大嫌いに向き合うのが怖かったワケ
嫌いな人や苦手な事ってのは自分の中にその要素があるとか実は好きなんだとか言うじゃないですか。
それがとても嫌でねぇ。だって大嫌いで最低だと思っている事が自分の中にあるって信じがたいし許せないし絶対にそんなのあるわけない!!!と思えば思うほど抵抗感が増してますます嫌いの理由を増幅させて私にはそんな要素がない理由を組み立てようとしていました。
私はこのところ年を取ったせいなのか周囲の人々がとても優しく労わってくれることが多いので嫌いな人はあまり多くない。
しかしいる。
そしてそれは大嫌いだった。
大嫌いから距離を置き、生活の中に大嫌いさんをちらつかせないように生きて行こうと決めてから大分経つが、それでも年に数回大嫌いさんが私の生活圏内にちらつくことがあり、もうそれはそれは一瞬たりとも登場を許す気にもなれずちらつく度にこちらがチリチリした気持ちになってしまっていました。
どうでもいいじゃないか、過去の人だよ、と自分に訴えかけてもなかなか消えない悔しさや怒りがこみあげてきて眉間にしわが寄った。
トウリーディングやヒプノセラピー、シータヒーリングを受けて重ねて原初体験、感情記憶を掘り下げる作業を続けてみたらいろいろ出てくるんです。
昨夜、急にかさぶたがベロリと剥がれるような感情記憶の書き換えが起きました。
大嫌いさんの何が嫌いっていろいろあるんだけどその中の一つに
『他者にしてもらった事への感謝が無い。感謝どころかどんどん他者からエネルギーを貪る。そして食べつくすと仇で返してくる』というのがありました。
もうこれがホントに嫌で。それが私の中にあるってどういうこと??でしょ。
ところがあったんですね。そのものがあったというよりもそれを激しく拒絶する理由、こだわりがあったんです。
「働かざる者食うべからず」
「何かしてもらったらお返しお礼をしなければならない」
それは我が家の幼少期からの教育方針のルールの一つだった。
母から教え込まれ、それを守らないと注意されたり機嫌を損なわれたりしていたルール。母は社会で強くつつましく生きていくために良かれと思って見に着けさせたルール。ルールを守らないとお母さんに嫌われちゃう。
それが私の中でいつの間にかガッツリした法律、刑法になっていていつの間にかモノ、行為だけじゃなく心までもルールに縛られていました。
「好意にはこたえなければならない、気持ちを与えられたらそれ以上にお返ししなければならない」
与えられる全てにお返しするなんて無理だ。。
そんな思いから与えられることへの抵抗感がどんどん蓄積した。
大嫌いさんはそんなルールがないからどんどん他者から吸い取っていく様が許せない行為になっていた。そしてその大嫌いな理由に向き合って原因が解消したら大嫌いさんのことを嫌いじゃなくなるってそんなの私は許せない!そしてホントは大好きな母のことを大嫌いになってしまうかもという恐怖に向き合いたくなかったんだ。
でももう私の中でそのルールは必要無くなったから法律改正をすることにしました。
「私は何の見返りも抵抗もなく他者からの愛情を受け取ることができます」
たったこれだけだけど、足の裏の深く差し込んだ魚の目が取れたような感覚に今います。
そして大嫌いさんのことはどうなったかというと、どうでもよくなりました。好きにもならない。へのへのもへじさんになりました。
母のことも嫌いになんてなりませんでした。
母から与えられた私には不必要な思いを大嫌いさんに投影させていただけだった。幻覚みたいな存在だった。ただそれだけだった。
心が凪いでいます。
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