おばあちゃん
父方の祖母は生後8ヶ月で他界した母の代わりに、私を見守り、育ててくれた人。
おばあちゃんだけど第2の母みたいな人。
口癖は「人に嫌なことをしちゃだめよ」だった。
おばあちゃんは気が強くハッキリと物を言う。しかし、優しく温かい人だった。
おばあちゃんは申年。
おばあちゃんの次男の嫁も申年。
この二人、本当に似ている。
お互い気が強いが頼りになる。
喧嘩をすればお互い本気だった。
でもサッパリしていて、後を引かない。
私の母の次におばあちゃんが可愛がっていた嫁だ。
おばあちゃんはその叔母の事を
「気が強くてポンポン物言う子だけど、あの子は一番頼りになる」とよく言っていた。
太平洋戦争を経験していたおばあちゃんは、私によく戦時中の話をしてくれた。
「勝って来るぞと勇ましく~誓って国を出たからは~♪」
軍歌もよく歌っていて、自然と私は覚えてしまった。
関東大震災の話も地震の度に話してくれた。
私が小学1年生の12月、祖父が脳溢血で倒れた。
おばあちゃんは、そんな祖父の看病のために病院に泊まり込んでいた。私はとても寂しかった。
祖父は夜中に用を足したくなると、補助ベッドに寝るおばあちゃんにティッシュの箱を投げつけて起こし、尿瓶に用を足す。
神様からの休暇だと、リハビリもせず、おばあちゃんに感謝もせず当たり前のようにこき使う祖父の事が私は大嫌いだった。
おばあちゃんの時代は夫が威張っているのが当たり前だという人もいたが、そんなことはない。思いやりや感謝は時代とは関係なく、個人だと思う。
おばあちゃんとの思い出。
幼稚園の運動会で急遽リレーの選手に選ばれバトンの受け渡しの練習をすることになった私を、目一杯喜び応援してくれた。
古い家だったので、2階の私の寝ている場所に隙間風が入りやしないかと心配して、夜中に階段から落ちて入院した。
朝目が覚めると大人たちがバタバタしていたのを思い出す。
病院のベッドに寝ているおばあちゃんの顔は、青く腫れ上がりコブができていた。
私が6年生くらいだったか、今となっては時効ということで許して欲しいが、時々自転車の後ろに乗せた上げた。
おばあちゃんはとても嬉しそうにしながらも
「重いだろ?もういいよ…ありがとう。ありがとう。」と言ってくれた。
しかし、実際おばあちゃんは小柄で痩せていたのでちっとも重くなかった。
20歳の時に車の免許を取った私は、おばあちゃんを助手席に乗せて買い物に連れて行った。
おばあちゃんは本当に喜んでくれて、買い物でコーヒーゼリーを買ってくれた。
21歳くらいだったか、祖父が他界した。
体調を崩しがちだったおばあちゃんは、祖父の葬儀には行かなかった。おばあちゃんの三男(私の父方の叔父)が様子を見に自宅に戻ると私に一緒にいて欲しいと伝えたらしい。
私はおばあちゃんのおかげで大嫌いな祖父の葬儀に出ないで済んだ。
おばあちゃんのもう一つの口癖は
「結婚するなら次男になさい」だった。
おばあちゃん自信が長男に嫁ぎ苦労したからだろう。
うるさい姑と小姑がいる上に、祖父は怠け者の上に威張りん坊。
明治生まれのおばあちゃんは、若いころ「奉公」していたことがあったらしい。
豊島区の目白辺りの裕福な家だったらしい。
働き者のおばあちゃんは、家の人に可愛がられその家の息子のお嫁さんにとの話があった。
しかし、男5人の中の一人娘だったおばあちゃんを、両親(私にとっての曾祖父母)がそばに置いておきたくて反対されたらしい。
もしもおばあちゃんがその人と結婚していたら、私は出会えなかったけど、おばあちゃんは幸せだったに違いない。
おばあちゃんは、認知症になった。
恐らく、祖父が他界し、私が社会人になり手もかからなくなった。
世話をやく相手もいなくなりやる事がなくなったことも理由の一つなのだろう。
ある日、会社から戻りおばあちゃんの部屋に顔を出すと、慌てるおばあちゃんとすごい異臭がした。
便を漏らしてしまったのだった。
私が幼稚園に入園する時に、おばあちゃんが大変だからと、父が再婚しているのだが、そのママ母がお漏らしをしてしまったおばあちゃんを罵った。
ママ母はとても意地の悪い人だった。
家にあるお風呂さえ使わせなかった。
おばあちゃんは老人福祉センターのお風呂や、銭湯に行っていた。
しかし、今回ばかりはお風呂に入れて上げないとかわいそう過ぎるので、私が強引にママ母を払いのけ、入浴させた。
おばあちゃんはそんな自分の粗相が悲しかったのと、申し訳なかったのとで
「私どうしちゃったのだろう…ごめんね、ごめんね」と私に誤っていた。
その日から認知症はどんどん進行し、悪化していった。
買い物に出掛ければ、帰路と真逆に歩いてしまう。
足腰の強かったおばあちゃんは、どこまでも歩いて行ってしまい、警察に保護されパトカーで帰って来ることもあった。
お財布をしまい忘れ、盗まれたと騒ぐこともあった。
お漏らしも日常になってしまい、部屋はおしっこ臭くなってしまった。
湯を沸かそうとプラスチックのボウルに水を入れ、火にかけてしまい溶かしてしまったこともあった。
幸い私が直ぐに気付き大事には至らなかった。
しかし段々手に負えなくなって来たおばあちゃんは、病院に入院することになった。
お見舞いに行ったら、おばあちゃんはの手足は拘束されていた。
看護師さんの話では暴れてしまうらしい。
手首は青くあざになっていた。
そんなおばあちゃんを見るのは辛かったが、私が面倒を見る勇気もなかった。
段々と見舞いに行く回数も減り、毎月の支払いの時に父からお金を預かり支払いの時だけ病院に行っていた。
それでも私が行くと喜んでくれた。
おばあちゃんの娘たちが見舞っても認識できなかったが、私のことだけは認識してくれていた。
それから数か月後、とうとう私の事も認識できなくなった。
伯母たちは「あなたのことがわからないんじゃ、もうダメね…」と言っていた。
私が24歳のある日、父からおばあちゃんが危篤だと電話が来た。
すでに嫁いでいた私は車を飛ばして、おばあちゃんの病院に向かった。
途中、強引な割込みをして相手の車に急ブレーキをかけさせてしまった。
本来ならば降りて詫びるのが当たり前の行動だが、私は運転をやめなかった。
相手は怒り、すごいスピードで追いかけて来た。
当たり前だ。
私は車を止めた。
運転手が私の車にやって来た。
私は大泣きしていた。
「どうした?」「何を急いでいるんだ」と聞かれ、
「祖母が危篤で…病院に向かっていました。」
運転手は許してくれて、気を付けて行くように声をかけてくれた。
病院に着いたら、叔父や伯母たちが皆集まっていた。
私が最後だった。
危篤だったおばあちゃんは、私が着くと持ち直してくれた。
しかし、医師はもう長くはないと父に話した。
それから数日後、おばあちゃんはあちらの世界へ旅立った。
私の母とおばあちゃんはとても仲の良い嫁姑だった。
おそらくあちらの世界でも楽しくやっているだろう。
ただ面倒くさいことに、あちらの世界には一足先にママ母が逝っている。
本妻と後妻だけでも揉めるだろうに、そこに本妻の味方の姑までが1つ墓の中で顔を合わせている。
想像するだけでも、関わりたくない。
いや、待てよ。
私もそこに加わったら?
私をさんざん虐めてくれたママ母の泣き面が見れるのか?
だとしたら面白い。
おばあちゃんは私が結婚するまでは死ねないと、子供の頃から言っていた。
本当に私が結婚したら逝っちゃったね。
私を孫ではなく、末娘のように可愛がってくれたおばあちゃん。
大好きだよ。
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