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曼荼羅的な陰陰滅滅

 曼荼羅って読めないよね(挨拶)。

 ◆

 ちょっとここ数ヶ月陰陰滅滅としていまして。
 何かあったわけじゃなくて、まあ陰陰滅滅とは言っても日々楽しく生きていたんですけれども、なんというかその……なんだろう……最近「何かのために生きる」みたいなことをしていないな、みたいなことをふと思ったんですね。思い起こせば小学生の終わり頃に僕はギターという楽器に出会いまして、それからギターをかき鳴らす青春時代を送り、高校生になって文学に出会いまして、しこたま小説を書き、ひょんなことから結婚したりして、金を稼ぐぞと働き、色々あって離婚しまして、とにかく死なないために楽しく生きなきゃ! みたいな感じでこう……なんだ、日々焦燥感に追われるようにして生きてきたわけです。
 思えば小学生時代の僕は本当に平和な人間でした。別に何か主張したいことがあるわけじゃないし、世界をぶち壊したい気持ちがあるわけじゃない。家族がいて、娯楽があって、日々適当に過ごして行ければ御の字だと思っていた。その根底は今現在もあるのですけれども、とにかくまあなんというか——平和だった。その退屈さが好きだったし、退屈の中にある日々の新しいものとの出会いや、自分自身の思考による発見が刺激となって、平和ながらに楽しさの連続する人生を送っていたのです。
 そして中学生でギターを弾いて脳が壊れるんですね。とにかく同じ曲を狂ったように練習しては指から血を流し、なんというか……焦燥感というか、そういうものに突き動かされていたわけです。ああ、音楽は僕の生涯の趣味だ! ギターは僕の人生なのだ! みたいな。そういう感覚を得たのですね。で、どっぷり肩まで浸かるわけです。
 高校生になってギターを買うためにバイトを始めると、まあ金はある上に時間もあるという謎の生命体が生まれる。いくらギターが好きでも、授業中とか、旅先だとギター弾けないじゃないですか。でも暇じゃないですか。だから安くて時間が潰せる暇つぶしの道具として文学に出会うわけですが——これがまあ良かった。僕は文学の世界にどっぷり肩まで浸かって、面白い面白いと読み始める。で、自分でも書き始める。あまり人前に立ちたいタイプの人間でもないですから、音楽家を目指すよりは小説家の方が自分の性格に合ってるんじゃないか、みたいな気持ちで、また焦燥感に突き動かされて小説を書くわけですね。
 で、まあ大学も行かずに文章を書き続けて、小銭を稼いだり、せっかく出版社に声を掛けてもらっても、クソみてえな小説を書かせようとする編集と喧嘩をして音信不通になったりという日々を送ることになるわけですが、そんな中でも人付き合いとかは当然あって、しばらくすると結婚の二文字が見えてくる。「こりゃいい加減、普通に働くか」みたいな清々しい気持ちになって、当時25歳くらいでしたけれども、学歴も経験も資格もない人間が何となく職業安定所に行って面接を受けて仕事を始めるわけです。で、スタートも遅いし何の歴もない人間ですから、とにかく勉強して、色んな人と仲良くなって、成果を挙げて、お給料をいっぱいもらえるようになろう! みたいな気持ちで働き続けるわけですね。
 それから数年経って色々あって離婚することになるわけなんですが、そうなるともうとにかく希死念慮と言いますか自殺願望と言いますか、「う、うわー! 結局夢も叶えてないし、仕事始めた意味もなくなっちゃったし、俺の人生は何だったんだろう! こりゃもう死ぬしかない! でも中学生くらいの時に死なないスイッチに切り替えてスイッチごと壊したからな……うーん、死ぬわけには行かない! うわー! じゃあどうしよう!」という精神状態になって、幸か不幸か酒浸りの生活を始めることでなんとか生き延びることが出来たのです。とにかく日々自堕落に、自由気ままに、でも生きるための金を稼ぐために仕事には行きつつ、せっかく培った土台だから一気に壊すわけにもいかないので、アルコールで自分をコントロールしつつ、「俺は死なない! 死んではいけない!」という考えの元、生きてきたわけです。
 で、最近。
 そういう焦燥感が少しずつ息を潜めて、
 今年の頭くらいからそれがかなり顕著になり、
 夏休みも終わって、日常に回帰し始めて、
 思うわけです。
 最近なんか、やることねえなと。

 ◆

 もちろんインターネット上に表面化している僕なんてのはごくごく一部ですから、皆さんに見えている福岡像ってのは「昔から変わらねえなあ」と思う人もいるかもしれません。でも当たり前のことですけど、100%をインターネット上に出すわけもないわけで。いくら僕が鬱状態だとしたって、全裸の写真をインターネットには上げないじゃないですか。そりゃ多少は気を遣いますし、ギリギリのラインは守ってる。「こりゃ守れない!」となったらインターネットをしなくなりますから、まあその……ある程度はね、見えてないところで、かなり限界な日もたくさんあるわけです。
 だから現実の僕はそれはもう陰陰滅滅としていて、「もう死のう! いや死んじゃダメだったんだ」とか思い直してはなんとか生きている、みたいな感じだったんですね。「やばい! 死にたい! ……そうか、一旦酒を飲もう」とか、「もう限界だ! これ以上は耐えられない! ……一旦寝るか」みたいな。「今日こそ死ぬ! 今日こそ人生の終わりの日だ! もうこれ以上は耐えられぬ! ……いや、一旦二郎系でも食ってみるか」みたいな感じで、なんでしょう? 希死念慮を超えるような刺激を無理矢理与えることで、なんとか死を先送りにして、かれこれ5年くらいですか? ……そんなに経ったの!? まあとにかく生き延びました。欲しいものを買うとか、食いたいものを食うとか、前後不覚になるまで酒を飲むとか、もう限界だから仕事を休むとか、そういうことを日々やりながら暮らしてきて、まあその……なんでしょう……僕は自分を疑っていますから、何も信じてませんから、「本当か? 本当なのか?」と疑いながらではあるんですけれども、なんか————ここ数ヶ月で、ひどく落ち着き始めた。今も疑ってはいるんですけれども、次の波があんまり来ないので、信じてもいいのか……? みたいな感じになっている。波っていうのはあれです、単なる鬱っぽさとかじゃなくて、マジで死にたくなるやつね。
 この状態がですね、僕によくある「躁鬱の躁!」なら、「次はでかい波が来るぞう! 楽しみだなぁ!」くらいにキャッキャして構えられるんですけれども、「躁鬱スイッチ、そ! それでは窓から飛びます」でもなければ、「躁鬱スイッチ、う! 産んでくれなんて頼んでない」でもない。どちらにも行き過ぎないバランスを保っている。言うなれば「躁鬱スイッチ、な! ——凪。」なんです。ナ行なんてないんですけれども、とにかくそういう……なんだろ、今までの僕の人生において、本当、小学生の時くらい、起伏のない日々が増えてきた。
 そういう凪いでいる状態の僕っていうのは、本当に思い返してもあんまりないことなんですよ。躁状態で震えるような量の作業をこなしたり、人付き合いをしたり、急に遠出をしたりする状態でもなく、鬱状態で天井を見つめているわけでもなく、部屋の角のゴミを必死にこすったりする状態でもなく……ただただ、なんかベッドの上にぽつねんと座って「やることないなー……何しよう。ゲームでもしようかな?」みたいな感じが、今年の……特に仕事に対して愛情を失った6月頃から増えまして。仕事絡みの話なので具体的な例は流石に出せないんですが、雰囲気としては「なんかあんまり頑張っても、今以上の結果には繋がらないかもな」という当たり前の事実を体感したことで、日々行われるルーティンとしての労働との間合いの取り方が出来上がってしまった。
 だからなんか……麻痺材料としての『労働』が、一段落しちゃった。
 働いて時間を削り、酒を飲んで意識を削り、希死念慮から距離を置いてたのに。
 暇な時間が増えちゃった。
 だからまた波が来そうで怖いなー……と思ってたんですけれども、意外と来ない。
 で、気付いたらただ単に暇になっちゃった。
 生きたいでもなく、死にたいでもない日々。
 かと言って、他にやることなんてないんですよ、人生に。
 だからなんか……そうですね、眼鏡を買うとか、キーボードを買うとか、フォントを買うとか、過去の夢や遺産を食い潰して辛うじて日々を繋いできて、なんとか日々の「焦燥感」というか「追われてる感」を出そうとしていたんです。「俺には欲しいものがあるんだ! そのために働いているんだ!」とか。「欲しかったものを買ったり、観たかったものを観たり、そういう生活が出来る人生はちゃんと機能しているんだ!」とか。そういうことを……なんだろう、意識的に、自覚的にやることで、自分の人生に意味を見出そうとしていたのです。小狡い、小賢しい、そういう生活を、今年の頭くらいから、続けていたのです。

 ◆

 なんですが……なんか最近急にまた小説を書き始めて。
 これは遺産を食い潰す的な思想ではなく、単に「そればっかり考えて頭の中が重いから吐き出さなきゃ」みたいな感じで、外に出さなきゃと思って書き始めたんですね。で、普段の僕なら「書き始めたし、ある程度書いたら公開しようかな」という行動に出るんですが、これが一向にそうならない。むしろ公開が目的ではないし、書き終わっても公開しないかもしれない。本当にただ、趣味としての創作が始まって、行われているんです。言うて毎年、毎月なんか書いてるんですけど、義務感もなければ「俺には小説があるんだ」みたいな意志もなく、ただ「書かなきゃ気持ち悪いから書く」という原始的な感情で書いている。
 もちろん、ただの趣味としての執筆ですから、誰かに反応をもらえるわけでもないし、ましてや感想がもらえるわけでもない。利益も生まないし、ただ時間だけが削られる。だからと言って、寝る間も惜しんで創作するわけでもない。暇な時間があるから、楽しんで小説を書いて人生の長い暇を潰そうとしている。
 そういう状態をなんか……僕はそれを「つまんないな」と思ったんです。あ、最近の俺はすごくつまらないな、と。客観視していても面白くない。昔みたいに、なんかよくわからんテンションで何か創作をして「ママ見て! 出来たよ!」というテンションで誰かに見せたり世界に向けて発信したりということもなく、淡々と作業をして「このくらい出来た。よし。寝るか」と満足感を得てただ眠るだけの日々を送っていて————思うんです。
 俺はすごくつまらないと。
 客観視するに、俺という人間は、すごくつまらないと。

 ◆

 それを自覚しちゃったせいか……鬱ってほどでもないんですけれども、昨日、日曜日は朝からずっと動けなかったんですね。「俺ってなんなんだ……?」みたいな。動けないと言ってもちゃんとNetflixのワンピースのドラマを観ていたので、厳密に言えば普通の生活をしているんですけれども——それは表面的な話であって、思考としては「俺はこんなつまらない日々を送る人間でいいのか?」みたいな葛藤が巡っていたわけです。ワンピースを見ながら。
 で、ドラマを見終わっても気分は晴れないし、晩飯を食べても気分は晴れないし、軽く酒を飲んでも楽しくないし。仕方なく2時間風呂に浸かって身体を洗い尽くしても、全く気分は晴れないし。そのあと早寝しようと思ったのに陰陰滅滅としてインターネットを見ては寝ようと思って目を閉じてまたスマホを触ってを繰り返し、午前3時くらいにようやく、「ちょっと将来について考えるか」という前向きな思考が芽生えたんですね。

 ◆

 いやいや今更将来とか。
 お前はもう、10日後には35歳になるんだぞ。
 そう考える自分もいたんですけれども、何らかの作品を摂取して、小説を書いて、ギターを弾いて、飯をたくさん食べて、酒を飲んで、途中で昼寝もかました僕は結構心身共に安定していたので、「いや……これはもしかしたら、ついに、僕の中にあった色々な『焦燥感』がなくなったんじゃないか?」みたいなことに思い至ったんですね。
 音楽家にならなきゃでもない、小説家にならなきゃでもない、家庭のために金を稼ごうでもない、死なないために楽しく生きようでもない、欲しいものを買うために働こうでもない。今、ここに安定があって、今ようやく、自立という、家族や友人に頼らなくても生きて行ける信頼と実力があって、その上で別に何をしなきゃならないという制約も焦燥感もない状態がある。35歳になろうという歳になってようやく、名実共に、心身共に、すごく安定感のある人間が生まれた。
 つまらないけれど、安定した人間に成った。
 という風に、自分を定義してみたのですね。
 自分で言うのも憚られますが……まあ客観視、自己分析の観点からご容赦いただきたいわけですが……僕は今、普通に企業に勤めて労働している。社会的信頼がある。借金も出来ればクレジットカードも作れて、ローンも組めれば、色んな場所に行って自分のことを堂々と説明出来る。元々あんまり学歴にコンプレックスはないんですが、例えば大人同士の会話で「大学はどこですか?」と聞かれて「僕は実は高卒なんですよ」と答えるような話をしても、恥じることもないし、馬鹿にされることもない知識を経験を得たように思う。馬鹿にされたとしても、落ち込まないと思う。むしろ、高卒であるというポジションにおいしさすら感じられる。なんか……まあ、元々僕は自分に自信のあるタイプの人間で、自分を唯一神とする怪しげな宗教の教祖(冗談で言っています)なんですけれども、それに輪を掛けて、自分の人生に対して、「色々なことがあったけれど、現状すごく、安心感があるな」と感じたわけです。あるいは、自分をそう定義したのです。

 ◆

 言い換えればそれは、本当にただただつまらない人生なんですよ。
 日々、その……有名になりたいとか、お金を稼ぎたいとか、自由な時間が欲しいとか願うわけでもない——もちろん、仕事が早く終わって自分の好きな家で映画を観るとか小説を読むとか出来れば楽しいんですけれど、別に仕事をしていても楽しいし、仕事がちゃんと回っていると気分も良い。どちらにも移れる。ちゃんと資料を作ってその資料が効果を発揮するとか、人員について考えるとか、お金の計算をするとか、そういうことをしながらも——家に帰ってゲームをするとか、ぼーっとギターを弾くとか、休日は作り置きのおかずを作るとかしていても、まあ楽しい。
 だからつまらないんです。
 客観的に見て、すごく普通で、つまらない。
 だけど、これは言い換えれば安定であり、安心感なのではないかと、昨日の夜にふいに——本当にふいに、そういう言い換えに気付いた。逆説的ですけれども、安定したことでつまらない人間になったということは、つまらない生活っていうのは、すごく安定しているんだと。
「はっ……俺、今、やっと普通になったんだ!」
 という、衝撃の事実です。
 思い起こせば中学生の頃から、割とこう……変わった目を向けられる人生を送っていたように思われます。特に、そこまで仲が良いわけでもない友達とあるゲームを一緒にプレイし始めると、「お前はひとりでガンガン先に行くからレベル差が開いて面白くない」みたいなことを言われるようなタイプでした。僕はそれこそ、焦燥感によって何でもある程度突き詰めようとするわけです。何事も……とにかく、目の前にいる誰かよりも上手くなってやろうという気持ちが強かったのですね。これはマウントを取りたいわけじゃないんです。自信のなさとか、安心感のなさから来る、焦燥感だったのかもしれない。自分には何もないから——自分に誇れるものが何もないから、もしあるのだとしたら、熱中力と集中力くらいなものだ、みたいな劣等感が、日々付き纏っていたように思われるのです。僕には何もないから、人より頑張らないと誰も僕を見てくれないという、悲しい叫びでもあります。
 それは別に小さな教室の中でだけ起こる話ではなくて、例えばヴァン・ヘイレンというギタリストの演奏を観て、「俺はなんでギターが下手なんだろう」と思ったり、傑作小説を読んで「俺はなんで小説が下手なんだろう」と思ったりすることなのです。思えば、今の世の中——生まれた頃からトッププレイヤーの動画が蔓延るこのインターネット蔓延期において、「最近の若い子は可哀想だよ、自分の得意なことを見つける前に、もっとすごい奴の映像を観ることになるんだから」みたいな評価を僕はしていたんですけれども、考えてみれば僕はインターネットがそこまで普及していない時代から、そんなでした。僕こそがそういう、可哀想な人間だったのです。
「世の中には俺より上手いプロがたくさんいる!」
 と、マジで思っていた。思う必要なんかないのに、ずっと劣等感に苛まれていた。だから何事も必死にやらなければ形にならないと思っていたし、参考にするのがなまじプロばかりなものだから、どれだけ練習しても「何か足りない、俺には才能がない、なんて下手なんだ……下手だから頑張るしかないんだ」みたいな感じで、様々なことに手を出してきたのですね。
 今思えば、ですけれども。
 それが根底にずっとある人生を送っているのです。

 ◆

 負けん気が強いと言えばそれまでですが。
 とにかくまあ、眠れぬまま深夜に布団から起き上がり、無印良品で売ってる藁半紙みたいな「らくがき帳」に、あーでもないこーでもないと文字を書いたり図を描いたりしつつ、僕はその「つまらねえ安定」に至ったのだという結論を、一旦書き出してみたのです。曼荼羅(マンダラアート)みたいな文様を描いたり、樹形図(ディシジョンツリー)みたいな図を描いたり、まあ色々やって、「あー今、俺はようやく普通になったんだ」と、一旦安心してみたのです。
 もちろんその「安心安定の状態」と「つまらない」は冷静に考えると全然イコールじゃないんですけれども、様々な紆余曲折を経てそこに至ると、「安定するってことは、つまらないってことなんだな」という思想に至ったわけです。
 でもまあ……さんざんつまらなくなったと言っておいてアレですけれども、やっぱ面白くいたいじゃないですか。せっかくだから人に笑って欲しいし、楽しんでもらいたい。なのでその、「安定しながらも面白くある」ためにはどうすればいいのか、というのを考えるのが次のステップになるわけです。
 いやそもそも、面白いって何だろう。
 ていうか安定ってなんだろう。
「安定イコールつまらない」という図式を書いておきながら、また考え込むわけです。はて? 安定とか安心感ってなんだ。つまらないってことだ。つまらないってなんだ? 面白くないってことだ。面白いってなんだ? ……まあそういうことを、ただひたすらに煮詰めることになるわけです。

 ◆

 当然のことながら、僕の意見は唯一神こと僕が教祖を務めるArc教(そんな名前だったんだ)の口伝による教えですから、世界の真理でもないですし、正解でもないですし、別に理解する必要もないことです。そもそもにしてArc教の教えの唯一にして至高の金言は「自分を信じろ」なので、僕のこのだらだらとした文章を読んでどう感じるかは自分の胸に手を当てて考えろ、なんですけれど——それでも、昨日なんかふと、ある種の真理に到達したので、お話します。
 これが本日の日記のメインテーマです。
 まず結論を言います。
 時間とは、睡眠です。
 金銭とは、食事です。
 人気とは、性欲です。
 ……はい、分かります。すごく胡散臭いですね。僕もそう思いますが、なんだろう……今の人々が欲しがっているものって、そもそも「時間と金銭と人気」かなって思うに至ったんです。深夜5時頃に。で、これを紐解いていくと、ああ、人間の三大欲求に照らし合わせることが出来るんじゃないかと気付いたんですね。
「いやいや福岡くん、君はそう言うけれど実は違ってね……」いや結構です。そりゃそうだよ。僕の言っていることは真実じゃない。君の言っていることの方が正しい。なので説教は結構なんですけれども……とにかく僕はなんかそれに気付いて、「あーよく出来てる!」と思ったんです。別にここから先展開する話じゃないんですけどね。「あーよく出来てる!」と思った。長い時間を掛けた人生の伏線回収みたいなもの。俺らは、なんか、勘違いしていたというか……概念的な言葉にすり替えられることによって、我々は、結構な時間、青い鳥を見逃していたんじゃないか……? と、そう思ったのです。別にTwitterの話じゃないです。

 ◆

 時間とは?
 みんな、時間が欲しいですよね。
 毎日フルタイムで働いている。時間が欲しい。時間が無限にあったらなー。精神と時の部屋があったらなー。一日240時間欲しい! 労働したくない! 通勤したくない! 在宅サイコー! 自由業とかフリーランスで家から出ない生活いいなー。YouTuberって時間あっていいなー。週休6日だったら働くのになー……。
 何すんの?
 ゲーム?
 いや一旦置いておこう。分かる分かる。ゲームとかさ、もっと効率の良い稼ぎ方がしたいとかね。分かる分かる。副業するとか、転職するとかね。分かるよ。
 でも結論よ?
 結論、時間が自由に使えたら何するか。
 お前らが急に240時間与えられたら、どうしますかって話ですよ。
 順序はさておき、好きな時に起きて、好きな時に寝る、をしたいじゃない?
 要はその、寝るわけ……俺たちは眠いわけ。みんな。眠くて眠くて、けど予定がある。仕事がある。やらなきゃいけないことがある。だから時間をそこに当てる。で……睡眠時間が削れる。眠いよね。毎日寝不足だ。じゃあ時間があったらどうするのか。
 寝るんですよ。
 眠いわけみんな。
「時間が欲しい」って言うけど、何するための時間なのか? お前はその時間を何と引き換えるのか? って考えた時に、僕は——睡眠なんですよ。眠い時に寝たいの。で、目覚ましなんか掛けずに、目が覚めたら目を覚ましたいわけ。寝たいの。眠くなるまでは起きていたいの。それが『時間』じゃないかと。
「いやいや福岡くん、睡眠に時間を使うなんてもったいない。人は創作をしたり、発信をしたり、あるいは効率よく労働をすることで、もっと人気を得たり、金銭を稼いだりすることが出来るんだよ」
 分かります。
 すげーよく分かる。
 じゃあ人気とか金銭って何なんだと。

 ◆

 金銭とは。
 飯なんですよ。
 まあ、メシ、と一言で言うとかなり乱暴なので——分かりづらい人は『生活』という広義の言葉に置き換えてもいいです。あるいはこれこそが『衣食住』なんですけれども、個人的に一番分かりやすい例えとして、メシです。
 何を言っているんだという感じなんですが……じゃあその、金があったら何をするのかって考えてみてください。
 欲しい機材が買える! ゲームに課金出来る! 射幸心が満たされる! お洒落出来る! 美容にお金を掛けられる! 良い家に住める! 美味しいご飯が食べられる! 競馬が出来る! パチンコが出来る! 推しにスパチャが投げられる!
 これ。
 ここです。
 今ありましたね。
 欲しい機材を買うとか、ゲームに課金して射幸心を満たすとか、お洒落するとか、良い家に住むとか、美容に金を掛けるとか——うーん、まあ、まあまあ……分かりますよ。細分化した枝葉がいっぱいあるんですけれども、それは次の目的となる「人気」に結びつくんですよ。ステータスとでも言うんでしょうか? バズりというか、インフルエンサーというか、そういう……外部から観た時の付加価値の側面が強いところがある。
「いやいや福岡くん、自分の満足のためにだけ、お洒落をしたり、綺麗になりたいと思う人もいるんだよ」
 分かります。
 すげーよく分かる。
 でも一旦置いておいてもらってね——じゃあ金がたくさんあって、そこに他者からの客観性を置かず、日々の暮らしの中で満足度を得るに足るものって何かというと……まあ、メシしかなくねえかと。
 いやもちろん、映えるメシをインスタにあげて「うわぁこの人はお洒落な生活をしているなぁ」みたいなのはあると思います。日々、洒落た食卓をインターネットに上げて承認欲求を満たす人もいるでしょう。でもその……メシって結局、最終、食うじゃないですか。僕は今、食うメシの話をしてます。承認欲求を満たすためじゃない、単純に「美味い飯を食う!」っていう……そのなんだろう、日々の喜びがあるじゃないですか、メシって。
 金があったらちょっと良い米を買うとか、奮発して果物を買うとか、良いお肉ですき焼きをしちゃうとか——金に余裕が出来たら何に一番最初に費やすかって、食事だと思ったんですね。まあ酒でもいいんですけど、「ちょっといいものを」ってなるのって、まず第一に、メシだなと。まとまった金が入ったら欲しいものってのはあるかもしれないですけど、生活水準を上げようって思った時に考えられるものって、美味いメシだと。いやもうね、自分に置き換えて考えてもみてください。自分ひとりだけの生活の中で、急に5時間与えられて、1万円与えられたら、どうしますか。この疲れた社会の中で。俺たちが出来る贅沢はなんですか。
 寝て食うんすよ!
 バチコリ寝て、シコタマ食うわけ!
 ほんと、概念がね、すごく曖昧だから——時間とか金銭っていうのは、他にいくらでも使えそうな気がするから、すごく漠然としていて概念的なことになっちゃうんですけれども、本当にじゃあ一番、奥の奥にある欲求が何なのかと言うと、寝て食う。これに尽きる。もちろん、寝て食うためには、家があって布団があって食器があって調理器具がなくちゃいけないから、本当の本当の基礎は別にあります。でもまあ、寝て食う。それが人間の身体の一番の基本じゃないですか。
 ボーナスが出た!
 連休だ!
 寝て食うし食って寝るんですよ!!!!
「いやいや福岡くんね、君は急に分かったようなことを言ってるけど……今時それだけじゃないよ? 他に楽しいことはたくさんあるんだから」
 そうね。ごもっともです。
 では最後の欲求について考えてみます。

 ◆

 人気とは?
 人気とは——性欲です。
 はい、あり得ない回答が出たのでここで終わりにします。終わりにしたいところです。僕自身、こんな身も蓋もない回答はしたくない。でもじゃあ……なんだろう? インフルエンサーとは、バズりとは、人気者とは、一体なんだろう。これを考えてみます。
 もちろんこれも複合的な話で、むしろウロボロス的な、メビウスの輪的な、そういう話になってきちゃうんですけど……人気があれば、知名度があれば、お金がもらえる。お金を稼げば時間に融通が利くようになる。夢の印税生活で、広告収入で、働かなくても金が入る! やったぁ! 人気を得たことで、時間とお金が手に入ったぞう!
 でもそれって、上記の考えに照らし合わせると、睡眠とメシなんですよ。
 結局その先にあるのって、好きな時に寝られて、美味しいものが食える生活じゃん。でもみんな人気者になりたいじゃないですか。綺麗になりたい、格好良くなりたい、フォロワーを増やしたい、人より秀でたい、モテたい! 抱きたい! 抱かれたい! 見たい! 聞きたい! 唄いたい!
 いやいやと。福岡くんね、君はそんな下卑たことばかり言っているけれども、人々はそんな不埒な気持ちで人気を得たいわけじゃないんだと。承認欲求を満たしたいわけじゃないんだと。もっと崇高な気持ちで、清廉潔白な思想で、人々から認知されたいんだと。
 いや分かりますよ。本当に。心の底から分かる。
 君の方が正しい。だからもう帰ってくれていい。ここまで聞いてくれてありがとう。本当に。大好きだよ。また会おうね。
 ただ、ただ! 上記したような「時間=睡眠」理論とか「金銭=食事」理論を聞いて、ほんのちょっとでも、「あ、確かによく時間が欲しいって言うけど、本当は僕、寝たいだけなのかも」と思った人。あるいは「確かにお金あったら、私はまず美味しいご飯を食べるかもな」って思った人は、ちょっと待って欲しい。まだ行かないで欲しい。
 そういうことなんだって!
 急に「人気は性欲です」って言われても分からないよね。
 分かる分かる。
 分からないことが分かる。
 でも「時間は睡眠です」と同じことなんすよ。結局——追い求めて行くと、そこに通ずる。もちろん「性欲」という言葉が生々しいなら「愛されたい」でもいい。とにかく、人に認められたい、認知されたい、生物として秀でたいという欲求があるわけなんです。
 でもなんとなく、漠然とした言葉に踊らされて、本質が見えなくなってる。
 僕もそうだから、すごくよく分かる。
 なんとなくさ……本当、なんとなく、「1日240時間欲しいー」とか「5千兆円欲しいー」とか「万バズしてえー」とか、曖昧で概念的な、オバケみたいな言葉を日々使っていて、結構本質を見失っている感覚がある。でも、振り返ってみると、やっぱ我々のしたいことって、
 寝て、
 食って、
 モテまくって、
 それじゃん。
 それだけじゃん、欲求って。
 いっぱい寝たいのよ。で美味しい飯が食いたいのよ。そんでイケメンに抱かれたいし可愛い子を抱きたいわけよ。そいつらに好かれたい。周りに人間がいる、その人間たちに行為を持たれるというのは——やっぱその、安心なんですよ。それが本質だと。そう考えてみると、やっぱり輪廻なわけですね。「時間があったら金も稼げるし人気も得られる」「金があれば時間が作れるし人気が得られる」「人気があれば時間も作れるし金も稼げる」っていう——そういう構造になってる。
 そういう構造になってるから、本質を見失っている。
 三竦みの状態だから、なかなか動き出せないんですよ。
 全部を一気に手に入れようとするから。
 だけど手に入らない。しかも概念的な言葉を使っているから、みんな本当は何が必要で、何のためにそれらを求めているのかを見失っている。
 ていうか見失ってた、僕が。
 見失ったので、一度立ち止まって、深夜に2時間くらいあーでもないこーでもないと考えて、一旦、その2時間の枠の中で出た結論が、つまりそういうことなんですよ。
 時間は睡眠だし、
 金銭は食事だし、
 人気は性欲だと。
 我々は結局、その三大欲求に従って生きている獣に過ぎないのだと。

 ◆

 いやいや福岡くん、と。
 内なる僕が言うわけ。
 じゃあお前はなんで小説を書いてんの?
 小説家として成功すれば夢の印税生活で、時間と金と人気の全てが手に入るから、じゃあ君はそういう本能に従って創作をしてるの?
 そういうことになる。
 でも、なんかしっくりこない——自分の考えの中では、「現代人が求めているもの、実は結局、三大欲求説」が成り立ったんだけど、いや……どうもそうじゃない。なんかしっくりこない。
 ていうかギターだってそう。別に誰に聞かせるわけでもない。僕は僕の、ただ好きなことをしているに過ぎない。じゃあ、趣味か……? 三大欲求からあぶれた感情は、じゃあ全部趣味か……? いやそうだよね、だって性的マイノリティであるアセクシュアルな人が、人気を得る行為に該当するであろうお洒落をしたり、ボディメイクをしたり、インフルエンサー的な仕草をするのは、これはじゃあ何? 性欲と結びつかないじゃん。だからお前の理論は破綻してるよ!!! この腐れ新興宗教め!!! お前なんか邪道だ邪道!!! 憑き物を落としてやる!!!
 そう思って、はて、じゃあ僕のこの感情はなんだろうと。
 なんで小説なんか書いてるんだろうと。
 そこに行き着く。
 誰に頼まれているわけでもないのに。
 ていうかこの日記にしたってそうですよ。
 別に誰に読まれたいわけでもないのに書いてる。
 金が欲しけりゃね、もっと聞こえの良い言葉を書いて、有料noteにすればいいですよ。人気が欲しければね、こんな長文なんか書かずに、ちょっと洒落た日々の生活を綴って、洒落た写真でも載せてね、読みやすくて人気が出るように書けばいいですよ。
 でもなんか、僕は文字ばっか書いてる。
 これはなんだ?
 なんだろう。
 で、一旦落ち着いてからもう一回考えて、陰陰滅滅とした思考状態で曼荼羅をぐねぐねと書き殴って、結論が出ました。
 これは……『狂気』です。
 あなたの中にある、その、よく分からない……三大欲求と呼ぶべき、人間に本来備わっているであろう欲望から零れた、ただいたずらに時間を費やし、利益を生むわけでもなく、人気を得るための活動でもないその行為は——『狂気』です。
 我々は狂気の中の住人なのです。
 気がね、狂ってるんです。
 だからこんな、整理してみれば無駄にしか思えない行為に、湯水のように時間を使い、あるいは生活のための金を削ぎ、誰からも見向きもされなくとも、自分を曲げずに、曲げられずに、時には大いなるチャンスを棒に振り、誰かの意見に耳など貸さず、大人になりきれず、ただ内から生まれた『狂気』を、外に出そうとしているのです。
 これは創作に限ったことではありません。
 発表だの、コンテストだの、そういうものとは無縁の——ただ、ただ感情が零れ堕ちてしまったものを、そのままじゃあ醜いからと多少彩って、象って、やらなきゃいられないから、三大欲求なんかが霞むほどにそれが楽しいから、誰も望んでないとしても、そもそも誰かが望んでるとか考える暇もないほど、やらなきゃいられないから、やっている。それはもう、趣味でも暇つぶしでも、使命でも熱意でもないです。これはもう単なる『狂気』です。コミュニケーションとしてではなく、ただ強くなるために、ただ上手くなるためにゲームをすること。推しに認知されたいわけでもないのに、推さなきゃいられないから金を払うこと。愛するミュージシャンの歌声を、誰ともシェアせずにひたすらに聴くこと。
 それらは『狂気』の産物です。
 その『狂気』が、時に生活に追われ、ぬるま湯に惹かれ、楽をしたい気持ちに負けた時、時間や金銭や人気に変換されることもあるでしょう。あるいは、その『狂気』が周囲に伝播して『熱狂』となって、人々を沸かし、三大欲求の種が後からついてくることもある。
 けど、始まりはただの小さな『狂気』なのです。
 やらなくていいことを、やらない方がいいことをするなんてのは、そのもの、狂気の沙汰なんですよ、本来。
 我々は人間は、気が狂っているんです。

 ◆

 なんかそう考えたら急に「あー! 俺は狂っているのか!」と思って、いきなり腑に落ちて、昨日はスヤッスヤ寝ました。
 まあ僕の言っていることなんて、前述した通りただの世迷い言ですし、真実でも真理でもなんでもありません。ただまあ、僕はそんなことを思いましたよ、ということを、皆さんにシェアする目的でもなく、ただなんとなく思ったので、思ったら文章化せずにはいられなかったので——書いたという、そういうことです。
 それがそのもの、狂気なんですけれど。
 まあ昨今、『狂う』という言葉は忌避される傾向にあります。狂気だの、発狂だの、熱狂だの——そのもの『狂う』だのという言葉は、あまり良くない言葉として認識されています。だけどまあ、この自分の内から勝手に湧いて出てくる感情をじゃあ他にどんな言葉で言い表せることが出来るのかと考えると、ぴたっと嵌まる言葉がないんですよね、なかなか。情熱とかだと、うーん、そんなに真っ直ぐじゃないしな、と思うし。劣情というほど、捻くれ曲がってもいないし。やっぱその、別に猛り狂うわけでもなく、無感情なわけでもなく、「僕はこうしなきゃいられないんだよ」っていう自分の中での正解が発露することこそを、狂気と称するべきなんじゃないかと、なんか、そんなことを思いましたとさ。

 ◆

 なんだこの日記は。
 日記か? これは。
 まあともあれ、総括しますと、僕は今、心身共に安定していて、安心していて、故に「つまんねえ生活だな」と思っていたんですけれど——上記のような考え方をしてみると、意外とその、『安定』やら『安心』ってのは欲求の内に収まっていて、その枠を超えた感情や行為が『狂気』とするなら、意外と安定しながらも面白い人生はまだまだ送れるのかもな、みたいな気持ちになったという話です。うだうだ言ってますが、かなり前向きな話です。次のステージまだあるじゃん! みたいな。
 もっと分かりやすく言えば、『狂気』とは即ち、誰しもが持っているわけではない、個々に備わった『願望』なんでしょうね。
 時間が欲しい、お金が欲しい、愛されたい。そういう根本的で原始的で、やはり『三大欲求』の名を冠するような普遍的で共通的な『願望』はみんなに備わっている。でもそうじゃない、人間それぞれにある個性、あるいは性格、または思想っていうのが『狂気』の正体なんじゃないかなー、みたいなことを思って、思うと同時に、そこにこそ人生の楽しさがあるんじゃないかなー、みたいな話でした。
 まとめてもよく分からない日記だ。
 まあ何が言いたいかと言うと、僕も結構「1日置きに休日になって欲しい」やら「空から5億降ってこないかなー」やら「俺のことが好きな無口でジト目の美少女メイドが急に現れないかなー」とか思いますけれども、結局それってテトリスみたいにキチンと整理してみると、「いっぱい寝ていっぱい食っていっぱい人と交流すればそれで済むよね!」みたいな単純なことだなと思った、という話です。別に240時間なくても1日8時間寝たら普通に満足だし。5億円降ってこなくても美味いメシ食ってりゃ幸せだし。ド性癖アンドロイドがいなくても普通に交流してれば満たされるし。だからそういう概念的なものを欲しがって悶々とするくらいなら、とにかく寝て食って交流すりゃ良くね? みたいな話でした。
 その上で、自分の狂気を大切に育てていって、その狂気の成長が他人から見てみりゃ「うわこいつおもしれえやつ」になるんじゃないかなって、思いました。その「うわこいつおもしれえやつ」が、いずれは時間や金銭や人気に繋がるんじゃないかとも思ったので、良かったです。楽しかったです。
 いや最後までよう分からんわ。
 まあ僕が言いたいだけなので、再三言うように、これは真実でも真理でも正解でもないです。適当に聞き流して、読み飛ばしてください。
 ただの世迷い言です。
 ただの迷子です。
 でもなんか、最近色々と悶々としていて、僕と同じように路頭に迷っているような、迷える子羊ならぬ、きったねえ老犬が世の中ににまだ縋り付いているのなら、整理してみるとお前の求めてるものってただの幻想だからしっかり地に足着けて人生を享受しろよ、みたいな教訓でした。
 そんなこんなで以上、Arc教教祖様からのありがたいお言葉でした!
 ただしお前はお前を信じろ! 俺も俺を信じる!
 また来世!

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