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『若者の∀て』 from fujifabric

「若者のすべて」


志村正彦全詩集


 真夏のピークが去った
天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は
落ち着かないような気がしている

夕方5時のチャイムが
今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なもので
ぼんやりさせて

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

ないかな ないよな
きっとね いないよな
会ったら言えるかな
まぶた閉じて浮かべているよ


29歳で、逝ってしまった、志村正彦。
僕が彼を知ったのは、彼がいなくなって、すでに十幾年経った頃。
絶版車の、でも僕のお気に入りの、スバル1360の正統後継車たる、R1に乗って買い物に、街迄出掛けのラジオから。

とても暑い日だった、クーラーはあまりつけずに、窓を全開に開けて、下手な鼻歌を大声で唄う、常だった僕にそれを諦めさせるだけの、茹だる8月の、暑い、夏の終わりの頃だったと記憶する。

ラジオなんて聴かない僕の耳に流れ込んできた、メロディは、

「若者のすべて」・・・・・

最初は、下手糞な歌い手だな、と思った。
でもそれは、僕の方が間違いだった。本物の歌に上手いも下手もない。歌の「輪郭」を捉えて、上手・下手など言ったところで、何も言ってないのと同じことだ。
志村正彦は、間違いなく、自分の歌いたい詩を歌っていた。皆の為に歌っているわけではない。正確に言うなら、それは2番目の問題。
志村正彦は、自分から生まれる詩を、自分から流れるメロディに乗せて、歌っていた。

自分に嘘をつかない、言葉を、自分を裏切らない曲にのせて、
素顔の自分で歌っていた。


夏が終わる、青春も終わる頃に、その夏を想い出す。
現実にある自分が、もう過ぎ去って、もう戻ることはできない、
その頃に戻る僕、

そして、、、
そうだったら、どうなっているのだろう? と、
刹那の夏を、歌う。

若者のすべては、作ったのではなく、生まれた楽曲であり、輪郭をなぞる歌ではなく、存在に裏付けされた歌である。

最終部の、

『 ないかな ないよな
  きっとね いないよな
    会ったら言えるかな 』

この、なんとも言えない、
ないかな、の「な」、、、
ないよな、の「な」、、、
きっとね、の「ね」、、、
いないよな、の「な」、、、
会ったら言えるかな、の「な」、、、

なんでこんなに、こんなにも、刹那いんだろう。
そうあって欲しい。でもそうじゃない、
未練、それとも、、、。
でも、もしかしたら、そうなっていたかもしれない、。
逡巡し、でもやっぱり、勝手な願いを思い込んでみたり、
みんな、現実と願いを行きつ戻りつ、、。
未来を持つ若者のすべての、特権なんだろう。
未来をもう持たない、それ以降の世代には、その特権ははく奪され、
もうそれはない。みんなそうなるのだけど。

この詩の僕も、若者を終えようとしている、頃なんだろう。
だから、こんなに、心が痛む。


そして、志村正彦は、逝ってしまった。


君から、
こんな素顔の、想いを、
素直にぶつけられた、僕は、
動揺するしななく、
儚く、脆い、若者の、想いを共有するしかない。


この歌は
作られたのでななく、生まれ、存在する。
そして、
この歌は、
一人称・主人公の情熱的なモノローグでもなく、
だからと言って、
三人称・観察者の冷酷なドキュメンタリーでもなく、

素顔の志村正彦によって、
fujifabricの素直な演奏によって、

リスナーが、
二人称の世界に、知らぬ間に巻き込まれ、
その想いを共有させられてしまう、、、歌。
この歌は、
二人称・登場人物の情が通うドラマ、なんだ。

冒険する、その世界の一人称的な内部でもなく
安全な、その世界の三人称的な外部でもなく
内部にいながら、外部にもいて、
外部でもありながら、内部にも巻き込まれ、
責任なんてないのに、
責任を負わされる、
つまり、受難を宿命とする、
人の「生」と同じ構造を持つんだ。

自分の生が、
自分以外の人間によって、自分の与り知らないところで
決まっていってしまう、
人の世と。

だから、こんなにも
重く、重く、君の歌は、僕の心の中で、響くんだ。



もう一回、歌おう、歌おうよ、
それしかないじゃないか、、、。


ないかな、、、
ないよな、、、
きっとね、、、
いないよな、、、
会ったら言えるかな、、、、
まぶた閉じて浮かべているよ、、、、
、、。


終わり、終わりにするしかない、、。





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