仮)」
 そう標題を掲げたA三版のツーインワン両面資料を元に、みなもは構想を説明していく。インターンシップで見聞きしたこと。「お役所」というものへの自分の先入観の貧しさに気付く経験。悪質商法の実態とそれに対抗する行政権限の仕組み。それを支える一人一人の公務員の姿。
「行政機関は法令によって使命と業務の枠組みが与えられています。それを具体的な事務として実現することが、役所と公務員の仕事です。その現場感覚として発せられた「六十点で上出来」という言葉に、私は注目しました。受益者としての住民の立場からは批判されかねない点数は、どのようなお役所の現実を反映しているのか。その謎を解きたいというのがフィールドワークの目的です」
 持ち時間の二十分をほぼ使い切って、みなもは報告を終えた。ここから続く二十分が質疑応答に充てられる。四年生の「人間サンドバッグ」に比べ、三年生の構想報告は教員の手心が加わる「人間パンチングボール」と表現される。もちろん、パンチングボールだって痛い。
 真っ先に手を上げたのは、ただ一人の二年生、大森範香だ。いつもの柔らかな表情と異なり、何故か目に厳しい色が宿っていた。
「インターンシップで少し経験したからそこでフィールドワークをするって、安易過ぎませんか? 思いつきで何かを観察して、意味のある民族誌が書けるとは思えません」
 いきなり重たい拳がみなものみぞおちを襲う。学術トレーニングである討論は真剣勝負、というのがこのゼミのモットーではあるが、それにしても学生間で相手を正面から「安易」と評するのは希だ。教室内にいくつかの笑い声が起きたが、戸惑いの色をまとってすぐ消えた。
 真剣勝負だからこそ、報告者は正面から打ち合わねばならない。
「確かに、私は澄舞県庁のことをほとんど知りません。でも、知らない世界だからこそ県庁は私にとっての異文化で、調査をする意味はある筈だと思ってます。内部の公務員が当たり前の前提にしていることを、知らないからこそ根っこから考えられる、そこに価値があると」
 入華教授が声を出さずに苦笑した。入華が感じたことを、範香が言葉にした。
「その論理は、知らない世界をフィールドワークすれば誰でも良い研究ができる、と聞こえます。でもそうじゃないですよね」
 鋭いフックによろめくみなも。
「香守さんの報告は、講義で聴いたことのある人類学の理屈めいたものを、自分のやりたいことにくっつけただけに思えるんです。それは本質を明らかにするのじゃなくて、偏見を強化するだけでは? これは研究の意義に関わる根本的な問題です。何かを明らかにできる目処があるのなら、教えてください」
 アッパーが顎に決まった。みなもは天を仰ぐ。
「……今は、目処はありません。何かがあるに違いないという直感だけです」
 完敗。石川耕一郎准教授が助け舟を出した.
「まあ、フィールドワークは過程で見えてくるものの方が大事だからね。調査の途中、調査後、論文執筆の過程、最後の一文字を書き終える瞬間まで、問いと答えは変わり得るもの。入口は直感的疑問でも悪くはないと、僕は思います」
 石川先生、やさしー。
「それより僕が気になるのは、そもそも県庁の参与観察って、受け入れてもらえるのかな。何か約束でもしてるの?」
「いやあ、特には。インターンシップみたいに大学から話を通してもらうようなわけにはいか」
「いかないねえ。インターンシップは県庁の公式事業で大学も連携してる。卒業研究は私的活動。そこは基本自分でやらないと」
 石川先生、容赦ねー。
「センターの担当さんとは仲良くなったし、メアド交換したので相談はできると思ってます」
 ここで入華教授が口を開いた。みなもに対する助言であると同時に、ゼミ生全員に向けたレクチャーでもある。
「仲良くなったというのは、錯覚だと思ったほうがいいよ。インターンシップでは県庁側はホスト、学生はお客様。社交上の笑顔に過剰に期待しちゃいけない。
「フィールドワークというのはね、調査者側の都合であって、被調査者には負担ばかりで何もメリットがない。相手に信頼してもらって受け入れてもらうのは、とてもデリケートで難しいことなんだよ。キャリアを積んだ研究者でも、研究したいと思う社会集団にいくつもフラれて、ようやく巡り会えた条件下でフィールドワークに臨むんだ。ある意味での偶然と幸運の上に、調査は成立するといってもいい。
「役所のエスノグラフィの先例はいくつかあるけど、元公務員が経験を元に書いてたりするんだ。外部の学生が役所でフィールドワークをするのは、実現すれば画期的なことだけど、間違いなくハードルは高い。役所でも民間企業でも、人員に余裕はなく本来業務で手一杯だ。中期長期の学術調査なんて受け入れる余地はないでしょう。ましてや消費生活センターなんて、消費者や事業者のデリケートな情報だらけで、部外者を受け入れることは基本的にタブーと考えた方がいい。
「さっきの石川先生の問いかけにはね、そういう問題が背景にあるんだよ」
 入華の振りを石川が引き取った。
「今回香守さんが消費者行政のデリケートな一幕を見聞できたのは、家族のトラブルという偶然の上に成立したものだよ。それがどれだけ興味深くても、偶然に二度目はない」
 みなもは気持ちがしゅんとなった。せっかく良いアイディアだと思ったのに、やっぱり難しいのかなあ。その沈んだ表情を、範香はじっと見つめていた。
 入華はレジュメに目を落とし、しばらく黙って何かを考え、徐に口を開いた。
「とはいえ、アタックする前から諦めることはないさ。幸い三年生にはまだ時間がある。正面から調査できない場合は、できるやり方を考えればいい。偶然に二度はないけれど、もしかすると香守さんは幸運かもしれない。ね、石川先生、気付いた?」
「ええ、いますね」
 石川もレジュメを見た。末尾には最終日の啓発動画のラストシーン、消費生活センターのみんなと映った画像を載せていた。
「香守さん、この写真の右の方にいる体の大きい人、野田彌さんだよね?」
 石川の口から突然野田の名前が出て、みなもは驚いた。
「あ、はい、そうです」
「役職は?」
「消費生活安全室の室長です。兼務で消費生活センター長も」
「管理職だね、しかもセンターの責任者か。ふーん」
 石川と入華が曰くありげに顔を見合わせた。
「香守さん」石川がいう。「もしかすると、本当に微かなものだけど、希望があるかも知れないよ。ただ、仮にうまくいったとしても、県庁の参与観察はとても大変だと思う。本気でチャレンジする気は、ある?」
 覚悟を問われて、一瞬、みなもは固まった。微かな希望──あの組織にフィールドワークに入れる可能性。それは願ってもないことだ。
「はい、あります!」
 みなもはきっぱりと言い切った。
 大丈夫。私は、やる時はやる女なんだから。


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