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【青春推理】自転車

いつも自転車通学している結城が、今日に限って自転車は家に置いてきたという。彼はふと、小学生が民家のブロック塀にあるものを置いた「目撃談」を語る。


 ――ガガガガガッ!

 ――ガガガガガッ!

 下校時間になるタイミングを見計らったかのように、近くで道路工事の作業が再開した。テスト期間中に道路工事は勘弁してほしいものだ。いや、それを分かっているからこそ午前中は工事をしていない。

 現場監督には城和学園高校に知り合いがいて(一年生の図書委員)、この近所に住んでいる俺(手代木ハル)は昨日、偶然にもそいつと現場監督が会話しているのを聞いた。取り留めもない身内話だった。

 知り合いがいることもあって、一応学校に対する配慮はあるらしい。それでも耳をつんざくような音が周辺に鳴り響いて頭が痛かった。

 俺はいっしょに並んで歩く結城を見て、(あれ?)と思った。

 正面玄関を出て、いつもなら駐輪場に向かうはずの結城がこの日に限ってはそのまま自分の足で正門に向かおうとする。

「お前、自転車は?」俺は気になって訊いてみた。

「ちょっとな。今日はどうしても歩いて帰りたい気分なんだ」

「歩くってお前……」

 俺は驚いた。俺の家は学校からだと百メートルちょっとしかないからすぐ目と鼻の先だけれど、結城の家はここから五キロも離れている。それも普通の五キロではない。山の中腹あたりにある、かなりアップダウンの激しいコースだった。

 自転車だとしても、登りはきついから降りて手で押して進むしかない。だとしても、平坦な道くらい自転車に乗った方が体力の消耗は少なくて済む。

 それでも結城は「今日は歩きたい」と言う。

 結城は小学校時代を山の麓にある学校まで毎日歩いて通っていた。だから五キロの山道を歩くなんて彼にとっては苦にならないのだそうだ。

 山の麓の小学校に通っていた連中は、中高一貫の城和学園高校まで普通はバスで登下校するが、結城は自転車通学にこだわった。本人曰く、「歩くよりラクちんだから」とのこと。それはそうだけど……。

 バスは朝の六時から九時。それと夕方の五時から九時までは一時間に一本ペースで通るけれど、それ以外の時間帯になると数時間に一本あるかないか。

 しかも、その日はテスト期間で学校は早く終わっていたので、バスが通る時間までかなり待たされることになる。

「朝はバスで来たの?」

「そ」と結城は答えた。「自転車よりそっちのほうが、乗りながらテスト前の最終確認もできるしね」

 それは分かるけど。

「でも、明日もあるんだぞ。このまま歩いて帰るの大変だろう」

 無理して歩いて帰るより、バスの時間が来るまで待ったほうが俺は懸命な判断だと思った。それまで図書室で明日のテスト勉強だってできる。

 そう提案する俺に対して結城は、「いや、やっぱり今日は歩いて帰りたいんだ」と頑なに意志を曲げようとしない。

 俺は結城が是が非でも歩いて帰ろうとする理由について考えることにした。

「好きな子でもできたか?」俺は揶揄うように訊いた。

 俺の考えでは、下校途中に好きな子がいて、その子を見ながら歩くか、いっしょに歩きたいがために、あえて歩いて帰るという選択をしたのだと勝手に解釈した。だが彼は表情一つ変えない。違ったか。

 結城はしばらく黙り込んで、それから、

「いつだったかな」と急に語り始めた。「朝。俺の目の前を、ランドセルを背負った小学校低学年くらいの男の子が歩いてたんだ。交通安全の黄色いカバーかけていたから、たぶん一年生だったと思う」

(ん? 何の話だ?)

「そいつがな、とある民家の低いブロック塀の上に、何かモノを置くのが見えて、何だろうと思ってみていたんだけど、それが何かは小さくて見えなかった。で、その男の子は辺りをきょろきょろ見わたして逃げるように走り去って行った」

「ゴミでも置いていったのかな?」他人の敷地内に勝手にモノを捨てていく不届き者がたまにいる。俺はてっきり、その男の子もそういうタイプなのだと思った。

「俺も最初はそう思ったよ」と結城。「でも近づいていって見たら、ぜんぜん違った」

「何だった?」

「ポチ袋だったよ。正月の、お年玉の、あれ」

「ポチ袋?」意外な答えだった。「何でそんなものが」

「俺も気になったよ。で、中を開けてみてみたら、一万円札が入っていた」結城は淡々としゃべる。

 いまの小学生のお年玉が平均いくらなのか分からないけれど、一万円札はなかなかの大金だ。そんなものを、どうして男の子は民家の塀に置いていったのか。

「で、その一万円札はどうした?」

 そのまま持ち去ったら犯罪だ。

「近くに交番もなかったからな。とりあえずいったん俺が預かった。で、放課後になってもう一度あの男の子が同じ道を通ることは知っていたから、そこでそいつを待って、直接聞いてみたんだ」

「で、何だって?」

「先生に怒られるんだとよ」

「は?」

「だから、お金を持っているところを先生に見つかったら怒られるから、それが怖くてお金を捨てたんだと」

「どうして……」そんな勿体ないことを、と俺は思った。

「その男の子はたぶん、前の日に外出先で知り合いのおじさんからお年玉をもらったんだろう。それを上着のポケットに入れて。でも遊びに夢中になり過ぎて、お年玉を貰ったことをすっかり忘れてしまった。で、冬休みが終わって登校している途中でポケットに手を突っ込んだとき、ポチ袋が入っていることを思い出した。でもその男の子は、普段は学校で先生から、『お金を学校に持ってきてはいけません』と注意されているから、それがバレたらきっと怒られると思って、それで慌てて処分したんだと」

「でもそれは……」俺は呆れた。「先生の『お金を持ってくるな』というのは、そういう意味で言ったんじゃないだろう。お金を持って歩くと落としたり盗まれたりするから学校に持って来ちゃいけないとか、そういう意味で言ったんだろ?」

「でもあいつは小一だ。大人のそんな理屈は理解できなかった。言葉どおりに受け取ったんだな」

「そっか……。子供に教えるときは説明の仕方に気をつけないとな」

 でも、なぜ結城が今こんな話をするのか、俺には分からなかった。歩いて帰ることと何か関係があるのだろうか。

 俺の家が近づいてきた。「寄ってけよ」バスが来るまで俺の家で勉強したらいい。俺もちょうど分からないところを教えてもらいたかった。

「手代木の家か。……そうしよっかな」結城が言った。

 俺の両親は共働きで、一つ下の妹はまだ帰ってきていない。だから家には俺しかいなかった。

 俺はキッチンで薬缶を沸かす。インスタントコーヒーでも飲ませてやろうと思った。「飲むだろ?」

「うん。ありがとう」と結城は礼を言った。

 鞄から明日のテストに必要な教科書や参考書をテーブルの上に広げる。誰もいないから広々と自由に使えた。

「さっきお前が話してた小学生のことだけど」俺は思い出して言った。「それって最近の話?」

「いや、いつだろう。もう何年も前のことだった」

「何で今になってそんな話を?」俺は改めて訊いた。

「さあね」結城は笑った。

 俺だって詳細を知りたかったわけじゃない。ただ友達と二人きりになったとき、会話のきっかけくらいにはちょうどいいと思った。テスト勉強とはいえ、何も喋らずに黙っているのも気まずい。

 ただ、俺がこの時点で一つだけ分かっているのは、結城がその小学生を目撃したとき、結城自身もまた小学生だったということだけだ。

 中学以降の結城は自転車通学だ。

 県立の小中高は同じ日に冬休みが明ける。小学校が始業式なら、当然中学高校も始業式で、もしもこの話が結城の中学生以降のエピソードだとしたら、当然彼は自転車に乗っていたはずなのだ。

 男の子は走って逃げたと言っていたけれど、小学生の足なら自転車に乗っている結城は簡単に追いつけたはずだ。それなのに追わずに放課後になるのを待って、それからポチ袋を男の子に返したということは、その時結城は自転車通学をまだ始めていなかった。つまり彼自身も男の子と同じ、小学生だったということになる。

 問題は、どうしてその話を今さらになって結城は言い出したのか――ということだ。

――ガガガガガッ!

――ガガガガガッ!

「悪いな」俺は謝った。「工事中なんだ」

「別にいいよ、ってか何でお前が謝ってんだよ」結城が笑った。

 そっか――。考えてみれば(いや、考えるまでもなく)俺が謝る理由なんて一つもないのだった。

 騒音が煩すぎて勉強に集中できない。シャープペンシルを持つ手が止まる。ダメだ、内容が完全に頭に入ってこない。

 タイミングよくお湯が沸いた。コンロの火を止めて、マグカップにお湯を注ぐ。

「あの人、昔は山の方に住んでたんだよ」と結城がぼそりと言った。

「え? あの人って?」

「だから、そこで工事してる現場監督だよ」

「そうなの? え? お前の知り合い?」

「そ」結城は言うと、俺が出したコーヒーをうまそうに啜った。「手代木の淹れたコーヒーうまいな」

「それ、インスタントだよ」

「でもうまいよ。お前の心づかいが」しみじみと言った。

(そういうことか)

 結城のほっこりした横顔を見ていて、俺は確信した。「お前は最初から俺の家で時間を潰すことが目的だったんだな」

 そう言うと、結城は驚いて俺の顔を見た。それからしばらく沈黙が流れたあと、「そう。分かったんだ」と小さく笑った。

 俺は一つ大事なことを見落としていた。

 結城が小学生のポチ袋を拾ったあとの行動だ。彼はその男の子に放課後になって返したと言った。

 すぐに返せなかったのは、小学生が走って逃げたこと。それから当時結城はまだ自転車通学ではなく徒歩だったことが理由だと、俺は考えた。

 でも違うのだ。

 結城が本当に、その小学生にポチ袋を返すつもりがあれば、わざわざ放課後まで待たなくたって良かったのだ。

 目的地は同じ小学校なのだから、そのまま学校で返せば良かった

 それでは、なぜ結城は学校では返さず、放課後になってから男の子にそれを返したのか?

 理由は簡単だ。

 結城には、一万円札の入ったポチ袋を男の子に返すつもりがなかったから。

 つまり、そのまま持ち逃げしようと考えたのだ。

 でも出来なかった。時間が経つとともに彼の中で罪悪感が芽生えたからじゃない。盗んだことがバレてしまったから、結果的に返さざるを得なかったのだ。

 学校が終わって、彼は朝と同じ道を歩いていた。そこで彼は、ポチ袋を置かれた民家の住人に怒られたのだ。「どうしてお金を盗んだのか?」と。

 なぜ、その家の人間がポチ袋の件で結城を怒るのか。それは、その民家の住人こそが、お年玉を男の子にあげた親戚のおじさんだったからだ。

 考えてみれば不自然だ。

 どんなにお金を持っていることを先生に怒られるのが怖いからといって、一万円札もの大金が入ったポチ袋を、まったく見ず知らずの他人の家に捨てていくなんてことはあり得ない。

 でも知り合いの家なら別だ。

 その男の子には、お金の価値がある程度は分かっていたのだ。分からなければゴミと同じように捨てる場所はいくらでもあったはずだ。それなのに、その男の子は、ゴミとして捨てるのではなく、あえて知り合いの家のブロック塀に置いた。

 あれは捨てたんじゃない。返したのだ。お金をくれたおじさんの家に。

 それを知らなかった結城は、一万円札が入ったポチ袋を見つけたとき、誰も見ていないと思って自分のポケットに入れた。

 だが、目撃者はいた。

 あの家の住人だ。男の子にお年玉をあげた親戚のおじさんだ。

 そして帰り際になって、おじさんに見つかった結城は、ポチ袋を盗んだことを激しく叱責された。どうして人のお金を盗んだのかと。

 そこへ学校が終わって帰ってきた男の子と遭遇した。結城はおじさんが見ている目の前で、しぶしぶポチ袋を男の子に返すしかなかった。

 これが、あのエピソードの本当の顛末だった。

 で、そんな古い話をどうして結城が今さらになって話し始めたのか――それは、彼が今日に限って自転車で帰りたがらない理由と関係してくる。

 結城は自転車に乗って、いや、歩いたとしても工事現場の前は通りたくなかった。というより、正確には現場監督に会いたくなかった――というべきだ。

 なぜなら、いま、すぐそこで道路工事をしている現場監督こそ、あのとき結城を激しく叱責したおじさんだったからである。

 学校から工事現場まで一本道。つまり帰宅するためにはどうしても、そこを通らなければならない。

 結城の記憶の中でそのおじさんはきっと、昔の怖い印象がそのまま焼き付いてしまっている。自業自得ではあるのだけれど。

 出来れば二度と会いたくない。顔を合わせたくない存在。だから結城は、わざと自転車を家に置いて来て、俺の家で時間を潰すことにした。

 おそらく図書室で時間を潰す選択肢もあっただろうけれど、そこにも結城にとって会いたくない奴がいた。一年生の図書委員。ポチ袋を塀に置いた男の子。今日はそいつが図書委員としてカウンターの椅子に座っている。だから結城は図書室にも寄りつこうとしなかった。そいつとも顔を合わせたくなかったから。

 結城は、歩いて帰るつもりなど最初からなかった。ただ俺の家で時間を潰して、バスが来たらそれに乗って帰る。それだけ。現場監督の目に触れずに済む。それが彼の狙いだった。

「ただいまー」妹が帰ってきた。「あ、お兄ちゃん私もコーヒー!」

「自分でやれ」

 結城がお金を盗もうとした一件は既に時効だ。それにお金は返した。小学三年生の頃のほんの出来心。これ以上は俺も訊かない。訊く必要がない。

 結城は、俺の淹れたインスタントコーヒーを飲み干して、「手代木、ありがとう」と言った。


(完)

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