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8月28日

 完全に生活リズムがぶっ壊れていたので、朝の6時頃まで作業をして、就寝。12時くらいに起床。とりあえず朝ご飯ということでフルーツとヨーグルトを食べた。今日は立ったまま台所で皿も使わずに食べるという愚行はせず、ちゃんと皿に盛ったりした。休日の余裕である。

 朝ご飯兼お昼を食べた後、漫然と打鍵。今日はHAPPY PEOPLEの更新日だったので、その更新分を書いた。実兄から写真が送られて来たのが土曜日だったので、何を書くかを考える間もなくとりあえずテキストエディタを開いてその場でガーッと書いた。夏休み帰省中、兄と一緒に買いに行った『学生』のミニチュアが初めて使用されている。今まで使っていたミニチュアと比べてスケールが違うので解像度が低いのだけれど、荒い分想像力を掻き立てられる造形となっているように思う。今回は時間がなかったというのもあり、Happleにしては珍しく、僕の手癖っぽい文章になった気がする(元々はこういう掛け合いとか、特徴的なキャラクターを書くのが得意だ)。

 1時間くらい打鍵をして、14時くらいに外出の準備。外出の準備と言っても着替えたり歯を磨いたりするだけだが、ちゃっちゃと済ませて家を出て電車に乗った。本日は知人の個展に行く予定があったので、その開催地である江ノ島くんだりまで移動した。「夏の江ノ島に行く」という想像だけで猛暑を覚悟していたのだが、今日は比較的涼しく、過ごしやすい天候だった。最寄り駅から一度横浜へ移動し、東海道線で横浜から藤沢へ向かい、江ノ電に乗車。僕の住んでいる町からだと、大体50分くらいで江ノ島に辿り着ける(接続が良ければ多分もっと早い)。

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 あまり関係のない話だが、僕は江ノ島という土地に若干のシンパシーを感じている。まあ、創作物の題材として扱われることが多いからというのがあるけれども、学生時代からめちゃくちゃ聴いている『ASIAN KUNG-FU GENERATION』というバンドの『サーフブンガクカマクラ』というアルバムが好きなので、江ノ電の駅名を大体知っている。なので、江ノ電に乗って降車駅の一覧を見ているだけでもなんだかテンションが上がるのだ。僕の住んでいる町から江ノ島に行こうとした場合、恐らく「大船」という駅で「湘南モノレール」に乗った方が効率が良いのだけれど、なんとなく「江ノ電」を選択してしまうのはこのせいだろう。あと、元奥様が江ノ島に縁のある人だったので、一緒に何度か行ったこともある。他にも色々、江ノ島に対しては感慨深いものがあるので、結構好きな土地だ。僕は夏に海で裸になって泳ぐタイプの人間ではないが、山育ちということもあってか、江ノ島という場所を特別視しているのだろうと思う。

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 江ノ島駅から徒歩2分の場所にあるギャラリーで、個展は行われていた。
 個展の主催者は知人というか正しく言えば高校の同級生なのだが、ご存じの通り僕はほとんど高校に行かずにバイトをしたり小説を読んだり小説を書いたりギターを弾いたりゲーセンに通っていたりしていたので、『高校の同級生』という括りにあんまりこう……力を感じていない。実際、高校生活3年間のうち、出席日数とか単位的な考え方をした場合、僕は1年半くらいしか学校に行っていなかったし、会話したことのないクラスメートの方が多いんじゃないかというくらい、他人に対して消極的である(よく卒業出来たな)。
 そんな僕なので、『高校の同級生が個展を開く』とか『知人が個展をしている』程度でわざわざ貴重な休日を潰してそれを観に行くような性格ではないのは皆さんご存じの通りだ。親戚や世話になった人が個展を開催したとしても、好きでなければ絶対に言い訳しまくってサボる自信がある。一回くらいは行くかもしれないが、リピートすることはまずない。だからこう、「高校の同級生の個展に行きました」という言葉が持つ上っ面な感覚が非常に不快なため、毎度どう表現すべきか非常に苦しんでいる。そんな覚悟で行ってねえよ! というか。「福岡さんって意外とそういう社交性あるんすねー」とか思われるのが嫌で仕方ない。違うんだよ! 俺はそういう優しい人じゃないの! 社交辞令とか大っ嫌いなの!

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 例えば友人が何かイベントを開催するとしても、以下のようになるはずだ。
「今度、○○やるから、来てよ」
「あー、行けたら行く」
「いや、マジで来てよ。本当、楽しみにしてるから」
「あー……うん、行けたら行く」
「本当に来いよ!? 何日の何時に来る!?」
「あー……いや、ごめん、行かないわ。自分の人生に忙しいんだ俺は」
 マジでこうなる。
 ご存じの通り、こういう性格をしている。いい性格してんなこいつ。だから友達いないんじゃないの?
 なのでまあ、件の画家は関係性としては知人とか同級生なのだけれど、そもそも単純に「ファン」であるのだ。ということはつまり、「推し作家の個展にお邪魔させていただいた」が表現として正しいかもしれない。好きで観に行ってるのである。いやわかった。もう知人じゃないことにしよう。同級生でもない。ただ好きな画家の絵を見に行っただけだ。俺には知人なんていないし同級生もいない。そもそも俺に交友関係なんてない。全員敵だ。覚悟しろ。ぶっ飛ばしてやるよ。

 個展の内容はこんな感じ。江ノ島駅の改札を出て細い道をずっと進むと、本島と江ノ島を繋ぐ道に出るのだが、その道中に割とオープンな感じで開催されている。出入り口は常時開放されているので、重苦しい感じではなく、ふらっと寄って行けそうな感じ。実際、建物の前から会場内をチラ見している通行人が大勢いた。
 個展には何故か画家の好意で缶ビールが常備してあったので、遠慮なくいただくことにして、缶ビール片手に絵を鑑賞していた。ご存じの通り僕はあんまり酒を飲まなくなったのだけれど、別に酒が嫌いになったわけではないので、機会があればガンガン飲む。深酒と一人酒をしなくなっただけで、酒自体は好きだし、酔うのも好きである。
 展示されている絵はどれも「あー、いいですねぇ」という感じで、楽しみながらぼんやりと絵を見つめていた。僕は芸術に詳しくない人間なのでアレだが、祖父が趣味で油絵を描いていたり、叔父(今は兄も)がカメラマンをしていたり、父もそういう芸術畑のものが好きだったりするので、割とこう「絵や写真」が当たり前に飾られている環境で育っている。あんまり日記として書いたことはないが、散歩がてらに美術館にふらっと行って鑑賞する、みたいなこともちょくちょくしている。絵には面倒な人間関係もないし、社交辞令も必要ないし、一方的に見続けていても何も言われない。僕は静かな男なので(本当か?)、出来れば美しいものをただじっと眺めて一方的に時間を消費していたいタイプなのだ。
 そんな僕なので、今回も「あー、いいですねぇ」と思いながら絵を眺めていたのだけれど、その中にまた「なんかよくわからんけどグッとくる」絵を発見した。過去を遡ると、2019年末くらいに初めてこの現象が起きており、僕は初めて額入りの絵を買っている。今年の頭にも同じ現象が起きて、絵を買っている。で、今回で3度目になるわけだが、なんかよくわからんけど欲しくなった。「なんかよくわからんけどグッときた」ので、もう仕方ないのだ。どうすることも出来ない。僕は欲しくなったら一直線の熱い男なのだ(本当か?)。
 絵を気に入った理由は本当に「よくわからん」としか言い様がないのだが、まあ僕の恋愛観とか好きになる理由とかって大抵が「よくわからん」なので、推して知るべしという感じである。「よくわからんけど好き」というか「よくわからんから好き」なのだろう。だからと言って、「理解出来ない」ものが好きなわけではない。ナルシスト的発言をすれば、「これは俺の周りにあるべき」というセンサーが働く感じというか。ギターとか、靴とか小物とかは大体そういう基準で選ばれる。「よくわかんねえけどこれは俺の周りにあった方がいい」という身勝手なセンサーが働くのである。まあこれは、ギターを買う時の心境に似ているかもしれない。「これを逃したらこいつは一生俺の手元には来ないかも」という危機感が芽生えるのだ。それを金で解決出来るなら、ええいままよ! という感じで、買うしかない。なので、買うことにした。

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 上記のような書き方をすると、個展に行って気に入った絵を見てすぐに「おっ、これいいね、買います」となった風に思われるかもしれないが、実際は全然そんなことはない。
 個展は18時までの開催だったのだが、僕は16時頃に一度会場を離脱して、江ノ島周辺の海岸を散策していた。お散歩好きなので、ただひたすらに歩くというものである。歩きながら作りかけの曲を聴きつつ、「本当にあの絵が欲しいのか?」みたいな自問自答をしていた。「俺は、あの場所に飾ってある絵の中で、一番良いと思ったものを欲しがっているに過ぎないのではないか?」「だったら何か問題があるのか?」「絵を買う理由ってなんだ? 買わなければいけないのか?」「地球上にある全ての絵の中で一番良いと思えるほど惹かれているのか?」「冷静になれ、お前は酒を飲んでいるぞ」「いやでも、限られた人間関係の中でだって真実の愛は生まれるでしょ?」とか考えていた。もっと言えば、「この短い人生の中で、狭苦しい世界の中で、偶然出会って、偶然仲良くなって、偶然歳が近くて、偶然お互いに好意を持てる存在がいるなら、それはもう運命と言ったって過言ではないだろ」とか、「そもそも出会った瞬間がピークな運命なんて運命じゃないだろ。出会って、歴史が出来て、時間が積み重なって、俺たちは少しずつ、自分の人生の中に運命を生み出していくんじゃないのか?」みたいな恋愛観にまで発展していた。酔っているので許されたいところだが、海を眺めたりしながらそんなことを考えて、「俺は本当にあの絵を買うのか」ということを悶々と自分に問い掛け続けていた。
 それでも結論は出ず、17時半過ぎにもう一度会場に戻り、気に入った絵をじっと見つめていた。「お前は俺が買うよりも、芸術に理解のある人の元に嫁いで行った方が幸せなんじゃないか」とか「これ以上俺に訴えかけてくるな」とか「でも二度と会えないのは切なすぎるよな」とか、そういうことをぼーっと考えながら見つめていたのだが、個展が終わる18時になっても結論が出なかった。
 結論が出ないということは、諦められないということである。
 つまり、結論が出ないイコール結論が出たということだ。
 会場を閉める準備をしている主催者に「これをもらっていきます」と告げて、逃げるように会場を後にした。何故逃げるのかは自分でもよく分からないが、極度の緊張状態によるものと思われる。「この絵がすごく好きだからこの絵が欲しい」と言う行為は、言わば「自分の心の中にある大切な部分を曝け出す」という、告白に近しい心境であるため、逃げ出したくなるのだろう。33歳になっても10歳くらいの精神状態と言える。

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 逃げるように会場を後にして、再び海岸に戻った。18時はまだ日暮れ前だったので、海岸では人類の営みが繰り広げられていた。女子高生がキャッキャしていたり、若者が酒を食らっていたり、男女が青春トークを繰り広げたりしている。僕はコンビニで缶ビールとつまみを買って段差に腰を下ろし、繰り返す波の飛沫を見ながら、「あの絵は良かったなぁ……」と反芻しつつ、2時間ほど意味もなくぼーっとしていた。

 個展ではちっちゃい缶ビール(250ml缶)を2本ほどいただいていて、海岸では350ml缶を1本飲み、足りなくなったので500ml缶を1本追加で買い、合計で1,350mlの飲酒を行った。飲酒と同様に喫煙の習慣も減ってきているのだが、流石に酔ってくると吸いたくなる。なので最寄りの喫煙所まで歩いて、潮風に揺られながら一服した。勢いこのまま夜が明けるまで座っていようかとも思ったのだが、流石に社会人として帰宅を決意。20時頃に電車に乗り、21時頃に帰宅。そのまま死んだように寝ていた。

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 2時頃に起床して、シャワーを浴びたり卵掛けご飯を食べたりして、これを書いている。月曜日は在宅勤務予定なので、打鍵をしてもまあ多少は眠れるだろうという算段である。
 個展の開催期間中は絵を展示し続ける必要があるので、実際に絵を購入するのは後日となる。その際にまたどんな絵を買ったか紹介しようと思うが、無理矢理言葉にすると「記憶の触媒」みたいな絵だ。僕は絵に描かれている風景を見たことなんてないのに、その絵を触媒として僕が体験した様々な記憶が想起されるような、そんな感じ。
 音楽にも存在しない記憶を呼び起こす触媒みたいなものがあり、僕の中では『ジムノペディ』と『月の光』が特にそれに該当する。『ジムノペディ』も『月の光』も、僕が生まれるおよそ100年前に作曲された曲だが、現代を生きる僕に様々な情景を思い起こさせる。同様に、僕が買おうとしている絵や、現在に至るまでに買った絵、あるいは叔父から買った写真なども「記憶の触媒」としての価値を持っていると言える。
 上記した知人というか同級生というか推し作家というかの人とも会話したのだが、僕は多分「ハッピーな時にはわざわざそういう絵を見ない」人だし、同様に「ハッピーな時にはわざわざジムノペディを聴かない」と思う。文学にしても同様で、めちゃくちゃハッピーな時には芸術の力を借りようとしないタイプっぽい。
 だから多分、僕はそういう観点で、芸術に対して向き合っているのだろうな、と、今になって改めて感じた。「うわーっっ!!! 鬱だ!!!!」という時はTwitterに鬱であることを散々述べるという手段もあるのだけれど、それとは別の解決策として芸術は在り、僕が個人的に書く小説(楽しく書いているものとは別のもの)の大半は、そうしたエッセンスが盛り込まれる傾向にあるのだろうな、と思った日であった。
 なんだか長く書いてしまったのでそろそろ終わりにするが、とても有意義な夏の終わりとなったと思われる。完。

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