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『表現』と聞いてかなりの苦手意識を持つ「私」が表現アートセラピーをなぜ受けたか~明け渡しへの経緯~

思考優位型の人間である「私」が、思考が幻想であること、他者への思いは100%投影だということに、体験として腑に落ちた瞬間、

肉体にフリーズドライされた生い立ちの傷、持って生まれたDNAに刻まれたカルマが昇華されたがっていることに気付きました。

それはもう「私」には止められなかったし、それこそ自由意志もなければ、流れだけが来ているという感覚。「私」がどうこうして、何かができる!とは100%思えない状況に陥っていました。
※何十年も「私!」次第でなんどきでも何かができる!と思ってました。

アートセラピーを受ける1~2週間前から最終調整に入った感覚が来ていました。そしてそこまで至ったストーリーというもの存在しています。

何年も摂取していなかった、アンジェリックエッセンス「DNAクリアリング」「アンセストラル(先祖)ヒーリング」を摂取し始めたり、

※こういった類のものにはほとんど興味がなく、効果も感じられない「私」ですが、なぜかアンジェリックエッセンスだけは現象として現れるほど、「私」には昔からものすごい効果があります。

神に明け渡した人間の象徴であるガルーダに突然遭遇したり、
右足にこれまでない痛みを感じたり(霊的な意味があるようです)、

※ガルーダもBLACKさんの記事がなかったら、知らなかったので多分見てもスルーしてたはず。そもそも突然遭遇しなかったかもしれないですしね。
↓ ↓ ↓



とにかくこの数ヶ月は「自分が何か意思を発動してやっている」という感覚が無かったです。

※この数ヶ月だけでなく、それまでもこれ以降も全自動なのですが、わかりやすくするために便宜上そう言ってます。

見かけ上、意思をもっていろいろやってるつもりでも、どうすることもできない、させられているという感覚。

それもただのストーリーと言ってしまえばそれまでだけど、このFujinoという肉体精神機構は明け渡しへの道程でそのストーリーが必要だったということだと思います。


さて、初めて会った時から魂のご縁を感じ、お互い引き合うようにして大好きになったまなちゃん。

彼女が表現アートセラピーをしていることは、もちろん知っていたけど、タイトルにも書いてある通り「表現」に苦手意識を持つ「私」は、自分には関係のないことだと思っていました。

でも、冒頭で伝えたように、肉体にフリーズドライされた生い立ちの傷、持って生まれたDNAに刻まれたカルマが昇華されたがっていることに気付いてから、感覚に刻まれてるものは、思考ではなく「表現」でしか昇華できないと気づきました。

もちろん、生い立ちの傷やDNAカルマが自分の中に存在することは知っていましたし、これまでもいろんな取り組みをしてきました。しかし、明け渡し状態ではない自我の「私」が自我の「私」に取り組んでるのですから、自分の目を自分で見ようとしてる感じで、うまくいかないのは当然ですよね。

まなちゃんはとても正直で、受容力に秀で、曇りのない美しい人。彼女になら「こんなこと話したら引かれちゃうかも?!」という怖れがない状態で、私も正直にいられるとわかっていたので、今回お願いしました。それが、明け渡しへの最終日とはなるなんて、当日セラピーを受けるまで知る由もなかったです。

最終日と言ってはいますが、完全なる明け渡しに自分の感覚では1年2ヶ月ほどかかりそう。ただ、あまり限定したくないです。もしかしたらそれは明日かもしれないし、本当に一年ほどかかるかもしれません。もしかしたら、今感じてることは、明け渡しでもなんでもないと後日思うかもしれません。

恐る恐るパステルを手に取り、感じた感覚を描いてみました。どんなことを感じて描いて、この絵が何を意味するのかを今ここで書いたら、せっかく感覚で感じたものが別物になってしまう気がするので、あえて具体的には書きません。

今、この文章はいわばトランス状態で書いているので別物になってしまう心配はないのですが、普段は「これを書こう!」と思って書くと、それが世に出た瞬間に違うものに変化してしまうという現象になるのです。明晰さが足りないのかもしれません。

「生まれつき」持った人への嫉妬
神、おおもとへの恨みつらみ
現状のアストラル体、コーザル体、メンタル体

この3枚の絵からわかったのが、
「他者への恨み・つらみは、神(おおもと)への恨み・つらみ」
だったということ。

「一体、この「私」という肉体を使って何してくれてんねん!何をしたいの?何をさせたいの?頼んでないし!わざわざ肉体という制限の中に閉じ込めて何してくれてんねん!!」という感覚です。

神への怒り、恨み、つらみ。

①私が仮死状態で生まれたことも、

②子どもの頃「なんでわざわざ食べないといけないんだろう、食べなくてもいいのに。なんでわざわざ電車に乗らないといけないんだろう、瞬間移動できるのに。なんでわざわざ話さないといけないんだろう、頭で通じるのに」って思ってたことも、

③9歳くらいの時、「私って何?私は今「私」だけど、みんなはどうなの?みんなも「私」って思ってるの?みんなはどう感じてるの?「私」と同じ「私」なの?それとも違う「私」なの?」って疑問に思ってたこととか、

④大人になってからも肉体の新陳代謝の違和感(糞尿が出る、汚れが出る)とか、感情に肉体が振り回されて疲れる感覚とか、とにかく肉体への違和感がずっとそこにあったこととか、

⑤だからこそ、若かりし頃の肉体への執着(外も中もクリーンにしたいとか性的に奔放とか)、肉体に惑わされてることへの違和感とか、

それらの点と点がすべて繋がった感覚。

ここに生きていることへの恨みと違和感。自分は宇宙人かもしれないとか、なんとかチルドレンかもしれないとか思い巡らしたり、それを知ったところで「だから何?別に嬉しくないし」という感覚とか。


あぁ、最愛のパートナー、聡明な娘、快適な住環境、健康、仕事に囲まれていていても拭えないこの肉体精神機構の違和感はそういうことだったんだなと。

もしかしたらこれを読んで、そんな「私」を「不幸な人だ」と思う人もいるかもしれないし、逆に「現世利益を得た、幸せな人の哲学的な暇つぶし」と捉える人もいるかもしれない。

実際の「私」は、人と比べたり不特定多数の人にアピールするものではないけれど、現世的に普通に生きてる自分としては非常に幸せだ。もしかしたらこれ以上幸せなことあるかい!っていうくらい幸せを感じています。

でも、幸せとか不幸とかそういうレベルじゃない「肉体と『私』への違和感」があるんです。

現世利益的に言えば、満たされていても尚、愛していても尚、愛されていても尚、拭えない違和感と申しましょうか。

わたしは今ここで、何をしてるんだ!


という感じ。

とにかく、もうあなたの出番ではない、席を譲って、おおもとの手足となりなさいよ、おおもとに仕えなさいよということなのだと思う。

その答え合わせができて、明け渡しのお手伝いをしてくれたのがまなちゃんの表現アートセラピーでした。

これからどうなっていくのかは未知だけど、おおもとは心の弱い「私」を頭がおかしくならない程度に、ここまで導いてくれたんだなと思います。

もちろんこれが「私」の自作自演であっても、それがおおもとの意志ということなのであります。

正直、今までスピリチュアルやなんとか理論の新しい考え方に触れた時によく感じた独特な高揚感とか、「これ、誰かに教えなきゃー」みたいな自我は起こってきません。

静寂までいかないけど、なんかちょっと静かで、取り立てて強調するような何かもなく、今日の生を全うし、寝て、また目覚めて本日の生を全うする・・・という感覚です。



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