宗教と性[メモ]


宗教と性について、「『思想の身体 性の巻』第四章 宗教と性(岡野治子)」および論文「『宗教と性的二元性』(大越愛子)」についてまとめた。以下内容は互いに交差している。

 

有限性という問題
 人間という有性の種は交配という再生産の方法を用いて遺伝子を受け継いでいる。それはつまり、個体においては生と死が宿命づけられていることを意味する。これまで肉体の生と死の間に横たわる有限性に支配された諸問題を克服せんとする人間は宗教を発展させてきた。宗教は生と死によって境界線が引かれた様々な有限性に対する実践として開かれてきた。仏教世界では「苦」として、西洋思想では「原罪思想」として人間の有限性に対する問いかけが行われてきた。中でも最も根源的な有限性は性的二元性である。宗教の諸相において男性原理と女性原理は相補的であり対立的なものとして様々な形で刻印されている。
 一方で、近代以降の思想では男性と女性が表彰されることはなく、無性化された抽象的な「人間」の概念が出現した。元来、宗教に内包されていた男性原理や女性原理に基づく様々な儀礼、秘跡、象徴などは非合理なものとして捨象され、非合理的な「信仰」のみが日常的性差を超越した抽象的「人間」の魂の問題として近代の代表的宗教形態が構成されていった。
 しかし、西洋思想における男性視点のみによるモデル化の歴史によって「人間」という抽象概念は男性という一方の性に偏したもので構成されていることがジェンダーという言葉を導入した理論によって明らかにされてきた。つまりこれまでの伝統的な宗教研究自体が一方の性に偏した有限性の観点の中で行われ、しかもその構造の内部にあってはこの構造を自覚しえなかったというさらなる有限性の内側にあったということである。

 

思想史における性差別
 種としての人類が持つ性的二元性という特性は三つの次元で説明することができる。またそれらは様々な宗教形態の中に見出すことができる。一つ目に生物学的次元としての雄/雌範疇があり、生殖器崇拝などの形式で発現している。二つ目に人類学的次元としての父/母範疇である。三つ目は文化的次元としての男/女範疇である。男/女範疇は様々な宗教に普遍的に見られる宇宙的二元性、すなわち男性原理と女性原理として表出している。男性原理はそれぞれの文化の中で法を司るものとして、女性原理は自然と結びつくものとして表象されてきた。他方、文化的次元としての男性原理/女性原理は人類学的次元である父/母範疇を基底として構成されるために、父性原理/母性原理を文化的次元で裏書きしたものである。したがって、法を用いて文化を形成していく男性原理およびその後背にある父性原理は文化的次元に収まり、自然の領域に接続された女性原理およびその後背にある母性原理は生物学的次元に収まるという非対称性な構図が生み出されるのである。そして女=母は自然あるいは肉体と結びつき、男=父は文化あるいは精神と結びついた。あらゆる思想体系は男性の所有物となっていたのである。歴史上男性が言語を用いて哲学を発展させてきた一方で、女性は神秘家というカテゴリーにとどまった表現手法しか持ち得なかったということがその証左である。
 西洋思想においては、アリストテレスが「雌は雄の出来損ない」と言い放ち、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フロイトなど様々な思想家たちが性的二元性に優劣の概念を持ち込んできた。そしてこのように男性によって定義された女性性はキリスト教文化に定着していき、無知で精神を欠き、非合理的でおしゃべりでヒステリーな女性性は構築されていった。東洋の仏教や儒教の世界観においても「女は三界に家なし」というような女性差別は顕在化している。女性は不浄で性に放縦で官能的な快楽に溺れ、男性の精神を堕落へと誘惑し、精神を穢す存在へと再定義されている。


 
 ジェンダーという視点
 「セックス」という言葉と対比して「ジェンダー」という言葉が生み出され、それが含意するのは性が社会的・文化的構成物であるということだ。つまり性とは、歴史、社会、文化に強く規定された自己認識を刻印されたものである。ジェンダー論の視点は本質主義的に統一の概念を追求する伝統的科学・哲学から脱却することに根ざしている。すると、とりわけ個人の特殊性、性同一性が考察されるようになる。こうした社会分析の結果、女性や男性の思惟や行動のあり方は生物学的性差のせいであらかじめ決定されているわけではないということを示した。
 では、なぜこのように相対化されるような生物学的性差はジェンダー役割を正当化するために引用され、説得力を持つに至ったのだろうか。近代思想と科学技術の進展の中で、種々のメタファーが生み出されていく。例えば「自然」は「女性性」を介して「家庭」と結び付いた。生物学はその科学的権威を持って「セックス」を自然の摂理の中にある合理的なものとして捉えてきた。問題は科学による知識の集積はイデオロギーを反映することである。科学によって読み込まれてきた象徴的意味を問い直すうねりの中で生物学がジェンダーのメタファーになりえたのと呼応してジェンダーも生物学のメタファーになりうることができたのである。
 メタファーとして「自然」が「家庭」と結びついたように、思想文化や科学は様々なものを抽象化して分類を重ねることで統一性を指向する。それは同時に特殊性を捨象することでもある。したがって、思想文化や科学によって単純化された二項対立は統一性を指向する原理に従って水平的に配置されていた対立項を垂直的包摂関係に再配置されることになる。

 

宗教史
 深層心理学において、各自が父/母になる道程について、男性においては出生時の自然的状態から文化的自己確立という段階を辿るが、女性においては自然的状態から文化的自己確立を経て、再び生命を生み出す自然的存在へと帰還していくという段階を辿るという非対称性がある。この非対称性こそが有限性であり、宗教的営為の実践においてはその自覚と自閉性の打開が志向されるのである。
有限性に立ち向かう男性の宗教性の問題は、内なる女性性を発達させねばならないことである。自然の支配から来る罪悪感を抱きつつも自らの中に自然に帰還する契機を持ち得ないという絶望感に直面した時、二つの解決策が取られる。一つは反自然的な父なる神に帰依していく方策、もう一つは自己の中の女性性を開発しつつ全体的人間を目指す方策である。他方、有限性に立ち向かう女性の宗教性の問題は、内なる男性性を発達させねばならないことである。自然から脱して個としての自覚の獲得を経由して新しき創造性を自ら創造する契機に立つとき、それに応えるだけの十分な創造性を持ち得ないという苦しみに直面する。
 この時に取られる二つの解決策は、女性が自然的存在を反復する中に価値を認める母神宗教に帰依する方策と、内なる男性性を開発させて創造力を高める方策である。
 これを踏まえて性的二元性に基づいて個別の宗教史を辿っていく。

母神宗教
 母神宗教とは古代オリエントからギリシアにかけて広まっていた母神崇拝、地母神崇拝、農耕大女神崇拝、生殖器崇拝の総称で、繁殖や豊穣を司る蛇や鳥や卵や植物のモチーフとともに表される女神像でイメージされる母的な力に対する最古の信仰である。万物を産み育む能力と、再び自分の胎内に呑み込む力への畏怖は肯定的な愛と否定的な魔として二面性として表れる。生を司る豊穣の女神と死を司る大地の神という二面性を包摂した概念は後に「混沌」とみなされるようになる。原理的に男神も許容する多神教の形態は性的二元性を超克する道を人格の全体的発達、すなわち男性性、女性性の双方を発達させた両性具有として示した。

ユダヤ教(父権的一神教)
 紀元前2000〜3000年頃、生殖のパートナーと結びつき、両性の意識的行為が創造の行為とみなされるような新しい概念が登場した。そして両性は分化していった。唯一神の「語る神」としての権威的特性は、名前と意味によって「ことば」による反自然的で分化的な性格を持つ世界創造を可能とした。このことは文字の発明が寄与している。「名付ける」という行為によって様々な象徴がメタファーとして女性性・男性性に振り分けられた。象徴言語として「女」という様々な要素の複合体に実体としての象徴が当てはめられていくと、女性の劣位が論理的に根拠を持つようになった。父権一神教は両性の分離を徹底し、父=文化=知的優位、母=自然=身体の劣位という二元論を構築したのである。しかしこの二元論自体が父権的文化の内部で規定された人為的なものである。
 聖書の堕罪の挿話では、エヴァは女性的知恵を表す蛇の助賛を得て神のタブーのことばに挑戦した。しかし太母的自然的女性は去勢され、自らの裸体を恥じ入る文化的存在へと取り込まれていく。生命を産み育む力が女性の苦しみの根源であり劣位のしるしとして刻印されていく。
 さらに、父権一神教では母子関係と父子関係を厳格化することで位階的秩序の確立と強化を行う。無防備な子に対する母という自然停滞的・近親相姦的な関係に対する近親相姦のタブーを厳格に行使することで、その関係の中から除外されていた父の元に子を戻させる。また、契約的な父子関係は外部に自由に開かれているために、子は父の命に従うという厳格な法を徹底する。自然に対する人間の優位を示す父性と言語と知的能力の三つの力が一神教の、全知全能の父なる神の言語による世界支配という形象において結合したのである。
 ヤハウェ=強い支配者=「父」というイメージは家父長的構造の社会においては人々の人格形成に寄与してきた。権威に庇護される安心感は神に忠誠たる国家を形成した。しかし、原初のヤハウェは本来父性と母性を内包していたものである。民族として強化される中で家父長制も強化していく中で父性が全面に押し出され、母性が後景していった。

キリスト教
 ユダヤ教から派生したキリスト教には二つの道が開かれていた。ユダヤ教が排除した自然、あるいは女性的なものを回復していく道と全く新しい性的二元性の道である。イエス自身は愛による自己超克を遂げた女性との新しい関係の可能性を示したが、イエスの死後、キリスト教は自らの新しい発展の契機を見出せず、イエスの死を理論化した男性の宗教者の前に敗退していった。「キリスト教」として女性的なるものとの宥和は、イエスに現れた新しい方向性においてではなく、聖母マリア崇敬として外面的な形で再生された。つまり神の女性性が分離して聖母マリアの中に徐々に投影されていった。男性性は能動的な神キリストとして、女性性は肯定的な要素のみが抽出され、受動的な聖母マリアとして概念化されていった。反対にエヴァの末裔である現身の女性は罪深い者であるという烙印との葛藤を余儀なくされた。また、男性であるイエスのイメージによって父権的に構築される教会組織のヒエラルキーも顕在化した。こうして神学者や聖職者のキリスト教は女性を排除した父と子と聖霊の三位一体に基づく父権宗教へ、民衆の中のキリスト教は人々の生活に根付いていた母神宗教と結びついた聖母崇拝へと分裂していった。処女性が理想化され、性的自由を抑制された聖母マリアは、破壊的力を発揮した太古の地母神とは異なり、安定した母性を保持することにより、文明化した社会共同体にとってうってつけのヒロイン像となったのである。理想化された女性性は処女か母かという二者択一の存在に封じ込められ、その外部は「魔女」として排除される存在になるしかなかった。このような形で理想的な女性性を封じ込めていく中で、家父長制は現実の女性を公的な世界から排除し、家庭に押し込めていった。
 さらにシンボリズムの問題として、神の似像たる人間(男)、人間(男)の似姿たる女という序列が形成された。他方では婚姻のシンボリズムでは、主従関係を基盤とした神と民、キリストとマリア、アダムとエヴァが表彰され、家父長制は強化されていった。

仏教
 生への執着をいかに克服するかを志向する仏教において、生命は苦の象徴的なものとして考えられた。つまり生命を宿すものは苦の根源と見做されたのである。したがって女性のセクシュアリティは禁欲主義の中で忌み嫌われ、そして男性には女性のセクシュアリティの虜にならないことが戒められている。セクシュアリティの悪魔性は専ら女性に投影され、子宮の不浄観や女人禁制の概念が広まった。また、解脱した存在は「仏」として男性的なメタファーとして表象され、完全な価値を有する人格としての菩薩は女性のメタファーとして表象された。つまり女性の人格には貞淑な菩薩像が投影されているのである。