見出し画像

雪だるまと現象として溶けていく記憶装置

雪だるまは 記憶として形作られ、意味として世界に染み出していく。
今日はそんな話を。

大雪が降った2月10日。街に残った雪を眺めながら初雪が降った日のことを思い出す。
初雪が降ったのは年が明けてから間もない1月6日のこと。
暖かい部屋の中から、窓の外が段々と白の世界へと塗り変わっていく姿を眺めていた。

街角の小さな雪だるま

大雪が、心躍る一大イベントから社会的制約を帯びるようになったのはいつからだろうか。
小学生の頃は大雪が降ると何とも言えない高揚感に包まれ、いつもの通学路が楽しくてしょうがなかった。一目散に外に駆け出し、手を真っ赤にして雪を集めて、その日の現象を体全体で目一杯感じたものだ。

それがいつの日か、足が濡れる、靴が汚れる、電車が止まる、そんなことを考えながら、社会的認識の中で、雪が止み、寒さが過ぎるのを待つようになった。
そんな少年の高揚が時間とともに社会的制約に変わっていく境目がどこにあったのかは今になっては見つけることもできない。

ガキ心を考え始めた自分にとって、その境目を彷徨うことは大切な気がして、大雪が降った夜の街を散歩することにした。
外に出ると足元は雪で覆われ、人は少なく、街は静寂に包まれていた。
降り積もった雪に一歩ずつ足跡をつけながら、同時に少年の頃までの記憶の足跡を辿る。
角を曲がるとそこには小さな雪だるまがひっそりと立っていて、
その周りには雪に残った足跡が、微かに時間の流れと記憶を想わせる。
近くの子供たちが造ったのだろう。その子供たちは家へと帰り、暖かい家の中で今日造った雪だるまの話をしているんだろうな。

記憶と保存装置

記憶は物質に宿る。人はあらゆる記憶を何かに保存して生活している。大きな木に先祖の記憶を、ぬいぐるみに子供の記憶を、手紙に友の記憶を、形見に故人の記憶を保存するように。
目に見える形として残さないと次第に消えてしまうのか、触れられないと思い出せないのか。
過去のデータがストレージに保存され、再生ボタンを押すことで記憶が再生される機械のそれと同じように、あらゆる物に想い出を保存し、触れることでその想い出を再生している。
その保存装置は大小様々で、想い出される記憶も、時間もその装置と同じ数だけ様々だ。

もしかしたら雪だるまを造る少年たちは、その日に起こった現象と、見た景色と、友との時間を、雪を固めてあの小さな雪だるまへと保存しているのかもしれない。もちろん当の彼らにそんな意識はない。
今の自分にとってはその行為自体が忘れ去られたモノで有ると同時に、今自分が保存している日々のデータと比べて、雪だるまの保存装置としての機能は複雑で情報量が多いと感じる。
しかもその保存装置自体をその現象そのものから作り出してるから面白い。雪が降ったことを雪を使って保存している。他に何も必要がない。

時間経過と溶ける保存装置

さて、街の景色からそんな訳も分からないことを考えながら家に戻り、暖かいお茶を飲みながら頭の中の出来事を体に流し込む。
次の日の朝、昨日の世界の色がどんなふうに変わったか気になって、同じ道順で散歩をしてみる。
積もっていた雪の白は、コンクリートの灰色に変わり、端に残った雪は土混じりの色へと、人の足跡は水となって流れていた。
あの角を曲がると昨日の雪だるまがまだいた。昨日に比べて形は少し崩れ、ひと回り小さくなった気がした。

少年の記憶は昨日の雪だるまと共に形作られ、この今日の雪だるまのように、次第に溶け出していくのだろうか。
保存装置としては短過ぎる。
ただ、現象から切り取られた景色の塊が、時間とともに再び現象として溶け出していく姿に、ひと時のせつなさと永続の美しさを感じる。

記憶として形作られ、意味として世界に染み出していく。

物と価値と、現象と意味と

それは社会的人間からすると無意味な行為に思えるだろう。物を作るのに価値の存在を気にしてしまうからだ。しかもその価値は交換価値であって、不完全なシステムの中の制約から規定された価値でしかないのに関わらず。

この雪だるまを作る行為は、無目的的なモノの中に意味が染み出している。
現在的な"価値"とは異なり、無目的的な世界の中に別の形をした<価値>が存在している。
別の形をした価値は意味として現象の中に染み込み、またいつ来るか分からない現象へと姿を変える。そしてその現象はまた別の記憶として形作られ、意味として溶け出していく。
この循環する時間には向きも大きさも存在しない。それを"無目的的"とひとまず呼んでいる。

目的を向いた矢印のような時間軸の中で過ごす傍らに、向きも大きさもない円い時間軸の世界の美しさに憧れを抱いている。

やっぱりどうしても社会的渦巻きの中を泳ぐ人間にとっては別様の価値の存在に気づくことが難しいのかもしれない。
ただ、その美しい世界に住む住人は近所にいる。そしてきっと過去の記憶の中にもいる。
だから、その世界を垣間見るためにも、今の自分の認識が社会的制約の上に乗っていることを認めた上で、制約を一旦袖に置いて、身体的に現象と向き合っていきたいと思うのである。

つまりは、矢印時間の世界の中で作られた四角い鉄だるまをいったん壊して、円環時間の世界の中で円い雪だるまを造っていく。

そしてその雪だるまと一緒に現象の中に溶け出していくことに美しさを感じていたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?