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心と体のメンテナンス

 アナロギッシュ(挨拶)。


愛しの電動ポット様

 パソコンもスマホもあんまり使わず、アナロギッシュ(そんな言葉はない)な生活をしています。こんばんは。
 以前、こちらの記事で「電動ポット」をポチったことを書きましたが、

 これがめちゃくちゃ良い買い物だった。
 ぼくは基本的に「飲み物」がないと死ぬ。腹がはち切れるくらい常に飲み物を用意していたい。喉が渇きやすいというよりは、すぐ近くに飲み物がないと恐怖心に溺れてしまう。多分、前世では砂漠で干涸らびて死んだんだと思う。それくらい、飲み物が近くにないことに対する恐怖心に怯えるタイプだ。仕事中であれ、在宅中であれ、外出中であれ、すぐ手が届く場所に飲み物がないと怖い。渇き恐怖症だ。
 そんなぼくなので、まあ今は家に「蛇口」という文明の利器があるのでそこまで怖くはないのだけれど、水道水を直接飲むというのも文字通り味気ないので、なんとなく「サントリー烏龍茶」を爆買いしたり、紅茶を飲んだりして日々を過ごしていた。

 が、電動ポットを買ってから、白湯ばかり飲んでいる。
 最近の電動ポットは進んでいて、温度設定が出来る。80度に設定しておくと、常に80度のお湯が出てくる。しかも、再沸騰とかで湯気が立たないタイプなので本当に静かなのだ。ふとした瞬間「飲み物がないな」と思ったら、電動ポットからお湯を注ぐだけで立派な飲み物が出来上がるのである。
 魔法か?
 ぼくが江戸時代の人間だったら確実に異端として火あぶりにしていただろう。魔女の道具である。江戸時代なら平賀源内がエレキテルを発明しているからギリギリ電気はあるか。コンセント規格はないかもしれないが。
 とにかく、この「電動ポット」のおかげで、かなり優雅な生活を送っている。
 以下は最近の在宅勤務時のぼくの生活リズムである。

 朝7時、起きる。
 起床とともに、とりあえず電動ポットから注いだ白湯を飲む。スマホチェックもネットサーフィンもしなくなったので、ギターを弾くか、読みかけの本を読む。 
 朝9時、始業時間。
 電動ポットを利用して紅茶を淹れ、パソコンを開き通信を設定して、メールチェックしたりその日のスケジュールを確認したり、夜間に何か問題が起きていないか等を調査する。毎朝のミーティングがあるので、ここで初めて声を出す。仕事をしながら、タイミング毎に電動ポットから注いだ白湯を飲む。
 正午。
 昼休憩なので、基パンを食べながら電動ポットによりて紅茶をたしなむ。このとき、砂糖や牛乳を混ぜて甘みを足す。最近はちゃんと1時間休憩をするようにしているので、本を読んだり、ギターを弾いたり、ピアノを弾いたりする。
 午後1時。
 午後の仕事をしながら、電動ポット氏の恩恵を受けて白湯をアホみたいに飲む。仕事の隙に炊飯器をセットする。無洗米で1合炊くだけなので、ものの1分で済む。
 午後6時から8時、就業。
 野菜炒め的なおかずを作って、炊飯器が炊いた米を椀に盛り、液体味噌と乾燥味噌汁の具を器に入れて、電動ポットさんからお湯を恵んでもらい、あたたかい味噌汁を飲む。この時に水出し黒豆茶的なものを飲む。泣けるほどうまい。〝人生〟という感じがする。
 食後。
 半身浴をしながら、風呂場で本を読む。最近は資格取得に向けた技術書を読んでいる。30分ほど半身浴をすると頭や上半身に汗をかくのが視覚的にも体感的にもわかる。だらだらと汗をかいたら風呂から上がり、顔、髪、身体を洗う。一人暮らしで毎日湯船の湯を入れ替える生活をしているため、身体を洗う前に湯船に入っても許されるのである。
 風呂後。
 髪を乾かしながらぼんやりと電動ポット様のお力添えで白湯を飲む。この時、本を読んだり、楽器を嗜んだり、音楽を聴いたりする。
 午後23時頃、就寝。
 最後に愛する電動ポット様にお水をしておき、水出し黒豆茶的なものの翌日分をスタンバイして、スマートフォンでアラームの確認だけし、それ以外は何も見ずに寝る。

 酒浸りが酷い時期があったため……というわけでもないのだけれど、内臓、主に肝臓をいたわる方向に人生がシフトしているように思う。
 というか正確なところを突けば、単に味のついた飲み物や、冷たい飲み物が肌に合わなくなってきたのだろう。肌というよりは、内臓か。お湯を飲んでいた方が、生活の後続に響かないとでもいうか。例えば朝からカツカレーとかを食べると満腹で眠くなってしまうが、お湯を飲んでる分にはプラマイゼロ、という感じがする。カフェインレスを目指しているわけではないので紅茶は飲むが、紅茶も飲み過ぎると「オウェ!!」という感じになるため、お湯の方が幾分いくぶんかマシである。


半身浴様

 こちらも内臓をいたわっているわけではないのだが、最近はもっぱら半身浴である。
 これは単に面白くて続けている。上半身を濡らさない状態で風呂に入り、30分くらいぼーっとしていると、驚くくらい汗をかく。この「肌から水が出てくる!」という感覚が面白くてやっている。が、暇なので、この時に本を読んでいる。
 今日のヘッダ画像は最近読んだ文庫本だが、10冊くらい読んでいるか。他にも技術書とか、ハードカバーの本とか、読みかけの本とか、雑誌とか読んでいるのだけれども、わかりやすく文庫本で10冊くらい。20日くらいで読んでいるので、2日に1冊くらい文庫本を読んでいることになる。それもこれも、日々の通勤時間と半身浴のおかげと言える。
 ネットニュースくらい見ないと時代に置いて行かれるかもしれない、という気持ちがあって、SNSのトレンド等は基本的に目を通していたのだけれど、最近はもうあまり興味がなくなってきた。ぼくは別に、インフルエンサーたちが何かしていようと興味はないし、SNS上である事柄に対する不平不満が爆発していても、興味がないらしい。小説は時を止めたままそこにあって、それで完結している。そちらを読んでいた方が、単純に楽しいのだと思う。

 自炊というにはお粗末そまつだが、最近夕飯をそれなりに作って、しっかり食べている。これも楽しいからやっている。野菜を切って、肉を焼いて、味付けをして……という過程を踏んで、美味しいご飯が自宅で食べられるということが楽しい。ものの10分程度で終わってしまう食事だが、ちゃんと布を敷いて、器を配置して、飲み物を用意して、ご飯を食べるぞ、ということに向き合うのが楽しいのだろう。
 丁寧な生活がしたいわけではなく、心底楽しくてやっている。多分、今までの人生があまりに酷かった反動で、規則正しくて丁寧っぽく見える生活が楽しいのだろう。少なくとも、SNSで見たくないものを見てストレスを溜めて何か苦言をていさずにはいられなくなるような精神状態よりは、よほど健康的と言える。

 半身浴で思い出したが、最近「垢の掃除機あかポロミトン」とかいうものを買った。手にはめて使うミトン状のもので、垢が取れやすくなるというものだ。こーーーれが使ってみたらとんでもない。こんび太郎でも生まれるんじゃないかというほど垢がよく取れる。今までの軽石や、垢擦り用のタオルはなんだったのかというくらい垢が取れる。
「俺、このまま垢を擦り続けたら、なくなるんじゃないか!?」
 という恐怖を覚えるくらい垢が取れる。びっくりする。めちゃくちゃ面白い。俺は何層の垢で構成されていたんだ、と疑念を覚えるくらい取れる。電動ポット様が今年のベストバイだとすれば、その次に来るのが「垢の掃除機あかポロミトン」である。
 決して、決して不潔だったわけではないと思うのだが……。
 風呂は好きなので、長風呂出来ない日もシャワーは浴びていたのだが……。
 やはり、メンテナンスにはそれなりに適した道具を使わないといけないんだろうな、ということを痛感した限りだ。


心のメンテナンス

 体のメンテナンスを行うと、必然的に心の方にも照準を合わせたくなる。
 上記したように最近はとんとインターネットを見ていない。仕事の都合で検索をしたり、配信された音楽や映画にアクセスするためには利用するが、ぼんやりと何かを見るということはなくなった。そうなると、不思議なもので、鬱っぽくなったりすることも少ない。
 つまりぼくがよく感じていた鬱っぽい状態というのは、輝かしい何かを目にしてしまうが故に発生する、自己発生的なものなんだろうと感じる。大体、社会生活の中で人と出会ったり、街を歩いていてすれ違う人たちを見ても、「輝かしい人たち」はいる。自分より優れていて、自分よりも幸福そうな人類がたくさんいる。一方で、まあぼくの住んでいる町がかなり荒れているせいもあるが、自分より劣っていて、自分よりも不幸そうな人類もたくさんいる。
 これを両方見る、というバランスが丁度いいはずなのに、インターネットを見すぎることで、「自分が不幸である」「自分は劣っている」にシフトしてしまうのかもしれない。インターネットでは、基本的に成功者が目に入る。しかし、現実はそうではなくて、大体自分がその中心くらいにいるような雰囲気になっている。

 これは別に宗教的な教義とか「幸せの考え方とは?」みたいな話ではない。
 要は、自分という人間が生きている「社会」というのは、そういう連中が集まる場所なのだ。例えば会社がそう。自分が入れるような会社には、東京大学を首席で卒業したみたいな人材は来ない。絶対に来ない。だけど、インターネットではそれを身近に感じてしまう。だから自分が劣っているように日々感じてしまう。
 自分が住んでいる土地の、自分が暮らしている街の、自分が働いている職場の、自分が通っている店の——そういう場所には、ちゃんと自分と似たようなライフワークバランスの人間がいて、それらを交互に見て、「あの人は自分より幸福そうだなあ、あの人は自分より不幸そうだなあ」みたいなことを、ちゃんと感じられる。
 実際にはその審美眼しんびがんくもっていて、自分が最底辺なのかもしれない。でも、自分の目にそういう風に映るだけで十分というか、そういうもんなのだなぁ、くらいで感じられるくらいが、今のぼくには丁度いい。
 一流のプレイヤー、大金持ち、超人気者、そういう人たちのコンテンツばかり見ていると、どうしても現状に不満を感じてしまうし、そんな自分の行為に不信感を覚えてしまう。
「自分が活動している間に、他の人はもっと多くの活動をしているのだろう」
 みたいな、真偽も定かではない疑念に襲われかねない。
 そんなことをしても無意味だし、足を取られるくらいだったら、壁に向かって「自分は有益な人生を送っているのだ」と呟いていた方が、いくらかマシなんじゃないかと、最近は思う。 

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