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第1話[6]~[9]まとめ/小説「やくみん! お役所民族誌」

第1話「香守茂乃は詐欺に遭い、香守みなもは卒論の題材を決める」

【前回】

[6]澄舞県庁へ

 朝の澄舞県庁前バス停は、多くの人が降車する。いつもなら、みなもはぼんやりその様子を眺め、そのまま澄舞大学前まで移動するところだ。今日は初めて、澄舞県庁前でバスを降りた。
 道路から広い前庭を挟んだ向こう、コンクリート打ち放しの6階建てビルが、澄舞県庁本庁舎だ。上下に軽く押しつぶしたサイコロのような安定感のある外形は、今時のそれとは異なる、昭和の建築デザインだ。明るい灰白色のコンクリートと黒い窓枠が整然とした升目を描き、美術的風格というべき佇まいが感じられた。
 すぐ右手には庁舎と同じくらいの高さの山があり、麓には石垣が聳えている。その上、木々の緑の更に上には、漆黒の松映城天守閣が空の青に映えていた。本庁舎が建つ場所は松映城三ノ丸跡地で、幕末まで藩政の中心施設が置かれていたという。つまりここは、江戸時代から連綿と続く行政拠点ということになる。
 バス停から人の流れに沿って歩くと、みなもは自然と本庁舎玄関にたどり着いた。秀一の通勤時間と重なる筈だが、それぞれ執務室へと急ぐ大勢の職員たちの中に彼の姿を見つけることはできず、みなもはほんの少し気を落としてエレベーターに乗り込んだ。
 生活環境部のある6階で降りると、すぐ正面の柱に執務室の配置図が掲げられていた。それを眺めて初めてみなもは、この建物が四角い箱ではなく、中央が天まで吹き抜けたロの字型の回廊式であることに気づいた。エレベーター正面の広々とした窓は中庭に面し、朝日が眩く差し込んでいる。目指す生活環境総務課は右手、回廊の南側に面しているらしかった。
 腕時計に目をやる。8時10分、澄舞県庁の始業時間まで20分ある。始業の少し前に来ればいい、とは聞いていたけれど、早すぎるだろうか。
 みなもはしばし逡巡し、脳内で入室手順をシミュレーションすることにした。まずは部屋の入り口で全体に挨拶だ。明るく元気よく、はきはきと。みんな挨拶を返してくれるだろう。それから、部屋にいる一番偉い人を見つけて、あらためてご挨拶。あとは、以前電話をくれたカワカミ課長補佐を頼って、その場の流れにうまいこと乗っかって……。
 チーン、とエレベーターが鳴った。肩越しに振り向くと、開いたドアから若い男性が一人降りてくる。濃い紺色のスーツ、撫で付けた髪、黒縁の眼鏡。如何にもスクウェアな公務員という雰囲気を醸し出していた。
 なるほど、これが厳しい公務員試験をくぐり抜けた県職員というものか。まだ青年といった年頃で、秀一より少し先輩くらいだろうか。大学生のリラックスした雰囲気のままスーツを身につけたような秀一とは、空気が違った。
 青年は、柱の配置図に目もくれることなく回廊へ歩いていく。もしかすると生活環境総務課の職員なのか。みなもは彼の後から少し離れて、おそるおそるついていった。
 執務室のドアは開け放しになっていた。青年は、つかつかと執務室の中に入る。1秒ほど間をおいて、張りのある高い声が聞こえた。
「おはようございます! 今日からインターンシップでお世話になる小室隆朗(こむろ・たかあき)です!!」
 学生かよっ! 同じインターンシップ生かよっ!!
 他大学の男子と一緒になるとは課長補佐から聴いていた。聴いてはいたのだが、今の今まで念頭から落ちていた。
 廊下の中途で立ち止まったみなもの耳に、部屋の中から小室に挨拶を返す数名の声が聞こえた。脳内シミュレーションした手順を先に言われてしまった形で、一瞬、頭が白くなる。
 ええい、ままよ……って古い小説で読んだ台詞は、こういう時に使うんだよな。
 みなもはノープランで足早に執務室入り口から一歩入り、小室に負けない声を張り上げた。
「私もです! インターンシップでお世話になる香守みなもです!!  よろしくおにぇが……お願いします!!!」
 60度に頭を下げながら脳内は(噛んだ噛んだ噛んだ~)とぐるぐる。1.5秒の沈黙。あはは、と皆が一斉に笑って、口々に「おはようございます」と明るい声が返ってきた。顔を上げると、既に出勤していた職員数人の柔らかな視線がみなもに集まっていた。小室の表情にも堪え切れぬ笑みがあった。
 ……よし、つかみはO.K.、結果オーライ。私はやる時はやる女。
 一瞬でポジティブマインドが復活し、みなもも笑ってもう一度軽く頭を下げた。
 部屋の奥、窓際に座っていた細面の中年男性が席から立ち上がり、みなもと小室に近づいてきた。
「先日お電話した河上です。ふたりとも、今日はよろしくお願いします。ここで少しセレモニーしてから、消費生活安全室に案内します。ごめんなさい、ちょっと今バタバタしてるんで、8時半から始めますね。それまでここで座っててください、ごめんなさいね」
 彼は早口にそういうと、ふたたび席に戻った。えらく腰の低い人だな。河上直(かわかみ・すなお)課長補佐、一週間ほど前にみなもに電話連絡をくれた人だ。今の様子から、小室にも同様の電話があったのだろう。
 部屋の奥にある簡素な白いテーブル、そのパイプ椅子にふたりは並んで腰を下ろした。すぐ目の前、中央の窓を背にした事務机には小柄な女性が座って電話をしている。一瞬、彼女はふたりそれぞれと視線を合わせて軽く会釈をし、再び目を逸らして電話の相手と話を続けた。机上の木製の三角名札には「課長 小峠美和子(ことうげ・みわこ)」とある。彼女がこの課のトップであるようだ。
 小室と雑談を始めるわけにもいかず、みなもは所在なく部屋の中を見渡した。建物の外見と同様に、内装は古びた印象を受ける。机や椅子、書類棚などは、澄舞大学事務室と同じようなありふれた事務用のそれだ。
 部屋の入口すぐのところには、8人分の机がまとまってひとつの島を形成している。上には「総務予算グループ」の木札。窓からの外光を背に室内を見渡せる単席が三つ。中央が小峠課長で、テーブルに近い左手の河上課長補佐は額に手を当てて何事かを考えている。右手は今はまだ空席だった。
 部屋には出入口の他に、左右にひとつづつ、扉があった。どちらも開いているが、部長室の札がある部屋の照明は消えていて暗い。もう一方の次長室には人の気配がした。
「そういうことならなおさら、広報課として約束違反のペナルティを課すべきでしょう」
 ふいに電話に向けた課長の小さな声の中から、広報課という言葉が鮮明に聞こえた。秀一のいる課だ。みなもは顔を違う方向に向けたまま、なんとなく耳をそばだてた。会話から何事かトラブルの気配が漂っている。始業時間前なのに、もう仕事は始まっているようだった。
「消費室長の意見はこの後確認させる。うん……いやそれは。あちらと県の信頼関係の問題だから、ケジメはきちんとしないと」
 河上補佐が、ちらり、と小峠課長の方を見るのが、気配でわかった。どうやら河上も小峠の電話の内容を気にしているらしかった。

        *

 8時半、始業のチャイムが鳴り響いた。何かの音楽のメロディ、みなもには聞き覚えがない。
「また後で電話します。はい、では」
 小峠課長は途中で話を打ち切る雰囲気で受話器を置いた。立ち上がると、みなもたちに近づいてくる。二人は慌ててその場で立ち上がった。
「小室さんと香守さんですね? 私は生活環境総務課長の小峠です、よろしくね。──それじゃあ、みなさん注目!」
 小峠課長が声を上げると、室内の全員がさっと立ち上がったので、みなもは少し気圧された。執務室の中にいるのは全部で14人ほどだ。年齢層は三十~五十代と幅広く見える。
 次長室からも一人の男が出て来た。五十代半ば、細身の坊主頭。前には出ず、他の課員の後ろからニコニコとこちらを観ていた。
「今日から三日間、インターンシップとして生活環境総務課で一緒に働いてくれるお二人です。じゃあ、あらためて簡単に自己紹介を」
 小峠課長に促され、自然と小峠の側にいたみなもから口を開いた。
「澄舞大学3年の、香守みなもです。文化人類学を専攻しています。よろしくお願いします!」
 みなもが頭を下げるのとほぼ同時に、部屋の中が大きな拍手で満たされた。顔を上げると、誰もが笑顔だ。少し肩の力が抜けた。次は小室の番だ。
「五百島(いおしま)大学3年、小室隆朗です。専攻は法学、民法です。どうぞよろしくお願いします!」
 大学名を聴いて、みなもは内心(おおっ)と思った。五百島大学、略称いお大。旧帝大でこそないが、澄舞近県では一番の国立大学だ。学部によるが入試偏差値は澄舞大学より5ほど上をマークする。
 澄舞の高校生で、一定の学力と家庭資本を持つ者は、関西や関東の大学に進学することが多い。しかし、子供は優秀だけれど遠方に行かせたくないと考える家庭にとって、大きな山地を越えることにはなるが高速なら三時間かからずに行けるいお大は魅力的な選択肢だ。みなもの同級生も一人いお大に進学している。
「香守さんは広報系の仕事に関心があるということです。ね?」
 課長の言葉にみなもは頷いた。
「小室さんは法令に関わる部署が希望でした。なので、インターンシップとして生活環境部にお迎えするお二人には、広報も法執行もある消費生活安全室で行政の現場を経験してもらいます。消費室はこの建物ではなくて、ほらあそこ、黒っぽい建物の5階にあります」
 そういって課長は窓の外、斜め左を指差した。県庁敷地内のクリーム色の4階建て分庁舎の向こうに、黒いガラス張りのビルが頭を覗かせている。
「この後、河上さんが案内してくれます。それじゃあ、三日間、頑張ってね。以上! 後はなおちゃん、よろしく」
 なおちゃんと呼ばれたのは河上補佐だ。大人になってもちゃん付けで呼ぶことがあるのか、とみなもは好意的な驚きを覚えた。職員たちは自席に腰を下ろし、小峠課長も席に戻った。
「じゃあ、一緒に行きましょう」
 河上補佐に促され、二人はバッグを持って出入り口に向かった。
「あ、なおちゃん、ちょっと」
 小峠課長が微妙にトーンを落とした声をあげ、河上補佐は課長のもとに歩み寄った。みなもは廊下に出てから振り返り、その様子を眺めていた。二言、三言、課長が何事かを話す。河上は小さく頷いた。二人とも、挨拶の明るい笑顔とは異なる、真剣な表情だった。

        *

 澄舞県庁本庁舎は昭和34年の建築だという。ロの字の6階建て庁舎から南側へ、2階建ての建物が接続している。
「これは澄舞県議会」
 庁舎前を歩きながら、河上補佐が二人に説明をする。「あっちは教育委員会で、正面の道路向こうにあるのが澄舞県警。その両側も県の庁舎で、県土整備部や教委以外の行政委員会なんかが入ってます」
 みなもは、はい、はいと元気に頷いて、その実あまりよくわかっていない。小室は違った。
「こんなに庁舎が分散していては、部局間の意思疎通が不便ではないですか?」
「おー、するどいね。そう、不便なんですよ。とても。でもねえ、仕方がない。澄舞県庁は昭和三十年代の建築で、当時は手頃な大きさだったんでしょう。でも、その後の社会の変化とともに行政の役割はどんどん拡大して、それに伴い人も増えていった。今ではとても本庁舎だけでは入りきれないんですよ。ひとつにまとめれば便利なんですが、本庁舎を建て替えるだけの財力は、今の澄舞県にはありませんし」
 河上補佐はハイトーンで滔々と語る。
 やばい、話題に置いて行かれる。みなもは脳を巡らせ、どうにか話の流れに沿った質問を0.5秒でひねり出した。
「だから消費生活安全室も別の建物にあるんですか?」
「あー、それはまた別の要因もあってねえ。消費室は本庁の一部であると同時に、地方機関の消費生活センターでもあるから。詳しい事は、向こうで教えてくれると思いますよ」
 押しボタン式信号を渡り、澄舞県警前を左に折れる。本庁舎玄関からここまでおよそ100メートル、更に100メートルほど歩いて、目指すビルに辿り着いた。
「ここが澄舞県市町村プラザです。本庁舎に比べて、新しいでしょう? 県の建物じゃなくて、平成一桁に建てられた市町村総合事務組合の建物なんです。県も一部を間借りしてるんですよ」
 みなもは黒いガラス張りのそのビルを見上げた。今日から三日間、ここで過ごすんだ。よし、がんばろー。思いを新たにしているうちに、河上補佐と小室はさっさと中に入っていった。みなもは慌ててその後を追った。

[7]インターンシップの始まり

 野田彌(のだ・わたる)。澄舞県生活環境部生活環境総務課消費生活安全室長という長い肩書きを持つこの男は、身長190センチの巨漢だ。いかなるスポーツで鍛えたものか、首が太く体格もがっしりしている。年嵩は五十代半ば、両脇を刈り上げた短髪は半分ほどが白い。
「よおこそ! ささ、みんなに紹介しよう!!」
 彼が深く響く声を発すると、ふたつの島に分かれた室員たちがわらわらと立ち上がる。電話対応中の一人だけが座ったままだ。
 先ほどの生活環境総務課──消費生活安全室との関係では「本課」と呼ぶらしい──の古びた執務室とは異なり、広々と明るいオフィスにいるのは、室長以下17名の室員だ。しかし、一見してみなもが気付いた特徴があった。片方、部屋の一番奥の室長席から観て右手側の島は、窓際の一人を除いて全員が女性だ。
 先ほどと同じように小室とみなもが自己紹介を行い、室内が大きな拍手で満ちた。
 野田はみなもたちに向き合い、見下ろす形になる。表情は優しく、威圧感はない。
「消費者行政は、県庁の中でも特に県民のくらしに密着した部門です。その一方で、普通の人があまり知る機会のない社会の姿を間近に見聞きする、刺激的な仕事でもあります。インターンシップでみなさんに観てもらえるのはその一部分だけれど、役所はこんな大事な仕事をしているんだと感じてもらえれば、有難いと思っています」
 野田の大きな瞳に見つめられて、みなもと小室は小さく頷いた。
「三日間のみなさんの指導担当は彼女にお願いしているので、あとは彼女の指示に従ってください。じゃあ二階堂君」
「はい」
 鈴を鳴らすような声とともに一歩前に出たのは、昨夜のニュースで啖呵を切っていた女性主任だ。テレビ映えのする美形と思っていたが、直接間近で会うと整った容姿が更に際立って感じられた。みなもはこの部屋に入った最初に彼女の姿を見つけ、(あのカッコいいお姉さんがいた!)とドキドキしていた。だから、彼女が指導担当と聴いて、嬉しさで胸が小さく震えた。
「二階堂麻美といいます。じゃあ、最初にいろいろ説明するので、あっちの協議テーブルに来てくれるかな」
 二階堂主任が先導して歩き出し、二人は後をついていく。それを見た室員たちは、最初と同じように銘々自席に腰を下ろした。
 河上課長補佐が野田室長に近づき、幾分潜めた声でいった。
「昨日の件で、ご相談が。十分ほどお時間をいただけますか?」
 河上補佐も長身だが、それでも180センチを切り、何より細身だ。自然と目線は野田室長の巨躯を見上げる形になる。野田は、自分より小さく、歳若く、役職も下だが確実にエリートコースを歩んでいる河上の真剣な表情に、いつもの屈託ない笑顔を返した。
「いいよ。じゃあ、相談室が空いてるからそこで」

        *
 
 公的機関が運営する澄舞県市町村プラザは、テナントも全て役所または関連団体で占められている。消費生活安全室のある5階は、全て澄舞県庁の部署だ。エレベーターを降りて左手一帯は事務集中センター、右手奥は職員厚生課。どちらも澄舞県庁の内部管理部門に当たる。
 右手すぐの消費生活安全室は、逆に対外用務の多い部署だ。澄舞県消費生活センターを兼ねていて、日頃から一般県民が相談に出入りする。そのため、広いオフィススペースのうち職員執務室は奥に押し込められたような形で、手前半分には来客用テーブルや消費者啓発資料を並べる書架、映像を流すディスプレイなどが置かれている。右には消費生活相談に応じるための小部屋が二室。左には物品倉庫と、協議テーブルが入口すぐ左手の狭いスペースに設えられていた。パーティションで仕切られているため、そこにいる者が出入り口を通る人の目に触れることはない。
 テーブルの壁側に小室とみなもは誘導され、二階堂は反対に座った。二人の前には、あらかじめ資料が用意されている。テーブル端には、左の壁面をスクリーンに見立てるようにプロジェクターが置かれていたが、今は灯が落ちている。
「じゃあ、あらためてよろしく。最初に三日間の予定を説明……しようと思ったんだけどね」
 二階堂はいたずらっぽく微笑んで二人を観た。
「二人は顔を合わせるのは今日が初めて?」
 みなもたちが頷くのを見て、二階堂は顔を輝かせた。
「じゃあさ、三人とも今日が初対面なわけだ。緊張してるでしょ。まずは肩の力を抜くのに、ゲームやろっか。5分でできる悪質商法ババ抜き」
 彼女はテーブル下からカードケースを取り出した。鮮やかな手つきで机上にさっと並べられたカードを見ると、それはトランプではなく、イラストと文字で構成されたオリジナルカードだった。
「カードには2種類あって、一方には悪質商法の手口、もう片方はそれに消費者の予防または対抗手段が載ってる。それぞれにトランプと同じクラブ・スペード・ダイヤ・ハートのどれかのマークがついていて、どのマークも5色ある。4×5=20種類の悪質商法と、それに対応する予防・対抗策、あわせて40枚のカードがあるわけ。ババ抜きと同じようにこれをみんなに配って、手札の中に色・マークとも同じ組み合わせがあれば、捨てることができる。ここまではいいかな?」
 なるほど、本当にババ抜きと同じような感覚だ。悪質商法と対応策の繋がりが分からなくても、色とマークが共に同じなら捨てる判断ができる。二階堂が札を分かりやすく示して説明するので、混乱することはなかった。
「このゲームの特色はふたつ。ひとつは、場に捨てる時に必ずその悪質商法の手口と組み合わせについて、他の人たちに説明すること。これは、うまく説明できなくてもゲームの勝敗には関係ないから。消費者を護る仕組みについて学ぶきっかけをつくるのが、このゲームの目的なのでね。でももうひとつは、勝敗の鍵を握ってる。このカードを見て」
 二階堂は1枚のカードを掲げた。甲冑を着た武士が抜き身の日本刀を右肩上にまっすぐ立てている。袈裟に振り下ろす寸前の、八相の構えだ。絵柄は少女マンガ風の可愛らしいタッチだが、デッサンが確かで構図に迫力がある。他のカードにあるマークはなく、文字も「クーリング・オフ」と書かれているのみだ。
「これは41枚目、トランプのジョーカーに当たる最強のカード。クーリング・オフについては後で説明するけれど、マークと色の同じ対策カードが手元になくても、クーリング・オフを使える悪質商法に対してはセットで捨てることができる。その瞬間、本来セットだった対抗策の札がジョーカーに変わって、ゲームが終わるまで固定される。だから、場の流れを支配できる札なんだよね。ただし、クーリング・オフが使えない悪質商法もある。間違えてそれとセットで場に出したら、一発アウト。二人は、クーリング・オフについて、聞いたことある?」
 あるようなないような……みなもが記憶を手探りしている間に、小室が応えた。
「多少は知ってます。特定商取引法の私法規定に当たるところですよね」
「お、さすが法学専攻」
 二階堂が音を出さずに拍手の真似をした。小室は照れた様子で
「民法に対する特例法として、消費者契約法と一緒に教わったことがあります。でもうろ覚えなので自信はないです」
 話について行けるだけの知識のないみなもは、気持ちをそのまま口にした。
「悔しいけど私、法律は全然分かりません!」
「うんうん、素直に言えるのも良いことだよ。文化人類学専攻だっけ? 私、逆に、文化人類学って聴いたことない。また休憩時間とかに教えてね」
 くうっ、優しいっ、美人っ、男前っ、笑顔も素敵っ。
 みなもが脳内でありったけの賛辞を送っている横で、小室も少しく自負を満たして緩んだ表情をしていた。ゲームを始める前に、既に二人の緊張はほぐれかけていた。それが二階堂の、天然の人柄に年齢なりの「対人技術」を交えたマジックだということに、若い二人は気づいていない。仮に気付いたとしても、あらがう気持ちは起きなかったろう。
 二階堂は優しい声で二人に告げた。
「香守さんがクーリング・オフを知らないので、今回はこれは使わずにメインカード40枚だけでやってみようか。じゃあ、配るよ」

        *

 ゲームそのものは、結局4分オーバーの9分で終わった。ユーモラスなカードの効果もあり、笑って喋って大いに盛り上がった。札を見て誰かに説明する、他の人の説明を聞く。コミュニケーションゲームの効果で、3人はもうすっかり打ち解けていた。
「場が温まったところで、本題に入ろうか。まず三日間の予定について説明するね。手元の資料の2ページをめくってみて」
 二人がインターンシップ資料を開くのを確認して、二階堂は説明を始めた。初日は、消費者行政に関する座学と、最終日に製作する消費者啓発素材のネタ探しに充てる。これはみなもが希望する「広報」に関するものだ。二日目は、いくつかの行政処分事例を題材に、悪質商法や誇大広告に対する法規制の実際を検討する。これが小室の希望する「法令」に関するもの。三日目は再び広報に戻り、午前中は放送局でラジオ番組の録音をするのに立ち合う。そして午後、この間に練っていた啓発素材を実際に製作して終了となる。
「毎月2回、ラジオの5分番組を放送してるんだ。収録日がインターンシップ期間にちょうど重なったから、社会見学にどうかと思ってね」
 放送局はFMスマイレイディオ、澄舞テレビと同一資本で同じ敷地の別棟にスタジオを構えていると、二階堂は付け加えた。
「そういえば二階堂さん、昨日すまテレの「夕方すまいル」に出てましたよね?」
 みなもは話の流れで、ずっと言おうと思っていたことをさらりと口にした。
 1.5秒、沈黙。おや、お姉さんの顔が固まった?
「あー、あはは、あれねー……観ちゃった?」
 こころなしか声もうわずっている。
「観ましたよお、カッコ良かったあ!」
「僕も観ました。「夕方すまいル」は帰省してる時は必ずチェックしてますから。棒読み説明が多い行政機関のメディア対応としては、異色の演出でしたね」
 小室の言葉に、みなもは今日幾度目かの(こいつ、すげえ)を感じた。その微かな気持ちの揺れは、同じくらい微かな劣等感を伴っていた。
 二階堂は二人の反応にぎこちなく頷いた。
「だよねえ、普通はもっと冷静に説明するよねえ……うんうん……だよねえ」
 声が次第に小さくなっていく。ゆっくりと上体が前に倒れ、ついにはテーブルに突っ伏した。そのまま両手で頭を抱え、もにょもにょと身悶える。
「実はあれ、放送しないはずのテイクだったんだよ。うあー」

[8]インタビュー撮影騒動

 平日18時12分、澄舞テレビの番組がキー局の全国ニュースから自局のローカルニュースに切り替わる。「夕方すまいル」の名称は、夕方の放送であること、澄舞のニュースであること、そして英語の「You gotta smile=笑顔でいてよ」に掛けたものだという。
 澄舞県の地上波放送は、NHKを除くと3波しかない。そのいずれもが、澄舞と東隣の魚居(ととおり)の2県を放送対象地域としてカバーする。ただし、それぞれの局の成り立ちに応じて微妙な重心の違いがあり、それが局の個性にも繋がっている。
 松映(まつばえ)市に本社を置く澄舞テレビは、本社地が魚居県の他二社に比べれば澄舞寄りだと、少なくとも県民の目からは見えていた。地元のニュースや最新情報を伝える「夕方すまいル」が、澄舞県内の同時刻視聴率で他局に抜きん出ていることからも、その様子は窺える。
「夕方すまいル」スタッフから消費生活安全室にテレビ取材に入りたいとの打診があったのは、先週金曜日の午後だった。
 その日の午前中、トラブルが多発していた詐欺的な定期購入通信販売事業者に対して澄舞県が行政処分を行った旨の報道発表が行われた。「発表」といっても記者会見を行うことは稀で、今回も県庁記者室への資料提供、いわゆる「投げ込み」だ。ほぼ同時に同じ資料が県ホームページにも掲載される。
 発表を受けて、午後にはいくつかの新聞社・テレビ局から電話で補足取材があり、担当の二階堂主任がその都度に対応していた。それらは、テレビなら2分前後、新聞も相応の小さな扱いになる。それでも、県内の出来事や県庁各課から日々大量に投げ込まれる情報の中からこの事件を取り上げてくれるのだから、消費生活安全室としては御の字だ。
 しかし「夕方すまいル」は一歩踏み込んで、消費生活安全室職員のインタビューを撮影したいという。小手先の扱いで発表当日のニュースに間に合わせるのではなく、週末を跨いでも、5分前後かそれ以上の丁寧な報道をしてくれるという意図の表れだ。今回の悪質業者の情報を少しでも広めたい二階堂としては、大歓迎という他はない。
 二階堂は通話口を手で押さえて野田に尋ねた。
「室長、月曜10時に取材に来たいそうですが、いいですか?」
 野田が予定表を確認して、指でO.K.を作る。二階堂は頷いて電話の相手に「その時間で対応可能です、よろしくお願いします」と伝え、通話を終えた。
 この四月に異動してきたばかりの二階堂にとって、テレビカメラの入る取材は初めてだ。対応する室長のためにどのような準備が必要か、と少し考えて、口を開いた。
「何か原稿作っておいた方がいいですか?」
 二階堂の言葉に野田はきょとんとした表情を返す。
「うん、まあ、きみが必要なら」
「え?」
「え?」
「室長がインタビューを受けるのでは?」
「担当者のきみが受けるんだよ?」
「今、ご自分のスケジュールを確認されたのでは?」
「二階堂君の出張や会議がないか確認したんだよ?」
「え?」
「え?」
 澄舞県庁では、所属によって取材対応の考え方が異なる。二階堂が三月までいた保健医療福祉部では、簡単な事実説明を別として、管理職が対応することになっていた。だから、テレビ取材は室長が受けるものだとばかり思い込んでいたのだ。
「消費生活センターでは、職員全員が広報担当の心構えでいて欲しいな。今回の事件に想いを持って取り組んできたのは、二階堂君、きみだよ。その想いをテレビカメラにぶつければいいんだ。……カメラの前で喋ったこと、ある?」
 ふるふるふるふる、と二階堂が首を左右に振るのを見て、野田はにっこりと笑っていった。
「じゃあこれがデビュー戦だね。なあに、すぐに慣れるさ。こういうのは場数を踏むのが一番だよ。幸い取材まで時間がある。何を話すか頭を整理しておくといい」
 こうして二階堂麻美主任のテレビデビューが決まった。

        *

 土日は閉庁日だが、澄舞県消費生活センターは日曜日も電話相談を受け付けている。そのため消費生活相談員と一般行政職員がそれぞれ当番制で日曜出勤をする。次の日曜日はたまたま二階堂が当番の一人に当たっていた。相談電話は基本的に相談員が担当するので、行政職員の役割はいざ何かあった時のサポートで、後は通常業務をこなすことになる。
 日曜当番の利点は、国・市町村・庁内他課などからの雑多な電話に邪魔をされず、自分の仕事に集中できることだ。二階堂はしっかりと「原稿」を作って、月曜日の取材に臨んだ。
 やって来たすまテレスタッフは、カメラマンと記者の二人組。記者は時折テレビでレポーターとして見かける顔で、名刺には柳楽修とあった。
「あ、原稿読むのは無しで」
 撮影場所に選んだ協議スペース。テーブルの上に原稿を拡げた二階堂に対して、柳楽がいきなりダメ出しをした。
「インタビューはライブ感がないと、視聴者に響きませんから。大丈夫、私が質問をするので、それに答える感じでやってみてください。目線は私の方へ、私に対して説明するつもりでお願いします」
 やるしかない。原稿は何度も推敲したので流れは頭に入っている。そもそも、この半年間をかけて悪質業者を追い詰めた法執行担当者はこの私だ。事件を私以上に知っている者は、他にいない。室長のいうとおりだ。やれる。やろう。
 原稿を読まないと決めたことで、かえって肝が座った。
 照明がセットされ、頑丈な三脚に据えられたテレビカメラの大きなレンズが二階堂を捉えた。柳楽の位置から角度を取っているので、二階堂の目線もまたカメラに対して斜めになる。
「とちっても大丈夫ですからね、いくつかのテイクからベストの箇所だけを繋ぎます」
 二階堂は無言で頷く。
「じゃあまず最初に、今回の発端となった相談内容から教えてください」
「はい。6月に高齢者の方から、あー、七十代の女性の方からお電話がありました」
 二階堂は、目線を柳楽に向けたまま脳を巡らせ、言葉を継いでいった。若干行きつ戻りつし、たまにとちりながらも概ね説明すべきことは説明しきって、二階堂は小さく息をついた。
「……はい、ありがとうございます。んー、大体良い感じだけど、何箇所か詰まりましたね」
 すみません、と二階堂は小さく頭を下げた。
「もう何回かやってみましょう。ちょっと説明が長いので、半分くらいに縮められますか」
 ぎょっとした。今の内容を、半分に。情報をいくつか削ぎ落とす必要がある。話の幹と枝葉を見分けなければ。
「わかりました、やってみます」
 5秒ほど脳内で再構築し、第二テイク。終了。
「内容はいいですね。大事なところで目線が彷徨ってしまったので、私をじっくり見てもう一度、行きましょう」
 内容はクリア、目線に気をつける。二秒自分に言い聞かせて、第三テイク。終了。
「パーフェクト! 念のためにもう一回」
 即座に第四テイク。終了。
「おっけーです。じゃあ次は」
 テレビ局の取材とはこのようなものだったのか、と二階堂は新鮮な驚きを覚えた。
 その後も柳楽の誘導に従って、調査の結果判明した事業者の手口、特定商取引法に違反するポイント、民事手続で返金を求めるのは難しく迅速な行政処分が被害拡大防止のために必要だったことなどを話した。緊張がほぐれてきたせいか、後半はほぼワンテイクでO.K.になった。
「じゃあ最後に、テレビを見ている県民に向けて、こうした被害に遭わないよう気をつけるポイントを、ひとことでお願いします」
 テレビカメラが二階堂の正面に移動した。二階堂は澄ました顔で締めの言葉を口にした。
「一番のトラブル予防としては、契約の前に広告の説明をよく読んで、慎重に判断すること。これに尽きます」
「……オッケーです。じゃあ撮影終了、お疲れさまでした」
 その声を聞いて、二階堂の顔から笑みがこぼれ、そのまま大きく伸びをした。柳楽はそれを見て、機材を片付け始めていたカメラマンを後ろ手で軽くつつき、二階堂に向かって言った。
「ああ、いい表情になった。やっぱり撮影の間は、緊張してました?」
「まあ、こういうインタビューは初めてなので。でも、いい経験させてもらいました。次回はもうちょっと上手くやれるかも。次回があれば、ですけど」
「あはは。でも初めてとは思えない、アナウンサーみたいにわかりやすい説明だったと思います。ただ全部を使うと間伸びするので、局で用意する説明と組み合わせます。編集はこちらに任せてくださいね。あなた方は行政のプロ、私たちは報道のプロですから。尺は全体で五分ほどになると思いますが、県民に伝わるニュースにしますよ」
 二階堂は椅子に腰を下ろしたまま、立っている柳楽の芯のある眼差しを受け止めた。ああ、この人は信頼できる。そう思った。
 柳楽は続けた。
「行政処分に漕ぎ着けるまで、半年近く頑張ったんですよね。いろんな苦労があったんじゃないですか?」
「そりゃあもう!」と二階堂の声のトーンが一瞬上がり、すぐに下がる。「まあ、テレビじゃ話せないんですけどね」
「なんだか語り足りない感じですね」
「今回の事件に限らず、他のいろいろな事案で、悪質業者には腹に据えかねることがたくさんありますから」
「そういえば今回の事業者も、高齢者を威嚇してたんでしょ。ひどいなあ」
「そう、そこ! 自分のおじいちゃんおばあちゃんみたいな歳の人を、どんなつもりで追い込んでいたのか。まったく腹立たしい」
 二階堂はだんだんテンションが上がってきた。
「悪質業者に対する二階堂さんの気持ちを素直に表現すると、どんな感じになるんだろう。興味あるなあ。試しにカメラに向かって、やってみてくださいよ」
 カメラは三脚に据えられ、二階堂を正面から捉えたままだ。カメラマンは少し離れてケーブルをまとめているので、回ってはいないようだ。
「悪質業者を行政処分しても、相手が確信犯だと民事交渉で返金を期待するのは難しいというお話でしたが、泣き寝入りしている人も多いのでは」
 そこまで言って、柳楽はレンズを指差し、キューを出す。面白い、と二階堂は思ってしまった。中腰に立ち上がり、テーブルから身を乗り出すと、レンズを真っ直ぐに見据えた。
「でも、そこで諦めちゃダメ! 法律の隙間を縫ってずるい商売をする連中はたくさんいる。間違いは、間違いだ。事業者の不公正は、苦情を言って改めさせなきゃいけない。今の法律で被害者を救えないなら、法律を変えればいい。皆さんの小さな声が集まれば、社会を改善する力、法律を変える大きな力になるんです。黙って泣き寝入りはやめよう。消費生活センターは正義の味方、困った時は電話番号188、『だまされるのは「いやや」』まで!」
 一気に吼えると、大きく肩で息をつき、椅子にすとんと腰を下ろす。
「って、言えたら気持ちいいんだろうなあ」
「言えば良いじゃないですか。二階堂さんの思いが籠った言葉で、伝わるものがありましたよ」
 二階堂は顔の前で手を振った。
「無理ですよ。公務員ですからね。今回行政処分をした事業者だって、特殊詐欺を働く連中みたいな犯罪者じゃなくて、一応ちゃんとした企業なんだから。違法行為は法に則って厳正に処分するけれど、それ以上のネガティブな論評は控えないと。本音では苦々しく思っていてもね」
「さっきのは本音?」
「本音ですねえ、それは間違いない」
 二階堂はもう一度カメラを一瞥した。
「カメラ、停まってますよね?」
 どうだろ、と呟きながら柳楽がカメラマンの方を振り向く。その口元に笑みが含まれているような気がした。カメラマンが機材に近づいて
「さっき停めましたよ……あ、ごめんなさい、動いてた」
 え゛ぁっ、と奇妙な声が二階堂の口から漏れた。
「今の映像は使わないでくださいよ?」
 二階堂の言葉に、柳楽は曖昧に頷いて微笑んだ。
「帰ったらすぐ編集しますね。突発的なニュースさえなければ、今日の夕方すまいルで取り上げます。楽しみにしていてください」

        *

 澄舞県庁の業務終了は17時15分だ。しかし定時で帰れるかどうかは、部署により時期により異なってくる。消費生活安全室の場合、相談員を除く一般行政職員は残業が多い。その日も夕方すまいルが始まる18時12分には、野田室長・二階堂主任を含めて4人が残っていた。
 勤務中は基本的にテレビは点けないが、ニュースや業務に直接関連する番組は別だ。いくつかのヘッドラインニュースの後、いよいよ今回の事件の報道が始まった。スタジオ、市町村プラザ、そして二階堂麻美主任の登場だ。
「うわー、映ってる」
 二階堂は両手で頬を挟み、小さく身を捩る。
「落ち着いた語り口だね」
 野田は太い声で印象を口にした。
 コンパクトにまとまった二階堂の説明と、放送局側で用意したイラストとナレーションで、今回の事案のポイントがよく分かる。いくつもテイクを重ねた中からベストのものを素材にして編集する。なるほどこれが報道のプロというものか。二階堂は感心しながら画面に観入っていた。
 しかし次の瞬間。
「でも、そこで諦めちゃだめ!」
 突然自分の顔がアップになり、ひゃゅっ、と奇妙な声が漏れた。画面の中の二階堂がテーブルから身を乗り出し、強い視線が画面を見る者を貫く。
 吼える、吼える、吼える。そして最後の決め台詞。
「消費生活センターは正義の味方、困った時は電話番号188、『だまされるのは「いやや」』まで!」
 画面がスタジオに切り替わった。二階堂はよろめいてデスクに両手をついた。
「うっそーん! 使わないでって言ったのに!」
 信頼できると思った私の乙女心を返せ! 乙女じゃないけど!
 報道の最後は「一番のトラブル予防として、契約はくれぐれも慎重に、とのことです」との女性アナの言葉で締めくくられていた。二階堂の本来の締めを、アナウンサーが代読した形だ。
「あのテイク、使ったんだねえ」
 野田がにやりと笑って二階堂の顔を見た。野田は椅子に腰を下ろしているが、大柄なので中腰の二階堂より少し目線が上だ。
「撮影の声、聴こえてました? まずいですよね、テレビであんな飛ばしたら」
「いいんじゃないかな。ちょっと言葉は強いけど、伝わる広報として、僕はこのくらいインパクトがあっていいと思うよ」
「ほんとですかあ」
 その時、室長席の電話が鳴った。短く2回。庁内線コールだ。野田が受話器を上げた。
「はい、野田です。ああ、お疲れ様です。観てましたよ。はい。ああ、いやそれは違いますね。あれは放送しない予定の試験テイクでした」
 自席に戻りかけていた二階堂は、うっ、と固まって野田の方をみた。電話はきっと小峠課長からだ。二階堂はどうも課長とソリが合わない。
「ええ。まあ、そういうことになりますね。いや、そこまでかどうか。二階堂君は──」野田はちらりと二階堂を見た。「まだいますよ。でも定時を過ぎているので緊急性がないなら、ええ、明日に。彼女はインターンシップの担当をしてもらうことになっているので、朝イチで僕が事情を詳しく聞いておきますから。はい。では」
 受話器を置いた野田室長に、二階堂主任は恐る恐る尋ねた。
「……課長でした?」
「うん、怒ってた」
 野田が満面に笑みを浮かべて不穏なことをいう。この男はいつもそうだ。苦しい時ほど楽しそうな顔をする。
「電話では事情を聞くっていったけど、あれはただの時間稼ぎ。状況は大体分かってるから、いいよ」
「でも、近くにおられませんでしたよね?」
「ふふーん、実はね、広報資料の整理をしながら、パーティションのこっちから聞き耳を立ててたんだよ。なんだろう、ほら、我が子の初めてのお使いを隠れて見守る親みたいな感じ?」
 言い得て妙の表現に、二階堂は素直に笑った。金曜日のやりとりが脳裏に蘇る。意図せず初めてテレビ取材を受けることになった自分を、内心案じてくれていたのだろう。
 二階堂麻美は現在34歳、入庁して12年目だ。澄舞県職員として経験する職場は消費生活安全室が5箇所目、つくづく職場環境は同僚に恵まれるかどうかに左右されると感じる。直属の上司かどうかを問わず、良い先輩に恵まれれば、難しい仕事でもどうにかやっていける。そうでなければ、心をすり減らす。12年の経験の中で、野田は2番目に頼れる先輩であり良き上司だと思っていた。
「ひとつだけ、聴かせてよ。公務員としての立場は置いといて、広く県民に伝えたい、あなた自身の本当の言葉だったということで、いいよね?」
「はい」二階堂は頷いた。
「わかった。課長には僕からちゃんと説明しておくから。今日は早めに切り上げて、明日からのインターンシップにしっかり臨んでください」

[9]管理ということ

「というわけなのよね」
 二階堂麻美は、昨日の顛末を15秒の情報量で説明した。
「でも、結果的には良かったんじゃないですか?」とみなも。「説明だけだと耳から入ってもすぐに忘れちゃうけど、あのインパクトは残りますよ」
「ぼくも香守さんと同じ意見ですね」と小室が言葉を継ぐ。「一視聴者として、公務員が言ってはいけない言葉だったとは感じません」
 二階堂は二人の顔を交互に見た。
「ほんと?」
 二人がそれぞれに頷く。
「そっか。そういって貰えるなら、少しは気が楽になるかな」
 少しは、だ。課長が怒っている。そう思うと、昨夜は寝つきが悪かった(眠れなかったわけではない)。きっと今、相談室では河上補佐と野田室長がその件を話しているのだろう。
 考え出すと気は重くなるばかりだ。目の前にやらねばならない仕事があるのはありがたかった。
「じゃあ、最初は座学ね。消費者行政の概要について説明します」
 そういいながら二階堂はプロジェクタのスイッチを入れた。

        *

 その頃相談室では、河上直生活環境総務課課長補佐による野田彌消費生活相談室長へのヒアリングが行われていた。案件は二階堂麻美主任の想像のとおりだ。
 相談室は4畳ほどの正方形のスペースだ。奥の壁に一辺を接する形で白テーブルがひとつ、その左右に椅子が二つずつ設えられている。壁は建物の一部ではなく、後付けのパーティションだから、薄い。それでも扉を閉めて小さな声で話せば、外から話の内容を窺うことは難しい。
 消費生活センターは消費者からのトラブル相談対応を業務の柱とする。相談内容は相談者の個人情報の塊、相手方事業者の営業情報の塊のようなものなので、開放空間で対応するわけにはいかない。そのために相談室が設けられているわけだ。
 相談室が本来用務で使用されていない場合は、人事情報など一般職員に聞かせられない電話や密談にも使われる。今回がまさにそれだ。
「柳楽記者にはその場で明確に『映像を使うな』と伝えてあった、ということですか」
 テーブルを挟んで対面する二人。河上の確認に、野田は頷いた。
「確かに言ってたよ、一言だけどね。ただ、相手の返事は聞こえなかったな。二階堂君によると、頷いたような違うような曖昧なボディアクションで、有耶無耶だったらしい」 
「その時に、きちんと相手の言質を取るべきでしたね。後ろで聞いていらしたなら、室長がフォローすることもできたのではないですか?」
 河上はメモの手を止め、まっすぐに野田の目を見た。河上に非難の色はない、ごく素朴に疑問を尋ねる体だ。
「相手が映像を使うと言ったなら、そうしたさ。でも、そのような反応はなかった。カメラが回っていたこと自体、偶然だったんだよ。狙って撮ったものじゃない。だから局側もそれを使う筈がないと思ったんだ。二階堂君も、僕もね」
 柳楽記者の口元に一瞬の笑みが見えた、もしかすると意図的に撮影したのかも知れない──そんな二階堂主任の証言については言わないことにした 。主観的印象を交えると事実認定を歪ませることになる。仮に確信犯だったとしたなら、その場で「使わない」という言質を取っても意味がなかっただろう。
 河上はペンを擱き、一呼吸ついて、口をひらいた。
「小峠課長は、すまテレに厳重抗議すべきとのご意見です。これは県とすまテレとの信頼関係を損なうものだと」
「柳楽氏には僕からたしなめておくつもりだよ」
「いや、広報課長から向こうの役員に、ということです」
 わお、と声を出さずに野田は口を動かした。県庁の一所属と報道記者の関係ではなく、澄舞県と澄舞テレビジョンの組織対組織の抗議申し入れ。それがどれほど大きなことか、広報課経験のない野田にも容易に察せられた。
「そこまでしなくても、いいんじゃないかなあ。放送された映像では多少強い言葉を使ったけれど、特定商取引法担当者としての偽らざる想いだからね。僕も事前に彼女に「想いをぶつければいい」とアドバイスしたし、発言内容がそこまで問題とは、思ってないよ」
「そうですね、私も個人的には、内容そのものの問題は小さいと感じてます。庁内で何人か感想を聞きましたが、小峠課長以外にネガティブに捉えている人は今のところいません」
「だろ? なら」
「問題はそこじゃないんです」
 河上は野田の発言に被せるように言葉を繋いだ。
「使うなといった映像を使った約束違反には、きちんとペナルティを課さなければならない。そうでなければ、澄舞県庁が軽んじられてしまう。やらかしても許されると相手が学習して、同じこと、もっとまずいことが繰り返されるかもしれない。それを防ぐために、締めるべき場面なんです」
「うーん、それ、課長の意見?」
「そこまで確認した訳ではありません。課長の意向の正当性を私はそう理解している、ということです」
 河上の言葉に、野田は息を吐いて腕組をした。
 課長補佐の職務は、文字通り課長の権限執行を実務的にサポートするものだ。それぞれの部局を統括する主管課──多くは部局名を頭に冠して「○○総務課」の所属名がつく──の課長には、部局全体の人事と財政を司る強大な権限が付与されている。多方面にわたる調整実務の多くを課長補佐が担うことで、課長は「判断」に自らの知的リソースを振り向けることができる。その必要から、全部局の主管課と一部の枢要課に課長補佐が置かれる訳だ。
 言い換えれば、将来の上級管理職を嘱望される者のキャリアパスの要所が、課長補佐というポストだった。間違いなく優秀な者が配置され、組織管理実務に当たるとともに、その手腕を「上」から観察されている。それに応えることが将来の県庁幹部への道を開く。
 野田は河上の言葉を、そのようなポジションにいる者の見識として受け止めた。同意はせずとも、理解はできた。
「広報課には相談してるの?」
「先ほど課長から広報課長に電話で一報を入れました。この後私が行って、話をしてきます。どうも、柳楽記者に関しては別の案件もあるようですね」
 ふむ、と軽く首をひねって、野田は話の先をうながした。
「昨日の朝のニュースです」
「運動公園のリポートだね? 見てたよ、でも特に問題には気づかなかったけど」
「すまいぬにマイクを向けて喋らせようとしてたでしょう。あれ、広報課的にはダメだそうですよ」
「そうなの?」
 澄舞県マスコットキャラクターとして10年前にデビューして以来、すまいぬは「とぼけた可愛い犬キャラ」として活動してきた。声は出さないことが多かったが、イベントによって異なる職員が声をあてる場合もあって、設定が安定しない時期が続いたことになる。
 変化が現れたのは昨年のことだ。広報課がキャラクター強化を打ち出し、すまいぬに少年のような女性の声が固定された。同時に、それまで「ゆるい」だけだったすまいぬの動きにキレが現れ、さまざまなスポーツやアクションに挑んで、時に驚異的な身体操作を見せつけるようになった。間違いなくスーツアクターが交代していたが、広報課の部外秘事項で、詳しい事情を知る者は庁内にもほとんどいない。なにしろ「すまいぬに中の人などいない」のだから。
 ともあれ、すまいぬの存在感が増したことで、県民だけでなくネットを通じて固定ファンが付くようになった。広報課の戦術変更は一定の成功を収めたといえる。
 しかし──ひと月ほど前、SNSですまいぬの言動が軽くバズった。いわゆる「大きなおともだち」、子供向けに作られた作品を真剣に楽しむ大人のアニメーションファンの琴線に何か触れたものらしい、ということは野田も耳にしていた。何故かその時期を境に、すまいぬは喋らなくなった。
「広報効果を考えれば、むしろ積極的に喋らせる場面だろうにね」
「そう単純な話ではないらしいですよ」
 おや、と野田は河上を見た。何か事情を知っているのだろうか。野田の視線の意味に気づいて河上は慌てて
「いや、私も詳しくは知りませんけどね。すまいぬ問題は広報課マターですから、うちの関与する話ではありません。生活環境総務課としての見解を伝えた上で、広報課の判断を待ちますよ。結果はまたご報告します」
 そういうと、河上は椅子から腰を上げた。予告どおり所要時間は十分。本当に几帳面な男だ、と野田は思った。

        *

 消費者って言葉はみんな知ってると思うけど、消費者の対義語はなんだろうね。うん、そう、生産者がそうだね。あと販売者も。作る人や販売する人をまとめて事業者といいます。これに対して消費者は買って使う人です。
 大昔は自給自足で、食料も生活用品も服も自分で作って自分で消費していた。でもそれでは効率が悪いから、分業が行われるようになる。食料を作る人、家具を作る人、服を作る人がそれぞれに専門家となり、互いの製品やサービスを交換すると、全部自分で作るより良い品質のものが手に入る。物々交換はやがて貨幣経済に移行し、流通や販売も専門化する。つまり現代のわたしたちはみんな、高度分業社会の中で誰かから物やサービスを購入して生活をする「消費者」なんだ。
 そんな社会を維持する上で、大事なものはなんだと思う? 言い換えると、それがなければ消費経済社会の安定を損なってしまう鍵といえるもの。うん。うん。いろいろ考えられるね。ここで注目したいのは「信頼」ということです。
 私たちは買い物をする時、広告チラシや店頭のポップに書かれたものを参考にするよね。「この店はあっちの店より安い」とか「有名な産地の野菜だな」とか「これで病気を防げるなら」とか。私たちはこうした広告を信頼して買い物をする。もし広告に嘘が氾濫していて信頼できなければ、私たちは安心してお金を払うことができなくなってしまう。押し売りみたいに強引に買わされてしまうのも迷惑だよね。自分の自由意志で選んで買い物をできるのでなきゃ、怖くて迂闊にお店に入れないしネット通販も使えない。私たちが消費経済社会を維持して安心して暮らすために、「信頼」が決定的に重要なわけ。
 でも、世の中にはいろんな人がいる。善良な市民も、悪人も、まぜこぜなんだ。商売は「儲けること」が目的だから、儲けのために小さな嘘、場合によっては大きな嘘をつく人、平気で不公正なことをする人間は、必ずいる。
 だから、誰かが社会の信頼を護る活動をしなくちゃならない。それが消費者行政の根っこなのよね。
 消費者行政の仕事は、大きく規制、支援、相談の三分野に分かれます。
 規制行政は文字どおり事業者側に「嘘をつかない」「無理強いしない」などのルールを課して、ルールを守るように指導したり、ルール違反があったら「こらっ」と叱ったりするもの。昨日報道発表した業務停止命令がこれに当たる。
 行政は法律に基づいて事業者を規制する強力な権限を持ってます。でもね、規制行政も万能というわけじゃないの。まず、法律の裏付けが必要だから、法律の裏をかく新しい悪質商法には法改正まで対応が難しい。次に、行政職員の数が限られていて、世の中の全ての違法行為をすぐさま止めさせるだけの体制がない。被害の大きくなりそうなものから優先順位をつけて対応していくので、後回しになるもの、結局対応できないものも生じてしまう。
 そこで、消費者が自分自身の身を守ることが重要になる。それが支援行政の役割ね。最近の悪質商法の手口を広報して注意を促したり、製品事故が起きないよう正しい使い方を周知したり、消費者を護る法律の仕組みについて学習できる機会を提供したり。でも知識だけじゃだめなのよ。消費者の自立という言い方をするんだけど、「自分の暮らしを自分で護る、良いものにする」という意識を持ってもらうことが一番大事で、一番難しい。
 理想的な「自立した消費者」なんて、実はどこにもいないのよ。多かれ少なかれ、誰もが弱さを抱えている。消費生活の中でトラブルが起きた時に、どうすればいいか。頼りになるのが消費生活センターです。センターには専門資格を持った相談員がいて、消費者からの相談を聴いて解決のためのアドバイスをしたり、場合によっては消費者に代わって事業者と交渉することもある。もちろん行政サービスだからできることには限界があるけどね。これが相談行政。
 事業者規制と、消費者支援と、消費者相談。この三つの取り組みを通じて世の中の信頼関係を維持し、消費者が安心して暮らせる社会、事業者が健全に事業活動を展開する社会を支えることが、消費者行政の役割ということなんです。
 ここまでが序論です。大丈夫? 途中で分からないことがあったら質問大歓迎だから。
 じゃあ、消費者行政の三分野それぞれにディープな世界を説明していきます。こっから先が面白いんだ──。

【続く】


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