TATOO CULTURE 第1章 1/2 (要約)

Chapter 1
From otzi to Trash Polka

Reading tattoo

   この数十年の間に、タトゥーに対する態度は変容し、今や奇怪なものではない。西洋世界では間違いなく前例のないほどに社会的普遍性や文化的な可視性を獲得している。都市空間にはタトゥースタジオやTV番組は明らかに増加しているし、日常的に有名なハリウッドスターのタトゥーを目にする。Amy Bleuel のような‘Project Semicolon’はタトゥーの文化的意義を現代社会に投影させる試みも存在する。

 しかし、タトゥーの文化的地位は常にこのようであったわけではない。タトゥーの社会的及び文化的歴史は、コミュニティや個人のステータスの象徴的表現、自称行為の表現、逸脱者や犯罪者の外見的記号、個性的なシンボル、現代芸術という道筋を辿って発展してきた。

   1950年代のタトゥー文化を評したHugh Garnerは「タトゥーほど愚かなものはない。マオリ族やヒンディー族の間では今でもカーストと美のしるしであるが、ほとんどの西洋人の間ではせいぜい若気の至りであり、悪ければ恥と嫌悪の対照である。」と結論づけていた。

Samuel Stewardは、確かにこれは古典的な反応であり、メディアはタトゥーの取得と犯罪行為や「廃人」行為との関係を強調してきたと論じている。彼の分析では、確かにギャングのデザインや反権力的な象徴のデザインは彼のスタジオで共通する要素であった。

   しかし、タトゥーを入れる動機は、ポピュラーカルチャーで登場するタトゥーをした人物を真似たり、美的感覚を強調したりする顧客がいるように、無数の意思決定が背後にあることを見ていた。後の心理学的研究においても、タトゥーの主な動機付けとして「感覚の追求」や美学的意識が指摘されている。特に美学的意識においては、Stewardは彼の施術者がタトゥーが実存的存在のレベルで自己の感覚を変化させる様子を見ている。

   タトゥーを纏うことの多面的な社会の反応は受容や容認、あるいは非難や拒絶の間を揺れ動いてきた。Nikki Sullivanは「少なくとも私たちの文化においては、タトゥーを入れた身体は、様々な反応を誘発する見世物であるが、無関心ではほとんどいられない」と述べており、タトゥー文化のダイナミックな性質を的確に捉えている。タトゥーの身体変工としての歴史は他のものより長く、結果として、タトゥーは人類文化そのものに跨る習慣なのである。

TATTOOING THROUGH THE AGES

   タトゥーは世界的に普遍的な現象であり、Charles TaliaferroとMark Odden(2012)によると古代エジプト、ギリシャ、アフリカ、シベリアからアラスカ、北極圏、ラテンアメリカ、中国、インド、インドネシア、南太平洋、日本、中東に至まで、タトゥーを実践してきた文化は多種多様であるためにタトゥーの発展の歴史を正確に追うことは難しい。石器時代や青銅器時代からタトゥーの施術は行われていた。紀元前2000年ごろのハトホルの巫女のミイラや紀元前3250年ごろのエッツィのミイラが発見されている。エッツィのミイラは、デザインが衣服で見えなくなることを考えると、象徴的機能として個人と社会、自然、精神的な領域との関係を繋ぐために明確かつ意図的に作用する社会的あるいは治療的慣習としての行為だったとされる(Deter-Wolf)。

   Brian Turnerは、身体に関する社会学的な観点から、「前近代的な」身体は、社会的地位、親族のポジション、部族の人間であること、年齢、ジェンダー、宗教などの重要な文化的要素を示す主要な場所であったと主張する。このようなしるしは個人の人生における通過儀礼であった。タトゥーは本質的に宗教的、呪術的なものであるだけでなく、思春期の女性の結婚への見える形での準備のようなライフステージの過程を示すものでもある。Hamblyはマオリの戦士モコのタトゥーは単なる装飾ではなく、武勇や部族における社会的地位を示すものとして特定の意味を有していると論じている。さらに、マオリの顔の模様は死後の世界に導くためのスピリットガイドに認識してもらうものとしても機能を持つ。

   とはいえ、Willowdean Chatterson Handyがマルケサス諸島におけるタトゥーの習慣について立証したように(1922)、タトゥーの有無は必ずしもコミュニティ内で象徴的意味を持つとは限りません。現実的に経済的な余裕がなくタトゥーを入れることができない漁民がいたである。タトゥーの有無は今も昔も経済的な要因がある。

   ヨーロッパ文化に目を移すと、ブリテン諸島に住んでいた古代の部族であるピクト人はローマの侵攻に対抗するために動物のタトゥーをデザインした。しかし、ローマの軍勢に恐怖を植え付けるどころか、コンスタンティヌスが禁止令を出すまではローマ人自身がタトゥーの文化を取り入れていた。初期のイギリス史においては宗教的権威とタトゥーの緊張関係は何百年も続いた。ヨーロッパにおけるタトゥー禁止令は旧約聖書のレビ記に関連し、ユダヤ人が一神教を他の多神教の信仰体系と分離するためであったと論じられる。西暦787年にはキリスト教にインスパイアされたタトゥーと魔術的なタトゥーの違いが教父により発布され、キリスト教の方針転換が図られた。にもかかわらずタトゥーに対するキリスト教の見方は植民地「文明化」計画によって転換する。例えば北米のピューリタンたちはタトゥーと魔女術を関連づけ、旧約聖書の記述を援用してネイティヴアメリカンのタトゥー文化を糾弾していた。しかし、トライバルタトゥーの魅力は根強く残っている。Ellisによると、タヒチでは18世紀の宣教師の影響で法律上禁止されているタトゥーが民族の主権を維持する手段として皮肉にも日曜日の教会で施術され、多くの司祭がタトゥーをしている。皮肉にも、熱心な宣教師をヨーロッパに帰すのとまさに同じ船にタトゥーをした船乗りやタトゥーをした人のイラストやサーカスの見世物として展示されるオセアニア人が乗っていたのである。

   しかし、非キリスト教的な実践を根絶するためにタトゥーが禁止され、タトゥーをすることによる抵抗は大きなリスクを伴うものであった。先住民の身体改造が禁止された結果として、タトゥーは先住民の身体、土地、世界を通して先住民の反抗を示す政治的な自己決定としてコミットされた。さらにはそういったタトゥーのデザインは文化的アイデンティティや文化的価値をあらわす行為へと接続されるものとなっていった。しかし、伝統文化はほとんど廃れていたが、20世紀後半には南太平洋芸術祭が設立され、ヨーロッパの文化や価値観に抑圧されていた伝統文化がリバイバルした。タヒチのタトゥーはヨーロッパ文化によって広範に抑圧されていたが、実際にはより広い世界でタトゥーを普及させる影響を及ぼした。1772年から1775年のキャプテン・クックの二度目の航海以前は西洋ではタトゥーのことを’pricking’と呼んでいたが、南太平洋の言葉で「打つ」や「しるしをつける」を意味する’ta-tu’という言葉として普及した。ある船員はタヒチのアーティストからタトゥーを施されて帰っているし、クックはタトゥーでびっしりのタヒチ人をイングランドに連れて帰っている。そこで彼は上流階級の見世物となり、ヨーロッパでのタトゥーブームを誘引することになった。次の世紀にも続くことになるタトゥーへの欲望は船乗りや軍人の間で最も一般化したが、ロシアのニコライII世やドイツのカイザー・ウィルヘルムなどの多数の貴族階級がタトゥーを纏うことによって一時的に立派な正当性が与えられた。しかし、この一見平等主義的なタトゥーの表現はすぐに廃れ、タトゥーを選択する個人においてある特別な階級を示すようになった。つまり都市の怪しいエリアにいるような低級なクラスである。