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672 福沢諭吉の作ったメディア時事新報社のWikipediaが面白い件。


時事新報

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時事新報社から転送)

時事新報

明治22年2月の紙面

種類日刊紙サイズブランケット判


事業者(慶應義塾出版社→)
合名会社時事新報社→)
(株式会社大阪毎日新聞社→)[注 1]
(株式会社毎日新聞社→)
株式会社時事新報社本社(東京府東京市芝区三田2-2[注 2]→)
(東京市日本橋区通3-11[注 3]→)
(東京市京橋区南鍋町2-12[注 4]→)
(東京市麹町区八重洲町1丁目[注 5]→)
(東京市麹町区有楽町1-2→)
(東京都千代田区有楽町2-2-1[注 6]→)
東京都千代田区大手町1-7-2[注 7][1]代表者飯塚浩彦産経新聞社代表取締役会長)創刊1882年明治15年)3月1日廃刊1955年昭和30年)10月31日
(以後は産経新聞東京本社版に合同)前身民間雑誌
公布日誌言語日本語価格1部 2銭(1887年
月極 50銭(1887年)株式会社時事新報社
本社所在地

日本
100-0004
東京都千代田区大手町1-7-2事業内容(休眠会社)業種情報・通信業資本金7,000万円テンプレートを表示

ウィキソースに本紙發兌之趣旨の原文があります。

時事新報(じじしんぽう)は、かつて存在した日本の日刊新聞である。1882年明治15年)3月1日福澤諭吉の手により創刊された。その後、慶應義塾大学およびその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞の一つである。創刊に当たって「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11年)12月25日に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された[2]

現在も会社組織(株式会社時事新報社)としては存続している(後述参照)。

歴史[編集]

慶應の機関紙として創刊[編集]

当初の福澤諭吉の計画では、政府伊藤博文井上馨の要請を受けて政府系新聞を作る予定だった。しかし、1881年の「明治十四年の政変」により大隈派官僚が失脚してしまったので、その計画は頓挫してしまった。

詳細は「明治十四年の政変#政変の影響」および「東京日日新聞#政府広報紙の役割」を参照

結局、慶應義塾の出版局(現・慶應義塾大学出版会)は、その時、既に記者や印刷機械を準備していた為、慶応独自で新聞を発行することになった。それが『時事新報』である。創刊時の時事新報は、紙面を第5部に分け、日本の新聞で初めて漫画を掲載したり[3]料理レシピを載せるなど、当時の新聞としては非常に画期的な紙面構成であった[4]

国権論を主張[編集]

『時事新報』の論調は、国際情勢に関するものが多かった。福澤諭吉の甥になる初代社長兼主筆の中上川彦次郎は、『時事新報』の社説で国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮に関する論説や中国に関わる様々な形の東洋政略を論じたものが多かった[5][6]。この国権論を水戸藩出身で慶應同窓の高橋義雄・渡辺治・井坂直幹石河幹明が紙面で引き継ぎ、水戸中学(現在の茨城県立水戸第一高等学校)系の松木直己が協力した[7]

条約改正問題や、大阪事件朝鮮問題が起こると、『時事新報』は対外強硬論を紙面で主張した。

1885年(明治18年)1月18日、「上野公園全国有志大運動会」と称する大井憲太郎の一派と聴衆三千人余りが市中行進をし、時事新報社前では同社万歳を連呼し、同紙と反対の論調を唱えた銀座尾張町の朝野新聞本社(後に銀座和光となる)を危く焼き討ちしそうな気配となり、警官の出動でわずかに事なきを得る騒ぎとなった[8]

時事新報は創刊時より「国権皇張」・「不偏不党」を掲げ、平明で経済を重視する紙面が政党臭の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、わずか1,500部余りだった当初の発行部数は2年後には5,000部余りまで増加した[9]

日本一の時事新報[編集]

日清戦争後の1896年(明治29年)、時事新報はロイター通信社と契約を締結。20世紀初頭に契約先が10社に増えるまで、ロイターの外信記事は本紙が独占的に使用していた。

ロイター#ロイター通信社」および「通信社の歴史#世界分割」も参照

明治末期には、新聞業界の代表2人を選ぶ時、時事新報から1人が無条件に出され、もう1人は競合他社の中から抽選で決めるというほどに業界内での地位を高めた[10]。大正中期には「日本一の時事新報」と呼ばれるようになり、東京日日新聞(現:毎日新聞東京本社版)・報知新聞(現:スポーツ報知)・國民新聞(現:東京新聞)・東京朝日新聞(現:朝日新聞東京本社版)と並ぶ“東京五大新聞”の一つとなった。

東京朝日新聞#沿革」も参照

また、1905年(明治38年)には、大阪へ進出している(以下、後述参照)。 1921年(大正10年)のパリ講和会議ワシントン軍縮会議では、伊藤正徳特派員が世界的スクープを獲得し、世間から大きな注目を集めた。

関東大震災による影響[編集]

しかしその後、大正関東地震関東大震災)による被災で、時事新報を始めとした在京紙の業績は悪化し部数も減少。それに取って代わる形で大阪資本を背景とした東京日日新聞(のちの毎日新聞)・東京朝日新聞(のちの朝日新聞)が部数を伸ばし、加えて社会面の充実で伸ばした読売新聞を含めた3紙が大正後期から昭和前期にかけての東京エリアでの新聞シェア上位を占め、時事新報は報知新聞・國民新聞・都新聞などの二番手のグループに甘んじ、『万朝報』以下の小さな諸新聞は部数の競争から脱落していった。

帝人事件の報道[編集]

紙勢の退調を補うために1932年(昭和7年)に鐘淵紡績社長で政界にも影響力を持っていた武藤山治が経営権を取得、武藤自らの発案と企画による「番町会を暴く」を1934年(昭和9年)1月17日から大々的に取り上げた。それは当時、日本にはびこる財界の不正を糾弾する特集記事であり、その刺激的な記事は、各界で大きな反響を呼んだ[11]

やがてそれは「帝人事件」(昭和初期の大疑獄事件)まで引き起こし、それまで赤字に陥っていた時事新報の業績は黒字に転換し部数も大きく伸びた。しかし、武藤が暴漢に射殺されて番町会への追及も中断、帝人事件を通じて検挙された者のほとんどは裁判で無罪となった。結果的に斎藤実内閣を倒す政治陰謀の御先棒を担いだだけの形となり、一時的に持ち直した時事新報の業績も再度不振をかこうことになった。

詳細は「帝人事件#経緯」および「武藤山治 (実業家)#時事新報社入社」を参照

東京日日新聞への合同[編集]

打開策として慶應義塾卒業生で当時大阪毎日新聞社(大毎)政治部長だった、後の毎日新聞社会長高石真五郎に経営支援を仰ぐものの、当時の東日は経営が厳しい時期でもあり高石自身東日の経営に手一杯でこれを固辞する。代わりに高石は、大毎の社外役員で夕刊大阪新聞社(現・産経新聞大阪本社)創業社長の前田久吉を推挙し、1935年(昭和10年)11月から前田が専務となって時事新報の経営に参加することになった。しかし前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質は折り合わず、一時好転していた時事新報の業績は再び悪化へと転じる。このため高石は責任を取る形で1936年(昭和11年)12月25日、時事新報を東日に合同した[注 8]

詳細は「東京日日新聞#在京五大大手の一角へ」および「前田久吉#新聞戦時統合へ」を参照

合同前日には、福澤諭吉の墓前に奉告が行われている[12]。 なお東日は1943年(昭和18年)1月1日、大毎と題字を統一して『毎日新聞』となるが、それまでの約7年間、東日紙面の題字の下に「時事新報合同」の文字があった。

詳細は「東京日日新聞#題字」および「毎日新聞#題字と地紋など」を参照

復刊から産経新聞への合同まで[編集]

1945年(昭和20年)、GHQ占領下で日本新聞連盟などの用紙割当機能が10月26日に停止されたが、改組後の新聞及出版用紙割当委員会が用紙の割当を認可したことから発行に至った。

1946年(昭和21年)1月1日、戦前の時事新報で主筆を務めていた板倉卓造、日本工業新聞改め「産業経済新聞」を率いていた前田らの手により「時事新報」が再び復刊された[13][14][15]。しかし、この復刊直後、戦時中の論陣を理由に前田が公職追放に遭い、時事新報社と産業経済新聞社の経営から一時退くことになってしまった。

復刊当初、新興紙ブームの時流で名門復活と謳われた「時事新報」は業績は堅調だったが、やがて既存紙の巻き返しにより再び業績が低下していった。

前田は追放解除後の1950年(昭和25年)、産業経済新聞の全国紙化を目指して東京に乗り込む。ここで時事新報についても板倉の後任として経営にあたることとなった。こうして時事新報は産経新聞と兄弟関係となり、1955年(昭和30年)産経と合同して『産経時事』(さんけいじじ)と改題した。

詳細は「前田久吉#戦後の『産経新聞』周辺」および「産経新聞東京本社#概要」を参照

その後、「産経時事」は大阪本社版と題字を合わせて現在の『産経新聞』となるが、1969年(昭和44年)に片仮名の題字を導入するまでは「産経新聞」と縦書きされた題字の下に「時事新報合同」の文字があった[16]2022年(令和4年)現在、「時事新報」の題号並びに著作権など一切に関する権利は産経新聞社が保有している。

詳細は「産経新聞#題字と地紋、およびその配置」を参照

大阪時事新報[編集]

時事新報は、1905年(明治38年)3月15日から大阪で「大阪時事新報」を発行していた。当初は大阪時事新報社という別法人での発行だったが、1920年(大正9年)6月に東京の時事新報社に吸収合併。しかし1923年(大正12年)8月に再度分離独立したものの不振に陥り、1930年(昭和5年)3月に神戸新聞社に買収される。翌1931年(昭和6年)8月1日には京都日日新聞社と共に神戸新聞社に吸収合併され、京阪神の新聞トラスト「三都合同新聞株式会社」が誕生。しかし「大阪時事新報」は三都合同新聞大阪本社から発行が継続された。

神戸新聞社#三都合同新聞」および「京都新聞#歴史」も参照

その後三都合同新聞社は1940年(昭和15年)7月30日に解体し、大阪時事新報は再び独立会社・「大阪時事新報社」として発足。間もなく読売新聞社(現・読売新聞グループ本社)が株式を買い集め経営に参加するも、翌1941年(昭和16年)12月8日に「夕刊大阪新聞」と合併して「大阪新聞」となり終刊した。

詳細は「読売新聞大阪本社#創刊までの経緯」および「務臺光雄#大阪にも読売進出」を参照

戦後1946年(昭和21年)2月1日、前田の手により復刊したが、1951年(昭和26年)6月に再び「大阪新聞」に合同して終刊。その後大阪新聞は2002年(平成14年)、産経新聞大阪本社版に合同して廃刊となった。

詳細は「大阪新聞#歴史・概要」および「産経新聞#東京本社管内の夕刊廃止」を参照

経済時事新報[編集]

日本経済新聞社は、戦時統制1942年(昭和17年)に日本産業経済(現・日本経済新聞)が誕生する際、前身の中外商業新報が東京で発行されていた経済時事新報という新聞を合併したと社史の中で記述している。しかし、この新聞に時事新報社が関与していたかなどの詳細は分かっていない。

詳細は「新聞統制#新聞統合の進捗」および「中外商業新報#沿革」を参照

備考[編集]

  • 株式会社組織として存続している「時事新報社」(資本金7000万円)は、2009年1月現在、代表取締役に清原武彦(産経新聞社代表取締役会長)、取締役に住田良能(同代表取締役社長)と千野境子(同特別記者)、監査役に鈴木隆敏(同顧問)となり、経営の一切を産経新聞社に委任している。

  • 日本音楽コンクール大相撲優勝力士額掲示については現在毎日新聞社が継承している。

    1. 優勝額#解説」および「日本音楽コンクール#歴史」も参照

  • 時事通信社と直接のつながりはないが、かつて時事新報が発行していた『時事年鑑』は、同盟通信社を経て時事通信社が継承して発行した(1994年廃刊)。

  • 『時事新報』創刊25周年記念号(明治40年3月1日記念号)は、ページ数が224ページに達し、日本の新聞としては最多ページ数記録となった。同号は1961年に日本新聞資料協会から縮刷版が発行されている。

  • 慶應義塾大学日吉キャンパス(1年、2年生が通う)をエリアに含む産経新聞日吉専売所の店頭には「(慶應)塾生[注 9]諸君、福澤諭吉先生が創刊した時事新報が前身の産経新聞を読もう」との広告が掲示されている。

主な人物[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 1936年(昭和11年)に買収、権利一切を引き継ぐ。

  2. ^ 現・東京都港区三田2-15-45。慶応義塾大学三田キャンパス構内、旧図書館の辺りにあった。

  3. ^ 現・東京都中央区日本橋3丁目

  4. ^ 現・東京都中央区銀座6-8-7 交詢社ビルディングの南側にあたる。

  5. ^ 現・東京都千代田区丸の内2丁目

  6. ^ 現・東京都千代田区有楽町1-12-1

  7. ^ 現在の時事新報社の登記上本店で、産業経済新聞社東京本社と同じ。

  8. ^ 『毎日新聞百年史』によれば、大毎は時事新報社より営業権(のれん)を購入。時事新報社はこの代金をもって解散資金にしたとしている。つまりこのとき、時事新報社の法人は解散している。なお『時事新報』を合同したのは『東京日日新聞』であって『大阪毎日新聞』ではない。

  9. ^ 慶應では「学生」ではなく「塾生」と呼ばれる。

出典[編集]

  1. ^都倉武之. “時事新報史 第19回 社屋の移転 日本橋を経て銀座へ”. 慶應義塾大学出版会. 2020年4月29日閲覧。

  2. ^『兵は凶器なり』 (21) 15年戦争と新聞メディア -1926-1935- (PDF) 前坂俊之アーカイブス

  3. ^鈴木 & 都倉 2009, pp. 46–53, 61.

  4. ^異端と先導 創造性に満ちた生涯 東京展は来月8日まで 産経新聞2011年1月28日[リンク切れ]

  5. ^石田 1977.

  6. ^平山 2004, pp. 19–22.

  7. ^都倉武之. “時事新報史 第12回 水戸出身記者の入社”. 慶應義塾大学出版会. 2020年4月29日閲覧。

  8. ^福澤 1971, p. 599.

  9. ^慶應義塾豆百科 No.42 『時事新報』の創刊”. 慶應義塾大学. 2020年4月29日閲覧。

  10. ^“朝日新聞創刊130周年記念事業(明治・大正データベース)」のご紹介”. 朝日新聞. (2008年3月10日)

  11. ^ 「番町会を暴く」が政治問題に『時事新報』昭和9年1月22日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p412 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

  12. ^ 両社幹部、福沢翁墓前に合同を奉告『大阪毎日新聞』昭和11年12月25日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p236 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

  13. ^ 春原昭彦. “コラム「日本の新聞人」 福沢亡き後、時事新報の論壇を主宰 板倉卓造”. 日本新聞博物館. 2020年4月29日閲覧。

  14. ^【現代(いま)に生きる時事新報】(24)[リンク切れ]

  15. ^『新聞に関する世論調査』の分析(下)」『一橋研究』第19巻第3号、一橋研究編集委員会、1994年、95-108頁。

  16. ^警報発令!今度は何が? 【し】新聞社の仕組み⑰ - 産経新聞大阪本社整理部記者 日野原信生のブログ。

参考文献[編集]


対外硬

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対外硬(たいがいこう)とは、国際社会における日本国家の現状を対外的に危機的状況と考え、国際協調を否定して、国家の自主・独立を重んじて軍事力をも視野においた強硬的な外交でのみによってこの危機を打開できるとする思想・主張のこと。政府外の在野・民間にあってこうした考えを支持する人々・党派を対外硬派(たいがいこうは)と呼び、明治後期の条約改正から日清日露戦争韓国併合の時期に最も盛んであった。明治政府に反対する勢力がナショナリズムの下に党派を超えて大衆を結集させた。

概観[編集]

条約改正[編集]

その原点は、幕末攘夷論や明治初期の征韓論などに求めることも可能であるが、直接的な原因としては、明治政府が条約改正に際して採った欧化政策とそれに対する反発としての国粋主義の高揚が上げられる。いわゆる日本主義者が、『日本』を舞台に政府の外交方針と自由民権運動の民力休養路線の双方を批判して、強硬的な外交政策による不平等条約解消とその裏付けとなる軍事力の拡張を主張した。

硬六派[編集]

この路線を奉じる安部井磐根佐々友房神鞭知常らは1893年大日本協会を結成して、「条約励行[1]・自主外交・対強硬」を掲げた。これに対して東洋自由党同盟倶楽部立憲改進党国民協会政務調査会の5党派がこれに呼応して、「日英通商航海条約締結の反対」・「清国への早期開戦」を掲げて共闘を約した。この6党を対外硬六派(たいがいこうろっぱ、略して「硬六派」とも)と呼ぶ。

第二勢力[編集]

こうした動きは世論を日清開戦論へと動かす契機にはなったが、これらの政党は対外政策では一定の一致をみていたものの、国内政策では国粋主義的な大日本協会や国民協会から自由民権運動の中でも急進派である東洋自由党まで幅広い勢力を含んでいたために、政府あるいは衆議院第1党の自由党あるいは後に同党と伊藤博文官僚勢力が合同した立憲政友会に対する批判でしか一致をみなかった[2]。実際にこの勢力の主流は後の猶興会(のちの又新会)・進歩党憲政本党立憲国民党憲政会と続く「反自由党」・「反政友会」の第2党勢力の母胎となっていくのである。

日露開戦[編集]

日清戦争後に一時的に沈静化していた対外硬の再燃が始まるのは、義和団の乱後のロシア軍による満州駐留であった。旧摂関家の当主であった近衛篤麿文麿の父)を擁した対露同志会を始めとして、七博士建白事件における日露開戦論の高まり、戦後のポーツマス条約締結に反対する民衆による日比谷焼討事件など、対外硬派の影響によるところが大きい。また、戦後には韓国併合を積極的に唱えた。

普選と国粋[編集]

ところが、日比谷焼討事件に対する評価が対外硬派を分裂の方向に向かわせることになる。自由民権運動の流れを汲みこの動きを評価する人々は、1905年国民倶楽部を結成して「内に立憲主義、外に帝国主義」という標語を掲げて、普通選挙を行って正しい国民の声を政治に反映させることが国家の自主・独立の確立に必要であると主張した。だが、逆に国粋主義の流れを汲みこの動きを国内における危機と見た人々は既に1900年に近衛篤麿が結成していた国民同盟会1902年解散)の流れを汲む諸派に結集して、国家主義の強化と国民への統制強化によって国民が一致団結して自主・独立を追求すべきであると唱えた。

この路線対立は、その後の辛亥革命対米移民問題第一次世界大戦などで対外硬が度々再燃して、結果として対外的にはその方向に向かいながらもそれらは帝国主義や大東亜共栄圏の構想に帰結し[要出典]、「対外硬」という言葉自体が色褪せる原因となっていった。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

  1. ^ この場合においては、「対等条約の完全実施あるいは一切の外交関係断絶による鎖国状態への復帰以外の一切の条約改正は認めない」という意味での現行条約の維持を意味している。更に現行の安政条約を厳密に励行すれば、外国人は居留地とその周辺以外への外出は許されず、その行動にも重大な制約が加えられるため、日本での商取引その他の活動は実質困難となる。

  2. ^ しかも、この系統の中にも小川平吉に代表される対外硬派勢力が一定の発言力を有していた。

参考文献[編集]

辞書項目

研究書

  • 宮地正人著『日露戦後政治史の研究』(東京大学出版会、1973年)

  • 酒田正敏著『近代日本における対外硬運動の研究』(東京大学出版会、1978年)

  • 小宮一夫著『条約改正と国内政治』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4-642-03735-7

地方史

  • 『新修 神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』神戸市、1994年

関連項目[編集]

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