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創作檄文

★アスベストさんによる要約文


 札幌よりF-MAD、いち創作に生きるものとして、インディーズシーンの皆々様へ申し上げたき儀がございます。

★はしがき

 サブスクリプションという産業革命により、「認知されぬまま淘汰される」という異常事態が発生している昨今。旧態依然のやり方で、生き残ったものなど賽に選ばれしほんの一握りの人間だけであるというのに、それが「個の美学を貫いた結果である」と、あなたは未だに「信仰」しているのではないだろうか。もしそうなのであれば、その強運を授かるために、「一体あなたは何度輪廻を繰り返せばよいのだろうか」。筆者は絶望する。

 数年前の十倍、いや百倍のリリース量。それは波ではなく津波である。流木が賽だ。十中八九あなたは飲まれて散る。SNSにて草の根レベルの挨拶周りをすればある一定数のリスナーの確保は可能だろう。だが、良い曲ですね!とコメントをくれる方のほとんどは、「リスナーではなく作り手ではなかろうか」。彼らはあなたと同じ境遇にある人たちである。「インフルエンサーに片思いして散る運命にある悲しき同志」である。

 彼らは真に音楽を愛するものであるが故に、半目だけ開けながらこう自嘲する。「運がないと今の時代は生き残れないよね」と。もしくは「俺は金が欲しいわけではないから」と居直る。だが筆者は指摘する。あなたたちは根本的にズレている。あなたは評価の対象ですらない。「認知すらされていないのだから」。それが現実である。

 SpotifyやYouTubeといったストリーミングスサービスの視聴回数は伸びても、アルバムやEPはおろか、曲単体でさえ月に10曲の売上が精々だろう。売上があるものはまだマシである。おそらくほとんどの人間がゼロ収入であろう。例えインディーズレーベルを通したとしても、それだけで食える人間などほぼ皆無であると言ってよい(パイは膨れ上がっているが故に)。

 メジャーアーティストですら死に体であるのに、マネージャーすらいないあなたが生き残れるはずがないのだ。それがあなたの美学ならば筆者は大いに尊重するが、もしそうでないのなら認識を改めてほしい。これは構造上の問題である。あなたの努力は決して報われない。たとえ報われたとしても、旧態依然ならその10倍の対価は得られたであろうに。

 おそらくだが、サブスクリプションのリリース量は既にピークを叩いたと思う。後は右肩下がりに落ちていくだけだ。「創作行為」に意義を見出している人間はおそらくどんな状況であれ活動を続けていくのだろうが、ビジネスしている人間たちは間違いなくあと数年で撤退する。

 1再生あたりの単価が「馬鹿げている」し、彼らがひと月あたり100再生の地獄に耐えられるとは到底思えない。彼らの目的はビジネスであるのだから、その一過性の情熱はいずれ他のマーケットへと放たれる。結局残るのはメジャーアーティストと分散されたままの無力なインディーズアーティストたちだけである。

 そして重要なのは、「パイは膨らんだが市場に流れている金は減少している」ということだ。富の再分配など性善説に過ぎる。配信業者にあまりにも偏った富の再配分が行われるだけだ。詰まるところ、「メジャーだろうがインディーズだろうが音源だけではもう食えない」。詰んでいる。

 大御所は過去の遺産で食えるかもしれない。若きメジャーアーティストはグッズやイベント収入等で賄うのだろう。ではインディーズアーティストは?

「未来などあるわけが無い」

★本文

 実現可能な提案を端的に記す。

 ・インディーズアーティストである我々は、「今は認知されずに淘汰されるものたちである」を共通の認識としよう。例えあなたが1万のフォロワーを持つアーティストであったとしても、ほとんどの人間はあなたを認知できない。1人だろうが1万だろうが、出会えなければ「あなたはわたしにとって現象ですらない」。

 ・インディーズシーンは今「分散の体」である。「ここに集合せよ!」。SNSというのは開かれているようでその実閉じている。輪のように繋がって見える線は、実は断線している。Twitterは特にその傾向が強い。だからどんなにフォロワー数が多くても、それはたかが20万人の閉じたおとぎの小国に過ぎない。そして「そこには次元の隔たりがある」。それはまるで第六感で感じる世界の様相だ。

 ・作り手は全てのアーティストと「相互フォローせよ」。フォロワー数5万のアカウントを5万乱立させる。それは閉じた国ではない。各々それぞれが100人程度のリスナーを抱えてると仮定しよう。横の繋がりがあり、常に門戸を開く我々は、「500万人を動員できる」のだ。そんな現象を世界が無視できるわけがない。それはもはやTwitter上のおとぎの国ではない。中南米あたりに、さも実在するかのようである。

 ・今は分散した状態であるから、創作檄文の公式アカウントをフォローし、公式アカウントがフォローしている方全員をフォローするを徹底して頂きたい。これは単にそのほうが効率が良いからである。筆者のフォロワー数に必ず全員追い付くものであるから、ここに他意はない。発起人の肩書など、この提案が実ったら捨てるつもりである。作品で真剣勝負したい人間にとってそんな肩書は邪魔でしかないからだ。筆者は教祖でも先生でもない。もちろん誰かの下僕でもない。筆者は札幌に住む一人のインディーズ志向のアーティストに過ぎない。

 ・これは北海道札幌のF-MADを発起人とするひとつの「運動」であり、決して「団結」ではない。我々に「正誤は無い」。正誤で判断するものは誤りを正そうとする。理解せぬものを軽蔑し可能性の芽を摘み取る。なぜならそれが彼らにとっての正義だからである。対立を許さない。が故に「強要する」。同調圧力は正誤による暴力である。注意してほしい。これは「ただの運動であり、それ以上でもそれ以下でもない」。大抵の運動が失敗に終わる、もしくは一過性の成果で終わるのは「そこに正誤がある」からである。絶やすものを絶やし尽くしたら、いつか必ず勝利の美酒に酔えなくなる瞬間が来るのは必然であるからだ。

 ・この「運動」に賛同するものは、あらゆる一切すべてを「尊重」してほしい。これは発起人である筆者の「持論」に基づくものであるから、賛同できない方に強要はしない。筆者はあなたの意見を大いに尊重する。「在り方には無限のバリエーションがあって良い」のだ。作り手である我々はこの言葉の響きに心打たれるはずである。真に多様性たるものは尊重から生じ尊重に帰すものである。我々作り手は、あらゆるものを尊重するものであるから、これ一切の表現を是とするものであってほしい。正誤は必ず死に向かう。繰り返すがこれはあくまで筆者の「持論」である。わたしはそう考え、生き、表現するものである。これはいわば、発起人としての意志表明であると捉えてほしい。

 ・筆者のいう一切を尊重せよというのは、あなたはあなたの尺度で価値判断せよという意味でもある。大いに傲慢であって結構だ。音楽で人を殴りたければ殴れ。それがあなたにとって価値ある行為であるならば、進んで行うもので在れ。筆者はそんな在り方をも尊重する覚悟だ。インディーズを志向するアーティストたちに問う。我々の強みとはなんだ?なんのビジネスもしがらみもなく、真に自由に表現できることではないのか?

 ・なのになぜあなたたちは自身ではなくリスナーや音楽評論家や業界の人間たちの価値観に応えているのだ?本当にそれは自身の意見であるのか?真にそうであるなら構わないが、もし違うのであれば聞いてくれ。あなたは理解せぬものを軽蔑する「あの視線」を恐れているんだ。「いいね」のつかない表現を恐れているから、いつまで経っても納得のいく作品を残せないんだ。なぜならそれらはあなた方にとって「後ろめたいアリバイ」だからである。

 ・筆者は今、作り手にのみ訴えかけている。「これからのインディーズシーンは我々作り手が価値創造する舞台」である。筆者の願いはそれ唯一つである。それは一過性のムーブメントでは終わらない。なぜならこれから起こるムーブメントの源泉は、作り手である我々の手の中にあるからだ。

 ・最後に絶対順守のルールを1つだけ定めよう。然る舞台が整ったならば、「あとは自力でやれ」。我々は集合するものであって、団結するものではない。一丸となって再生数を増やそうだとか、なにかを担保しようだとか、そういう動きの果てに「正誤」や「軽蔑」の念が宿るんだ。それは一切を腐らせる。発起人である筆者は断固としてその動きを嫌うものである。人間が集まるのだから、この現象は必ず起こる。であるから事前に述べておく。

「それは違う」。

★あとがき

 筆者はこの檄文を書くために十八年間の歳月を要した。持論を持ち、持論で語り、持論で生きる人間になりたかったから。既成概念の一切を疑い、つぶさにこの目で見てひたすらに考えに考え考え抜いた。これは命をかけた努力の成果である。そしてこの提案は筆者にとって、人生のはしがきの終わりに過ぎない。

              

              2021年7月17日 札幌の風雲児F-MAD

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