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【青春推理】紙ヒコーキ

野球を挫折した園部暁彦は、ある日、小学生が飛ばした紙ヒコーキを拾った。紙を広げてみるとそれは、百点をとった算数のテストだった。

 手にした本をカウンターに置いた瞬間、園部暁彦は気怠そうにタメ息をついた。そのタメ息が俺に向けられたものでないことは分かっている。

 座っているだけなのに、長時間労働をさせられたような疲れた顔で、園部は「ははは」と笑った。おかしくて笑ったのではない。どう見たって自分には似合わない場所にいることを嘆いているのだ。

 図書室そのものが狭かった。そのなかにあって、なおさら狭いカウンターで2時間もジッと座っていなければならないのは元野球部員だった彼にとって苦痛以外の何物でもないはずだ。

 何せ園部は本というものにまったくといっていいほど興味が持てない人間なのだから。

「大変そうだな」俺は他人事のように言った。――いや、実際、他人事なんだけど。

「午門は良いよな」園部が恨めしそうに言った。「お前は新聞部にいて気楽に写真だけ撮っていればいいのだから」

「だったらお前も入ればいい。新聞部」と事あるごとに誘うのだけれど、そのたびに彼は決まって、

「いや、いい。そんなとこ入ったら、昔の棲み処を取材させられるハメになってしまいそうだ」と一笑して断る。

 園部が言う「昔の棲み処」というのは、野球部の部室を意味する。

 伝統ある野球部の部室で、歴代部員たちの汗が長年にわたってしみ込んだ独特の臭いが、部外者の俺なんかに言わせると不快でしかない。

 だが園部は「俺はこの臭いが好きだったんだ」と豪語する。そのくせ、野球部を辞めてからは一度も部室に近寄ろうとしない。

 もともと園部は野球部期待の新人投手としてスポーツ推薦枠で入学した。いずれはエースとして甲子園で投げ、将来的にはプロも夢ではないと入学前から噂された。

 それが二年生に進級したあたりから、次第に結果が出せなくなった。練習をサボっていたわけでもない。誰よりも人一倍練習に励んでいるつもりだった。それなのに、結果が伴わない。身体がついていけない。そればかりか、後から入部してきた一年生にさえレギュラーを奪われることが増えていった。

 限界。

 そして二年生の秋、園部は利き腕の肘を故障した。無理な練習が園部自身を追い込み過ぎたのだ。

 診断した医師からは、「もう投げるのは無理だよ」と引導を渡された。

「医者にそう言われたとき、正直ほっとしたよ」と園部は俺にだけ本音を打ち明けてくれた。「心のどこかで、ずっと逃げたかったんだな」とも言っていた。

「期待外れだよ」露骨に嫌な言葉をぶつけるような馬鹿は一人もいないけれど、そんなこと言われなくても当の園部本人が誰よりも一番自分を責めているだろうことは、彼を知る者はみんな気づいている。

「俺、城和にいていいのかな」時々ボソッとつぶやくのだ。そんなとき、友達として返してやる言葉が俺には見つからない。情けないことに。

 好きでもない図書委員になったのは、このS県立城和学園高校では部活に所属していない生徒は何かしらの委員に所属しなければならない決まり事があったからに他ならない。

「一冊ためしに読んでみようと思ったんだけどよ」と、いつか園部が俺に話したことがある。世界的に有名な作家の名前すらうろ覚えな彼が読書という、これまでほとんど無縁だった崇高な習慣に手を出したときの感想の第一声が、「意味わかんねー」だった。

 冒頭のページを読み終わらないうちに、彼はそう思ったそうだ。「ダメだ。頭がくらくらしてくる。ギブ」と本を勧めてくれたクラスメイトの機嫌を損ねるのもお構いなしに言って、案の定ひんしゅくを買ったらしい。

 窓の外はグラウンド。野球部が練習している姿を、園部は静かに見下ろしている。「あいつ、また球速伸びたな」と二年生投手を頼もしそうな眼差しで見つめている。

「そういえば、この前帰りに変なの拾ったんだよ」園部は、唐突に言った。カウンターの足下に置いていた鞄を膝の上にのせ、中を開ける。「これなんだけど」

 紙ヒコーキだった。そんなもの拾って、どうするんだ?――と、一瞬首を傾げたが、よく見ると紙に何やら文字が書かれている。

「これな」園部が紙ヒコーキを広げて見せた。「テスト用紙なんだよ」――6年2組・坂本澪音。と名前が書かれている。「何て読むのか分からないけど」と園部が言った。

 当て字なのだろう。「レイン……じゃないかな。たぶん」と俺は言った。おそらくまちがってはいないはずだ。どう見ても小学校の算数のテストだ。

 問題は、その名前の横に大きく表示された数字。

「百点じゃないか」俺はおどろいた。小学校のとき、算数のテストでせいぜい八十点以上をとるのがやっとだった俺にとって、百点という数字は奇跡に近い。「何でこんなもの」と俺はつぶやいていた。

「だろう? お前も変に思うよな」園部は我が意を得たりと満足そうな笑みを浮かべた。「赤点ならまだしもよ、百点満点という好成績を出したテストを紙ヒコーキにして飛ばすなんて、俺たちには考えられないよな」

 実感が籠っている。確かに、彼の言う通りだと俺も心の中でうなずいた。出来損ないの人間にとって、たまにまぐれで好成績を出したテストは大事に家に持ち帰って家族に自慢するものだ。あたかもそれが家宝であるかのように丁重に保存しておくものだろう。俺ならそうする。俺なら。

 ところが、園部が出会った小学生は、そのテストを紙ヒコーキとして折った挙句、飛ばしてしまったというのだ。住宅街の真ん中に位置する公園で。

「で、回収することもなく、そのまま帰ろうとしやがった」

 しやがった――の言い方に園部の本音が隠れているような気がする。勉強できる奴は一度や二度の百点なんて通過点の一つに過ぎないのかもしれない。

 そのことが出来損ないの人間にとっては痛く深く心の奥底に突き刺さるのだ。まるで馬鹿にされているみたいに。園部はそう感じたのだろう。

「で、俺はそいつを追いかけたよ。そしたらあいつ何て言ったと思う?」

「人を呼びますよ」俺は言った。「お前、見ようによっては犯罪者のツラしてるもんな」

「当たり」と園部。「しかもあいつ、ランドセルに付いてる防犯ブザーまで引っぱり出しやがったんだぜ、酷い話だろ?」

「時世が時世だからね。お前が不審者扱いされるのも無理はないよ。それで、鳴らされたのか? 防犯ブザー」

「いや、それはなかった。脅しのつもりだったのだろう。本物の不審者なら大騒ぎされることを何よりも嫌うからな。だがあいつも運のいい奴だ、俺は不審者じゃなく、善良なお兄さんだった」自分で言う。

「で、そいつは何て?」余計なことはいいから――俺は早く話の先を聞きたかった。

「俺は聞いたんだ。何でそんなことするんだ?ってね。そしたらあいつ、紙ヒコーキを受け取ろうともしないで、『それ、欲しかったら差し上げますよ』と言いやがった。俺は物乞いじゃねーんだよ!」

「なあ、園部」俺は激昂しかけている園部の話を遮った。「お前がその小学生と会ったのはどこの公園だ」

「北区にある……ほら、ベンチ以外何も置かれてないところだよ。周りは高級住宅街に囲まれてて……」

 S北公園か。

「その小学生、本当に六年生だったんだよな」

「間違いないよ。だってほら、名前のとこにも6年2組と書いてるし」

「時間は?」

「夕方の五時ごろかな? その日は委員の担当じゃなかったし」

 図書委員は交代制で、曜日によって担当が変わることになっている。

 俺は違和感を抱いた。「そいつ、何でそんなところにいたのかな?」

「小学生なんだから、公園にいても不思議はないだろ」

「いや。S北といえばエリート家庭が大半を占めている。しかも、その小学生は百点をとるほど勉強ができる奴なんだ。それらの条件から考えた場合、きっとエリート家庭の子供と考えるのが自然じゃないか」

「だろうな」園部もこの意見に関して異論はないようだ。「俺もあいつを見たときそう思ったよ。制服もいかにもエリート学校らしい値段の高いやつ、ほら、あれ何だっけ? あのブランド」

「アルマーニ」

「そう。それ」

「だったら、なおさら変だよ。そんなエリートのお坊っちゃんなら、きっと塾に行っていてもおかしくない時間帯だろ。あるいは塾に行かなくても家庭教師に習っているとか。いずれにしても、あんなところで遊んでいられるような立場じゃない」

「そういうものか」

「あの辺の子供たちはどうせ公園で遊んだりなんかしないよ。だから公園にはベンチ以外に遊具が一つもないんだ。もちろん事故を防ぐ目的もあるんだろうけど」

「それじゃ、あいつは何でそんなところに……」園部も首を傾げる。

 俺は再度、例のテスト用紙を観察した。名前や大部分の個所については美しい文字を書いている。おそらく書道を習っているのだろう。

 しかし――と、俺は思った。ところどころに文字がひどく乱れている個所がある。まるで何かに追われているように慌てて書いたような……。

「そういうことか」俺は目を閉じてうなずいた。

「何だよ?」園部が不思議そうな顔を向ける。「言いたいことがあるなら言ってみろよ」黙り込んだまま何も語ろうとしない俺を、園部は急かした。

 俺は意を決した。「この小学生は、お前なんだよ」と俺は言った。

「違うよ」園部は否定した。「俺、もう高校生だし」

「いや、例えだよ!」俺は少しだけ腹が立った。こいつはここまで物分かりが悪いやつだったのか……。

「どういうこと?」園部が俺の口から発せられるであろう次の言葉を待った。

 俺は続けた。「お前は野球部に入る時、最初からエース級の存在として周りからかなり期待されていただろう。その時、どう思った? 正直に」

 園部の顔色がかすかにくもる。「正直に言うとな、苦痛だったよ」

「そうか」と俺はうなずいた。

「いや、もちろんうれしい気持ちはあったよ。それは間違いない。何もかもが嫌だったわけじゃない。応援してくれる先生や親や友達がかけてくれる言葉にいつも励まされていた。それは疑いようのない事実だ。でも……」

 でも……。その先が重要なのだ。

「でも、そのうち自分で気づいてしまうんだ。限界ってやつを。どんなに努力したって辿り着けない場所があるんだってことに」

「逃げ出したいと思った?」

「そう。逃げたかった。逃げたくて仕方なくなる瞬間が、何度も繰り返し押し寄せてきて、それでも、ダメだ!――みんなの期待に応えなければいけない。逃げ出すわけにはいかないと、挫けそうになる自分に言い聞かせて」

「それで自分を追い込み過ぎて、肘を壊した」

「その通り。で、医者からは『もう投げるな』って言われて。――あの時の気持ちを正直に言うなら、ほっとしたんだ。心の底から救われたような気がしたんだ。これで堂々と野球を辞められるって。――お前にはいつか話したっけ?」

「ああ。聞いた」

「周りが期待するほど、俺は天才なんかじゃない。よくある話だよな」

「そうだ。よくある話だ」俺は話を本筋に戻すことにした。「あの小学生も、きっとそうだったんだと思うね」

「同じなのか? 俺と」

「幼い頃から勉強ができて、周りからはきっと神童と言われて期待されていたのだろう。学校でも成績は常に上位クラスで、だからこのまま行けば順当にエリート街道まっしぐら。でも、人生なんてそんな簡単には……」

「行かないよな」園部が実感を込めて言った。「何かしらのエラーが潜んでいるものさ。自分の力では解決しようもない原因不明のエラーだ」

 園部はいったん喋るのを止めて、俺の顔をまじまじと見つめた。「でも、なんでお前にそんなこと分かるんだ? あいつのこと」

「分かるんじゃない。俺が勝手にそう思うだけだ」と俺は言った。「勉強についていけなくなったんだろう。いや、本人は同じペースで成長していたつもりだった。変わったのは周りの同級生たちだ。周りの成長スピードが急激に伸びた。そのことに対して彼はひどく焦った。必死になって勉強した。それでも、周りとの差は開いていくばかり。でも、親も教師も彼に対して過度な期待を寄せ続ける。彼はみんなの期待を裏切れないともがき苦しんだ。そして、テスト当日に彼はある事件を起こした――」

「事件?」

カンニングだよ」俺は言った。

「カンニング? どうしてそう言える?」

「あの子は本当なら美しい文字を書く子なんだ。それなのに、ところどころで文字がひどく乱れている。時間ギリギリになって急いで書いたものだろう。最初はカンニングする気なんてなかったはずだ。その気があれば、すべて綺麗な文字で埋め尽くされているはずだからね。ギリギリになって慌てて書いたということは、それまで迷っていたんだ。カンニングすべきか否か。終了間際、このままでは百点がとれなくなってしまう。みんなの期待を裏切ってしまうことになる……」

「それで、つい誘惑に負けてカンニングしてしまった――そういうことか」

「絶対に高得点を取らなければならないという焦り、周りの過度な期待が彼を追い詰めた。もちろん、俺の勝手な憶測だけどね」俺は念を押した。

 そう、これは憶測なのだ。根拠なんてゼロ。いい加減で無責任。その無責任をまだ続ける。「でも、テストが終わって百点をとったところで、彼は結局喜べなかった。かえって罪の意識にさいなまれて、さらに自分を責めることになった」

「せっかく結果が出たのに、見るのもツラくなったか」と園部が言った。窓の外を見おろす。野球部員の掛け声がひっきりなしに聞こえてくる。

「お前が野球部の部室に近寄らないのと同じだよ」と俺は言った。「何もかもが嫌になった。百点をとったテスト用紙も。勉強も。だから、本当なら塾に行っていなければならない時間に誰もいない公園に行き、自らの不正によって勝ち得たテスト用紙を捨ててしまいたかったんだ」

「この紙ヒコーキ、どうしようか」園部がぼそりと呟いた。

「さあな」無責任かもしれないけれど、俺はそっぽを向いた。「お前が判断しろよ。そもそも、お前には関わりのない問題なんだから」冷たい言い方だと俺自身も思う。でも他に何といえばいいのだろう。ベストな答えが見つからない。

「自分への戒めとして、持っておくよ」と園部が言った。

「戒め?」

「ああ。もう逃げたりしない。新しいことを、どんどん積極的に挑戦してみるつもりだ」園部の顔に晴れやかな笑みが浮かんでいる。「午門。何かオススメの本があったら紹介してくれ」と園部は言った。


(完)

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