見出し画像

病気の子 と 健康な子  PART 2


「絶対に産むからね、誰にも私の人生に口出しさせないから!」
それが、私の心の叫びでした。

娘が退院するまで、いや退院した後も私は娘につきっきりの
生活を送ってきました。
たった数時間の免許の更新すら、誰も付き添いを代わってはくれず
車の免許は流すしかありませんでした。
骨髄移植をするか否かの決断も、私が一人で決めてきました。
相談しても「自分の子どもなんだから、私達は分からない」
そう突き放されました。
夫は「君が決めていいよ、ずっと一緒にいたのは君だから」
そう言って優しいのか、責任逃れなのか分からない反応でした。
そんなつもり積もった不満が、一気に爆発したかのように
激しい怒りが私を頑なにさせていきました。

報告した自分が馬鹿だった。
私は「おめでとう」そう言って欲しかっただけ。
娘が病気だったら、次の妊娠は「おめでとう」ではなく
「それで、どうするつもりなの?」と言われるんだね。
お腹の命は、喜ばれない存在になったような気がしました。

妊娠したことに後悔は、ありませんでした。
幸い、この命は私の体の一部になっているから
簡単に奪うことなど誰もできません。
どう言われようと、全ては私の手の中にあるのです。

移植後の経過は順調でした。
幼稚園に通い始め、習い事を始め
病院生活では味わえなかったことを
時間と体力が許す限り楽しんでいました。

ある日、娘は左股関節の痛みを訴えました。
すぐに私は再発を疑い、不安になりました。
娘は数日のうちに、痛みで歩けなくなってしまいました。

病院に行ったら、もう二度と自宅での生活は
送れないかもしれないと思いました。
骨髄移植は娘にとって最後の砦だったからです。

3年間も化学治療を受け続け、さらに骨髄移植を受けた娘の身体は
ボロボロになっていました。
もう、抗がん剤に耐えうる状態ではありませんでした。

このまま自然に治ってほしい。
再発ではありませんように。
祈るような気持ちでいました。
しかし、歩けないだけでなく、熱が出始め
痛みが強くなり、自宅で様子を見るには限界になりました。

病院に連絡を取り、すぐに娘を連れて行きました。
先ずは、外来で採血とレントゲンを撮りました。
その後、病棟に行くよう促された時、身体が凍りつきました。
「やっぱり再発したんだ・・・」と確信した瞬間でした。

病棟へ向かう足取りは重く
気持ちは、沈んでいきました
エレベーターのドアが開くと、そこには
見慣れた景色、知ってる顔が有りました。
二度と会いたくはなかった人達との再会でした。







最後まで読んでくださって、ありがとうございます。またの訪問をお待ちしています : )