映画『デデデデ』と“俺たちの浅野いにお”について思うこと。
「浅野いにお作品」への自分なりの気づきをまとめます。
妄想や偏見を含む手前勝手な考察かつネタバレを含むのでその点ご容赦。
この内容は……
ニコ生とYoutube「マクガイヤーチャンネル」で配信された【『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』と浅野いにおのサブカルメンヘラ地獄】(マクガイヤーゼミ 第134回)の放送の際に、作成した自分用のメモを元としたものです。
医学博士にして映画&サブカルオタク、Dr.マクガイヤーによる考察は、放送の動画でぜひお楽しみください。
◆「浅野いにお」という漫画家にみぞみぞする
よしもとよしとも、桜玉吉、南Q太、羽海野チカ、矢沢あい……などなど90年代サブカルヤングコミックの影響が強い。電気グルーヴや伊集院光によるラジオの影響も感じる。90年代に青春を過ごした筆者のようなオタクにとって、同時代性を強く感じる作家(親愛を込めて呼び捨てしています。浅野いにお先生、ファンの方ごめんなさい)。
初期のキャラデザはよしもとよしとも等のジェネリック感が強い。
中期以降はさらに様々な作家の絵柄やデザインを、ある時はくっきりと、またある時はうっすらと感じさせるキャラデザを展開し始める。
いにおを読むと、なぜかもやる。
そして作品以上にいにお本人の、おしゃれサブカル代表みたいなスタンスやルックにもやる。
“俺たちのいにお”に対する感情は謎の愛憎を伴うのだった。
さらに中期以降のいにおは、浦沢直樹などのベテラン、果ては水木しげる、F先生、A先生などのオマージュをどうどうとやるなど、神をも恐れぬ姿勢と視点。もう、どこまでやったら怒られるのかを試しているとしか思えない。いそべやんのルックにムカつかない漫画ファンはいるのか。オマージュとはいえちんぽのシルエットにするなよ。宇宙船のパスワードが「友達」って、おいギリ大丈夫か。これが、我々煮詰まったオタクたちの心をみぞみぞさせる原因の一つか。
◆「自分」のみに強くこだわる、初期作の若さと未熟さ
初期のいにお作品は「サブカルおしゃれな雰囲気+自意識過剰」な漫画が多い。主人公がとにかくうじうじと自分にこだわり続け、内省が続きがち。なんだかんだリア充で恋愛に苦しんだりするサブカルおしゃれに対して、非モテやオタクがアレルギー反応を起こしがちなのはご想像の通り。
20代の恋愛、就職、などを取り扱うためスケールはどうしても小さく、さらには絵も退屈。女性を主人公にするなど工夫も見えなくないが、似たような漫画が多いな、という印象。
しかし、例えば子ども時代のエモ記憶や、若者らしい未熟な心情などについては、「よくこんなこと細かく覚えてて描けるな」と感心させられる部分も多い。我々のいにおに対する感情には共感性羞恥と同族嫌悪が加わり、さらに複雑化する。
◆こじれながらも成長を続けるいにお
中期頃からいにおは、「自分とその狭い世界」にこだわる作風から、次第に「他人や身の回りの環境」を意識した物語、世界観づくりへと発展していく。「自分」の中から少しずつ出ること。これは発達心理学などに照らし合わせても、人として正しい成長過程。
絵にも魅力が出てくる。先述のようなコミックカルチャーをモノしたキャラデザを活かした人物に変化。「他人をよく見て、漫画的にどう描くか」という研鑽の結果、「リアルな人間は、誰しもちょいブス」という真理が、キャラ絵に活かされていったのかもしれない。森下裕美っぽい表現とも言える(ex『大阪ハムレット』『トモちゃんはすごいブス』)。
売れるためにはセックスと暴力を描く、というあざとさも捨てず、商業漫画家として活躍を増している(ex『うみべの女の子』)。
さらには、恐ろしく描き込まれた背景、非現実的なロボットなどの優れたデザイン、人物の活き活きとした動作、また侘び寂びなど、技術や表現もどんどんレベルアップしていく。中期以降は初期作品と同じ作家の画面とは思えないほど。
◆時代のメンヘラ「田中愛子」を救えず、「誰にも理解されない」孤独ないにお
00年代になってセカイ系が台頭、さらに“心に闇を抱えた存在”が、「メンヘラ」というワードの発明によってフィーチャーされ、可視化され、同時に創作のテーマ、また主軸として持てはやされるようになる。『おやすみプンプン(以下、プンプン)』の「田中愛子」も複雑な事情と心情を抱えたメンヘラガール。
田中愛子は中二病のプンプンと出会うが、救われない。自己愛や罪悪感から脱せないプンプンは結局彼女を幸せにできず、流される形で生き残る。結局「愛子×プンプン」という「メンヘラ×中二病」つまり、人間的に未熟な者同士の掛け合わせによって、何も救わず成長もしない最悪のラストは、(同じく「何もできない」)読者に無力感やトラウマを残した。
二人とも「狭い世界の子ども」であり、この結末は当然の結果とも言える。どこかでプンプンが急な精神的成長をみせ、愛子を救うという展開もなくはなかっただろうが、そうはならなかった。この段階でのいにおは、この悲しいエンディングにしか辿り着けなかったのかもしれない。
プンプンの顔は描かれていないがひょろっとした体形で、いにおの分身的なキャラクターとも見られる。プンプンの顔は桜玉吉の自画像に似た鳥のような、奇妙に簡略化されたかたちで描かれているが、終盤ではグロテスクに変容していく。ルックスではなく「頭の中身」を表しているということか。
プンプンの佇まいは『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション(以下、デデデデ)』における闇落ちキャラ「小比類巻君」にも似ており、さらに小比類巻君はいにおの自画像に酷似している。
ヘラリティエンジン全開で描き続けたいにおは『プンプン』で売れに売れ、「すごい漫画家」という評価を得るが、「そんな俺は誰にも理解されない」という方向に孤独をこじらせてしまったよう(実際『プンプン』は『プンプン』で充分名作と言えるのに)。
おそらく自伝的な『零落』では主人公に「君は…何もわかっていない…」など、愛読者まで貶める発言をさせている。読者には大いに救われているはずなのに。いにお、サイテー。
一方、現実は厳しく加速し、「セカイ系」「メンヘラ」どころか、災害、紛争と、世界の終末を意識する出来事が、誰にとっても他人事ではなくなってくる。いにおの作品にもまた変化と成長が訪れる。
いにお、でんぱ組.incというにハマったとのことなので、彼女たちの素晴らしさやイカした活躍にも、パワーや変化のきっかけなどをもらったのかも?(白いにおとしての成長へ)。
◆そしてデストラクションへ
『デデデデ』は「もしも」の物語だと思う。
もしも空を飛べたら。もしも自分にやりなおす力があったら。「もしもあったかもしれないもの」、は「絶対」であり、愛情、友情、良い環境などでもあるかもしれない。
『デデデデ』は『プンプン』が「もしも」こうだったら、という、やり直しの側面もあるのではないか。
『デデデデ』のおんたんは田中愛子と同じ「太眉カワイイ」という記号を有するキャラクターである(「自分が可愛いことに気がついてない女の子が、実は一番かわいい」的なキャラデザでもあるのかもしれない。ちなみに門出もしかり。かわいいのにきのこみたいな髪型。だからこそかわいいんだけど)。
おんたんは田中愛子と同じ記号を持つ少女だが、同時に田中愛子が持てなかったもの全てを持っている。
宗教二世でネグレクト気味でない“普通の家”(お父さんはいい人。お母さんも区議会議員? のようであまり家にいないようだがちゃんとしてそう)、ひきこもりだが賢くて優しい兄ひろし、いい友だちたち(増えるし、多様でもある)、そして「絶対」である門出(後に大葉)。
さらに、それに支えられて身に付けた自己肯定感、はっちゃけた明るさ、やり直す勇気。「終末」が自分だけでなく、誰にとっても身近であるという時代背景も異なる。ここまでのいにお作品の人物たちとは、明らかに違う。
もしも田中愛子がおんたんと同じものを、一つでも持っていたら。プンプンなどにハマらず、闇堕ちせずに済んでいたのかもしれない。
ちなみに、キホも「太眉カワイイ」という記号を持つキャラの一人、とも言えるかもしれない。彼女にも、もしも「仲良すぎて吐きそう!!」なほどいい友だちたちがいなかったら、小比類巻君の闇に捕まってプンプンルートに堕ちていたのかも。
いにお作品における真のメンヘラは、言うまでもなく「プンプン」であり「小比類巻くん」(=闇堕ちした黒いにお)のほうである。結局、女の子のほうが強い。青春する女の子、この世で最強の生き物。
『デデデデ』はさらには「マンガのもしも(やり直し)」でもあるのかもしれない。門出の父の職業が漫画編集者であり、「再び世界をやり直す」存在であることには意味がありそうだ(門出の父のルックもまたいにおの自画像に似ている。=白いにお?)。
脱線するが、世界に終末が訪れるシーン(原作)で、漫画編集部及び編集者を丁寧に破壊し、ぶちころしていく描写には笑ってしまった。編集者への愛憎が漏れ出た黒いにおギャグか。
◆美形キャラ「猫顔の人物」とは
『デデデデ』の大葉くん、『零落』の「ちふゆ」「後輩」など、“猫顔の人物”はいにお作品の中での、「いてほしかった幻」の人物像か。
理想が反映されているのためか、作中に登場するどの「顔の整った」キャラとも違い、ややアニメ寄りのキャラデザになっている(=理想のもの、この世のものではない?)。
◆ひろしであれ、ひろしになれ
ひろしである。ひろし、最高。
妹が「鳳蘭(おうらん)」という凝った名前でありながら、ひろしはただの「ひろし」。つまりひろしは誰でもありえるし、俺らお前らでもありえる、ということか(ちなみに鳳蘭の名前の理由はコミック最終巻で明かされる)。
ひろしは「ちょいブス」と「美形」の境を揺らぐキャラ。「現実にいるやつ」と、「こうでありたい」存在の両方であるのかもしれない。
気弱だった小学生の鳳蘭に「もしも何かが起きた時、俺たち、凡人はそれを受け入れるしかないんだ。その時、最後まで希望を失わないためにはどうしたらいいと思う? …誰かを守るんだ。「みんな」の心配はしなくていい。一人で十分だ。その代わりその誰かを最後の最後まで守り抜け。その気持ちは何にも代え難い強さになる。」と語るひろしは美形である。こうあって欲しい、という希望を感じる。
ひろしは鳳蘭の信頼に応え続け、全肯定し続けた。鳳蘭の自己肯定感に大いに寄与してきたことは間違いない。
そして、世界の終末にひろしが救おうとするものは妹であり、門出ではない。ここでうっかり門出だったら、ただの言うだけキザのキモメンに堕ちていた。ひろしは鳳蘭の「絶対」ではないのに。ここも正しい。兄だから。
ひきこもりでも自宅警備員でも、あんまり関係ない。誰でもきっとひろしになれる。
同時に、誰もがプンプンや小比類巻君になってしまう可能性もある。しかし、もしも田中愛子にひろしのような兄がいたら? プンプンや小比類巻君がひろしのようにになれていたら? どちらの行末も変わっていたのではないか。
◆真のメンヘラはラスボス•小比類巻君
『プンプン』終了後に「誰にも理解されない」という孤独を描いたいにおだが、素晴らしい映画スタッフという理解者を得て、この度最高の形で解釈され、映画『デデデデ』という傑作が生まれた。
映画版『デデデデ』は、「別の世界線にシフトする」という微妙なラストの原作の良い部分である青春群像劇としての魅力を最大限に活かす形で再構築され、「おんたんと大葉が再び出会う」という希望を感じさせるラストに昇華している。
いにおと映画スタッフ陣の幸福な出会いはまるで、おんたんや門出と、友人たちの出会いのようではないか(映画の出来の素晴らしさや、卓越したスタッフ陣に関しては、マクガイヤーゼミ本編及び、ちゃんとした解説や評論を参照されたし……)。
映画版で小比類巻君はラスボス的なポジションであり、ラストで「闇堕ち」の象徴として倒される。また、人類は完全には救われないが、少し救われている。「ボーイミーツガールが起こした奇跡!」といった、「キラキラした嘘」でこの世の全てを救わなかったところは、むしろ誠実だと感じる。
原作『デデデデ』のラストもこれはこれですごい。おんたんと門出にひつこくFPSをやらせてきたことや、兵器のコントローラーがゲームのプロコンだったことにはきちんと意味があり、おそらく彼女たちに「生き残るために戦う」という選択肢を与えている。
「僕ら軍人は」というおんたんの台詞がリアルになる世界線は、ストリーミング完全版で描かれるのかも?
◆これからのいにお
連載中のいにお作品『MUJINA INTO THE DEEP(以下、ムジナ)』の主人公は、人権を奪われた武闘派、そしてまたも「太眉」の30歳女性「ウブメ」である(ライバル? の「テンコ」も太眉)。
『ムジナ』には『デデデデ』とも違う、よりハードコアな「もしも」社会が描かれており、ウブメやテンコにはバトルのスキルがそもそも付加されている。
思えば『プンプン』も『デデデデ』も、結果的に現実社会の状況と大いにリンクしてきた。『ムジナ』もまた然りだろうか。
ところで、いにおを「冷笑系」と捉えるむきもあるようだが本当にそうだろうか。
『デデデデ』に描かれた、暴走する正義の恐ろしさやタコ派とイカ派の争いといった表現は果たして「冷笑」だろうか。
『デデデデ』に頻出のテーマ「もしも、空を飛べたら何をする?」の答えは門出においては(”絶対”である)「おんたんのところに飛んで行きます!」であり、大葉くんにおいては”世界を救う”だった。
いにおが『ムジナ』で、より厳しい社会で、ビュンビュンに戦うバトルガールを描いている裏には、「生き抜け」という願いや希望は隠れていないだろうか。『デデデデ』、映画も今観たほうがいいし、漫画も絶対読んだほうがいいよ。
いにお漫画だからこの『ムジナ』もきっと一筋縄ではいかず、とんでもない展開が大いにあり得るのだろうけど、どんどん面白くかっこよくなるいにお作品と、その世界の中でウブメが勝って生き続けることを応援したい。
◆
令和のイットガール、あのちゃんやいくらちゃんと仲良さそうないにお。
いけてるファッションでテレビに出てもソツなくトークをこなすいにお。
リーボックから贈られたポンプフューリーを誇らしげに自慢するいにお。
これらも、いにおが苦しんで描き続け、たどり着いた成果の一つだと思う。すごい作家だなー。
でもいにおはやっぱり”俺たちのいにお”なので、なんとなくみぞみぞするのでした。
以上です。読んでくれてありがとう!💜🌈
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