競馬写真を撮ってみて思ったこと

先日、友人たちと一緒に競馬場に行き、各々写真を撮る会を催した。

これは前々から予定されていたもので、最初にその話が出たのは一年近く前か、それ以上だったと思う。

色々都合が合わなかったりした中で、やっと先週末になって実現に至ったというわけである。そう思うと、ささやかなイベントではあるが、ちょっとした感慨がある。

撮影を行うにあたって我々はテーマを設定した。テーマはそれぞれが持ち寄り、それに対してそれぞれが応える形だ。

撮影して間もないので、まだテーマに応えた作品を提示するのはもう少し先のことになるだろうが、ひとまず撮影会自体は終えたという状態である。

持ち寄ったテーマはそれぞれ、
M:競馬 Mへの一枚
O:「流」
私:質感 視座 熱
というものだった。

私以外の持ってきたテーマについては私の口から語るのも違う気がするのでひとまず置いておくとして、私が設定したテーマは、物質的な捉え方、空間的な捉え方、観念的な捉え方、感覚的な捉え方、感情的な捉え方等々、様々な角度から対象を捉えることによって、対象の未知の側面を発見することがねらいとなる。
質感が最もイージーであり、そこから応えるのが難しくなっていく。

なお私は写真に関しては全くの素人である。普段はもっぱら絵を描いており、写真はめったに撮らない。

そして迎えた当日の撮影を通して、また、その後の話し合い、翌日に行った美術館での美術鑑賞などを通して思ったことを書いていきたい。


まず、カメラそのものについて。

私はカメラに慣れ親しんできていないので、正しく操作して撮影するのがまず難しかった。友人に設定をしてもらってなんとか撮影できたが、井戸の掘り方がわからないまま村に井戸ができたような感じであった。次催される際は勉強してから参りたい。

次に競馬写真特有の話。

まず、追うのが難しい。当然ながら馬は速い。そんな被写体を、特に真横から追おうとするとかなり難しい。フレーム内に収める、というところをまずクリアしなければならない。
しかし、これは後述するが機材の力によってある程度簡単にすることができる。

次に、撮る段階で出来る努力が少ない。

大きく分けて、どこに立つかという工夫と、技術的な問題をクリアするということの二点となる。
しかし後者はあくまで答えが明確にある中での技術的な努力であって、表現的な努力とはまた違う。表現における努力は前者の工夫と、f値の調整でボケ味をどのくらい出すか、という感じだろうか。

そのため、答えがある中での点数をひたすらに上げていくか、あるいは撮影後の味付けで表現するか、といったところになってくる。表現できる部分が少ないことで、逆に表現とはなにかを考える機会になるかもしれない。表現というものについて考えたことは後述する。

次に、馬というモチーフ、競馬場という場の持つ強さについて。

これらは強すぎて、差を作っていくのが大変難しい。

例えるなら味噌である。味変のために味噌を入れてみたことのある人なら分かると思うが、味噌は少量でも料理全体を「味噌の世界」に染め上げるほどの力がある。
競馬写真もそれと同じで、どう撮ろうとも細かな差は吸収され、「競馬写真」になる強さがある。

即ち、あまりにも強いコンテクスト。
ある種の強いテーマを扱った芸術が「そういう系」になってしまうのと近い。具体例は怖いので挙げない。

以上のことから、競馬写真で表現をやるのはかなり骨が折れると感じた。
もちろん、競馬写真の枠の中で表現するのはいかようにもできると思うし、その枠を超えなければならない理由はどこにもない。ただ、実際難しいだろうと感じたという話だ。

味噌を使うというお題で料理をしたら、味噌料理にするつもりがなくても味噌料理にしかならない、みたいな感じだ。それはそれで別に悪いことではない。味噌料理は美味しい。ただ、自分がイタリアンの人間だったとして、なんとか味噌を使いつつもイタリアの風を吹かせようとすると苦労する。当然苦労する。ピザに乗せちゃえばピザになるが、それもちょっと違うと思うし(例えばコラージュ的に加工して壁に貼ったらそりゃアートになる。だが昇華してはいない)。


次に、カメラの機材について思ったこと。

友人からカメラを借り、自分のも含めて三機を使用させてもらった。

追うのが難しい問題については、ミラーレスでない普通の一眼レフを使用することで改善されるようだった。
あとはシャッタースピードと書き込み速度の問題になる。
良い機材を使用して受けた印象は、やっているゲームがまるで違うといったものだ。

次に、写真という媒体について思ったこと。

絵は基本的にいつまでも描いていられる。しかし写真は撮影してしまったら後は出来ることが少ない。

そのため、絵と写真では流れている時間が違う。

瞬間を切り取るなどと今更言うつもりはない。私が言いたいのは、手を入れている時間の長さが違うという話だ。
モナリザは旅先に持ち歩きながら、少しずつ手を入れて制作されたと聞く。
私が受ける印象としては、絵を描くのには時間がかかるので、その時間が絵の中に折りたたまれているような感覚だ。
私が細密画を好むのは、その中に、より長い時間が流れているからなのかもしれない。

逆に言うと、写真に対して私が受ける印象は、極めて短い時間における膨大な情報の暴力である。
現実というこの物理世界が持つ、圧倒的なまでの情報量。人間が体験できる限界を遥かに超えた情報量が、常に宇宙全体で動き続けているという事実。
それに比べて私の絵のなんと牧歌的なことだろうか。


最後に、表現について思ったことを書く。

新たな答えを見つけるのか、既にある答えを突き詰めるのかという対比において、前者をより表現的、後者をより技術的と呼びたい。
以上を踏まえてこの続きを読んでほしい。

まず、我々は文脈から逃れることができない。

人は必ず文脈によって物事を理解する。
文脈は記憶の蓄積と言い換えることもできる。記憶の蓄積を人々の間で共有しているもの、それが文脈と言えるだろう。

現代美術は文脈を重視するため、ときに説明を必要とする。
では、説明が不要な作品は文脈がなくても成立しているのか。
そうではない。

そういった作品は既に人々の間で文脈が共有されている。
だから改めてどのような文脈の中にあるのか説明しなくても、鑑賞者自身が自分の持つ文脈の中で解釈できる。

即ち。それは「既知である」ということである。
知っていることについては説明が必要ない。

(現代美術は内輪ネタなどと揶揄されることもあるが、説明抜きでやっているものと比べれば、内輪ネタからむしろ遠いものかもしれない。
大衆美術は内輪ネタの大きさが大衆規模まで広いため、皆が理解できる。そのため、誰も内輪ネタだと感じないのである)

「既知である」ということはどういうことだろうか。
人は見たことがあるものに対して心地よいと感じる傾向にある。
流行りの曲は馴染み深いコード進行を基本としているし、イントロのフレーズがサビで現れれば聴き手は盛り上がる。
長く語り継がれる物語には類型があるし、みんな人間を描いた絵が大好きだ(言うまでもなく、私たちは人間をとても見慣れている)。

逆に未知のもの、前衛的なものは快くない。
それは「比較的」前衛的なことをしている人だって同じだ。
違いは「どこまでの文脈を共有しており、どこまでがその人にとって既知なのか」である。

つまり、ある人にとっては未知すぎて快くないものが、ある人にとっては適度に未知であるということ。
理解不能と飽きの狭間に「新鮮」があるのである。

また、既知からの距離がどの程度離れていても心地よく感じていられるかという耐性にも個人差がある。
それはちょうど、同じものしか食べたがらない人と、珍しいものを食べたがる人がいるのと同じことだろう。

そして未知を好まない人ほど、「既にある答えに対する突き詰め」、即ち技術を好む。
そういった人々にとっては、新たな表現よりも、「様式の完成」の方が高い価値を持つのである。

以上が、私が撮影会を終えて考えたことである。


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