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466 伊丹十三賞」受賞記念小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録

削除されることを考えて転載します。 

第14回「伊丹十三賞」受賞記念
小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録(1)

日 程:2023年3月6日(月)17時30分~19時
会 場:伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:小池一子氏(第14回伊丹十三賞受賞者/クリエイティブ・ディレクター)
    佐村憲一氏(聞き手/グラフィック・デザイナー)
ご案内:宮本信子館長

【館長挨拶】

宮本こんばんは!(場内拍手)
ようこそいらしていただきました。本当にありがとうございます。
第14回伊丹十三賞受賞・小池一子さんの、特別な記念すべきトークイベントでございます。


小池さんがずっと昔に携わっていらした渋谷の「PARCO(パルコ)」というところがあるんですけど、そこへ若い頃、私ずいぶんちょくちょく寄せていただきました。
本当にキラキラしてね、おしゃれで、なんて素敵なところなんだろうって。何も買えなかったんですけど……ただぐるぐる周っていたんですけど、憧れの場所でした。そして今は無印良品。時々利用させていただきます。

小池さんはその他いろんなことをなさってらっしゃいますから、今日はどんなお話をうかがえるのかと、非常にわくわくしております。

(小池さんを)お呼びする前に…こんなに松山は寒いんですね!(場内笑)なんか冷え冷えで。これじゃあと思って。もし御用の方は、このつきあたり(会場カフェ・タンポポの南側)の『タンポポ』ポスター(を掲示しているところ)の左が化粧室でございますので、おふたりのご了解を得まして、どうぞ遠慮なくいらしていただけると非常に安心でございます。そのことを申し上げておきます。

では、さっそくお呼びいたします。——小池さぁん!(場内拍手)
そしてもうひと方は、小池さんと親交の深い、伊丹映画でも本当にお世話になりました佐村憲一さんです(場内拍手)。
今日はようこそいらしていただきました。


小池さん・佐村さん・宮本館長3人で記念撮影

宮本今日はすごく、本当に楽しみにしていました。ではよろしくお願いします。私は余分な事を言わないほうがいいから。
小池さん、佐村さん、よろしくお願いいたします。

(場内拍手)

佐村私は本業がグラフィック・デザイナーですから、こんな場所でおしゃべりするというのは生まれて初めてのことなので、大変なことになるかもわかりませんが——まぁ適当に(笑)(場内拍手)。

昨年は小池さん、非常におめでたい一年で、伊丹十三賞受賞と、なんでしたっけ(笑)——文化功労者と、今回のテーマと同じ“オルタナティブ”というご自身の大展覧会を開催され、大変おめでたい年でございました。

小池さんと私はもうずいぶん、何十年のお付き合いをさせていただいていますし、伊丹さんとも80年代初めからお付き合いをさせていただきました。お二方の関係で私がここに登場することになったと思うんですが、今回はとにかく、小池さんのすばらしい、今までなさったことをいろいろお聞きしていきたいなと思っております。

今回のテーマの“オルタナティブ”ということ自体は、あんまり馴染みのない方もいらっしゃると思うんですが、もともとは証券用語だったと思います。
なかなか、日本語にひと言で言い換えるのが難しいような気もするんですが——いろんな文化的な流れがあった時に、“もうひとつの選択”という新しい提案をするということを、アートとか教育とか演劇とか建築とか、あらゆることで小池さんがずっとなさってきました。
その辺りを中心にいろいろお聞きしていきたいと思います。

まず、小池さんは学生の頃とても演劇などに凝ってらっしゃったようですが、その辺りの話からお聞きしたいなと。
小池はい、そうですね。「三つ子の魂なんとか」といいますけれども、私本当に、子どもの時から家族の中で何かをやってみせるのが好きでした。今覚えている一番最初のパフォーマンスというのは、ちっちゃいサロンエプロンをつけて、その中にピンポン玉を入れておいて、「コケコッコー!」と言って卵を産むということ(笑)。そんなことがありまして、もうずっと、学芸会人種だなと思っています。

大学に行く時には、唯一、早稲田の文学部に演劇科というのがあったんですよ。もうそこしかなくて。数学も理科も全然できないので、そこ(早大文学部)だと入試科目が国語と英語でいいというのを調べておいて。昼でも夜学でもいいから演劇科に入ろうと思ってそこに行ったことが、そのあとの私の仕事のやり方の決め手になったと思うんです。

まだちょっと戦後の——先輩の中には戦争や予科練に行きかけたというぐらいの方もいるという時代でしたから、無頼の雰囲気のまんまの早稲田で。

でも私が驚いたのは、東京しか知らない人間にとっては——疎開っていうがあるのでそれはまたお話しますけれども——地方から来ている人たちのほうがすごく勉強をしているんだという、そのショックがまずありました。
例えば、東北(岩手県)に渋民村というところがありました。石川啄木が育った村なんですけど、そこから来た一人の同級生は、すごく演劇や戯曲を読み込んでいて、独自の、もうなんとも言えない発想の演出をする。
そういうすごい——ちょっと兄貴分のような同級生、上級生を見つけたことを、たぶん私は、今の仕事でも原点にしていると思うんです。それで生意気にも、「世界を捉えるとしたら美術か演劇かなぁ」なんて思っていたんですね。

その頃の早稲田って、美術史と演劇というのがほとんど同じようなカテゴリーで授業も一緒だったりして。だから、その頃の学生劇団で日本一だったと思うんですけど、その劇団でいろいろと演出助手のようなことをしながら、美術の人たちとも活動していました。
今だったら簡単に動画なんかが作れるわけですけれど、美術史の人たちは浮世絵の研究をするっていうんですよね。じゃあ「浮世絵ってどういうものか」を描くシナリオ作りなんかを一緒にさせてもらって。そのように過ごした時間が多かったです。

私の周りのすべての学友、先輩たちは「歴史的に優れたものはあるんだけれど現代を書かなきゃ」と言っていました。だから創作劇ばっかりやっていて、私が仕事をするようになってからも「いま何を作るか」という起点が、まずそこにあった。そんな演劇の集団の生活をしていました。
佐村それは早稲田の「自由舞台」(早稲田大学にかつて存在した学生劇団)ですか?
小池はい、そうです。
佐村いろんな方が出ていますもんね、自由舞台から。
小池そうですね。私が一番驚いたのは、渋民村から出た秋浜悟史(あきはま さとし)という人で、日本では知られないでいる人。最後は大阪芸術大学の先生になって、(大阪芸術大学舞台芸術学科の学生が中心となって結成された)劇団☆新感線を「僕の子だ」とか言ってましたけれども。でも早く亡くなってしまったんですね。
そういう人と関わりながら創作劇っていうものを作ったことから「美術だったら現代美術しかない」っていう——そういう関係を持ったと思うんです。
佐村なんか、オペラ歌手を目指していたとか聞きましたけれども(笑)。
小池学芸会人種だから好きなんですよ、歌うのは。
そうしたら、チェリストの義兄がクラシックのプロの歌手につきなさいと言ってくれたんです。通い始めて一番勉強になったのは腹式呼吸です。いま気功をやっているんですけど、そのときに腹式呼吸をきちんとできたということが残っているのか、丹田呼吸というものに凝ってます。
佐村昔どこか料理屋の和室で、小池さんが『キャバレー』の踊りをなさったのを、私ちらっと覚えてるんですけど。
小池ああ、そうですか。ミュージカルを翻訳したから。
佐村襖の間から小池さんの、まず素足が出てくるんです(場内笑)。それでこうやってね、手のひらを広げて(笑)、踊り出しちゃうんだよね。
小池なぜかというとね、大学を出た後、大きい会社に勤める、いわゆる会社勤めの才能は私にはないなと思って、それで早くからフリーになっちゃったんですけど、翻訳の仕事で少し収入を得ようなんて思っていた頃に、その自由舞台の仲間で、新国立劇場の初代芸術監督にもなった、渡辺浩子という才女がいたんです。
渡辺さんがミュージカルの翻訳をしようと言うので、舞台に上げるようなミュージカルをちょっと手伝って。戯曲を全部一緒に読むんですけど、彼女に来た仕事だし、彼女の考えで監修してもらうわけですから、私は訳詞という立場で。
ミュージカルで『ファンタスティックス』と『キャバレー』ってあるでしょ。その翻訳をしたんです。

ミュージカルとかそういうものの翻訳って、本当にね、原語に忠実じゃなきゃいけなくって、音楽にそぐわなきゃいけなくて、日本語として綺麗でないといけない、っていう三重苦なんですよ。そういうことで、かなり言葉が鍛えられたかもしれない。
まあ翻訳の仕事のひとつである、ライザ・ミネリの映画で有名な『キャバレー』の訳詞は、いまでも好きでおります。


佐村話が戻るかもわからないんですけど。さっきの疎開の話で、78年前ですか、東京大空襲のときは、小池さんは東京にはいらっしゃらなかったんですか?
小池いなかったんです。
佐村ああ。
小池私ね、“小池”っていう名前は、伯父伯母の家の名字なんです。
割合に親類が少なくて、私の実家は“矢川”という名字なんですけれども、小池は母のお姉さんの嫁ぎ先で。

7歳の時に、父親に書斎に呼ばれたんですよ。
「おじちゃんとおばちゃんの家には子どもが生まれない。だから、誰かが小池の名前を継いであげなきゃいけないんだけど、一子が一番おばちゃんたちと仲いいから、行けるかい?」って言われて。7歳の子どもにそういうことを聞くっていうのもすごいなと、今となっては思うんですけれど、「はい」って言うしかないじゃないですか。
書斎は暗い部屋で、父親のほうはどっしりした椅子に座っていて、その前に小さな椅子で座らされたら、本当にもう「はい」って言うしかないと思ったの。もちろん小池の伯父伯母がとても好きだったので。

もうその時に小池の家に行くことが決まるんですよね。決まった時には、変な家で、みんなでお祝いするわけ。でも私、「あんなきれいな着物着せてもらったことない」っていうような着物を初めて着て。父親が写真に凝っていたので、みんなで家族の記念写真を撮りました。今でもありますけれども。

でも、「名前は変わるけれど、どっちの家にいてもいいんだよ」っていう、妙に開かれたファミリーっていうのかな。
母親がちょうど——あ、ゆうべね、エッセイをひとつ、今日うかがう前にどうしても仕上げてこようと思って、送ったんです。婦人之友社の『明日の友』から、自由学園のデザインの変遷みたいなことを書いてと言われていて。
ちょっと書けないなぁと思いながら、コロナで散歩が日常になったときに、フランク・ロイド・ライト(アメリカの建築家)が設計した自由学園の建物の周りをよく歩いて、そういう子どもの頃のことを思い出したりしてたんですよ。

うわあ——話がとんじゃったけど…(笑)
佐村どうぞどうぞ(笑)。

小池子どもの時から人前で表現することは好きだったし、いわゆる「父親と母親はこうあるべき」とか、封建的なやり方というのがずっといっぱいであった時代の子どもにしては、自由に動かしてもらっていたと思うんですね。小池の家にいてもいいし、矢川の家にいてもいいっていう。私の放浪癖、旅好きは、子ども時代に住居が定まらなかった、というところにあるかもしれないです。
平和で、どっちの家にいてもいいよって言われながら育って、小学生の3年の時に戦争が始まるんですよね。

だいたいのお友だちは集団疎開でクラスごとにどこかに行くんだけれど、縁故のある人はそれぞれのところに。小池の父が静岡県でクリスチャンの人たちの村みたいなものを受け継いで、そこに研究所みたいなものを作ったんです。そこにすぐ個人疎開に行くというので、それまでどこの家にいてもいいと言われていたのが、戦争で——個人疎開という名前で、静岡県の函南(かんなみ)に移りました。
そして、小学生3年から4年…5年ですかね、戦争が終わるまでそこにいました。

戦争のことを話したら長くなっちゃいますけど——
戦争は絶対にあっちゃいけないと思うんですが、ただ、東京の子どもが、突然田舎で暮らすようになって知ったことっていっぱいあって。四季の移り変わりとか……一番覚えているのは、川の流れているところにわざわざ行って、ずっと足を水につけてみんなで歌を歌ったとか。そういう生活っていうのは、都会にいるだけじゃ本当にわからない。
今の東京の子どもたちを見てると、「ある時期には地方に行って生活した方がいいんじゃないか」って思うぐらい“土離れ”していますよね。土離れすることが嫌だなって思うようになったのは、それが原点かもしれないです。

佐村小池さんは25歳でもうフリーランスをなさってるわけですね。そこに何か自由さというか、周りの家庭の皆さんの理解というか、そういうことが、かなりその後の小池さんの人生の基盤になっているような気がするんです。
25歳というと日本の社会はどうしても男社会でもって、そこに切り込むっていうと大袈裟かもわかりませんが、“新たな提案”をしながら若い女性がいろんなことをなさっているっていうときは、相当な抵抗というか摩擦というか、そういうものが……プレッシャーとかあったんでしょうか。
小池うーん、よく聞かれるんですけれども、それがね……嫌な思いをあまりしていないんですよ。私は本当に人の出会いに恵まれて、仕事中心の、何かを作り出す生活に突入しちゃったので。
その中の一番最初は、アート・ディレクター、画家、デザイナーの堀内誠一さん——『anan(アンアン)』などのもとになるマガジンハウスの構想を立てられた方ですけど、うちの家族の知り合いだったものですから。堀内さんのところに行って、何か秘書の真似事みたいな仕事の手伝いをし始めていたんですよね。

堀内さんというのは写真も非常に研究されていて、不思議な天才的な人でした。写真雑誌のアートディレクションをするわけなんですけど、そこに訪れる写真家が奈良原一高さんとか、東松照明さんとか、佐藤明さんとか——何しろ、彼らみんな20代だったと思います。そういう方たちがしょっちゅう来られていた。
写真家たちが写真を突き詰めて議論する。自分独自の世界を創る、ということがあるんだと知りました。


そこで「じゃあ自分は何ができるんだろう」と思ったので、“言葉”をどういうふうに自分のツールにするかと考えました。その頃どんどん広告産業が盛んになってきていましたから、コピーライターという仕事をみつけたんです。コピーライターの養成講座というのがあったんですよ。そこに夜学で行くのと、昼間にはアド・センターという会社でそういう仕事をしてたんです。
佐村みなさんご存知だと思いますけれども、いま小池さんがおっしゃった『anan』、それから、『POPEYE(ポパイ)』『BRUTUS(ブルータス)』『Olive(オリーブ)』といった雑誌のあのロゴは、堀内誠一さんが作られたもので、私もデザイナーとして非常に影響を受けた大変な方です。その堀内さんのところに、小池さんはいらっしゃったということですね。

そのあと、「キチン」——会社を作られますよね、小池さん。
小池そうですね。堀内さんが基礎の道を無言のうちに示唆してくださって。
言葉で表現するだけじゃなくて、そういうビジュアル・アーティスト、チームワークでいろんなことができる世界なんだなぁっていうことを見せてもらったというか、感じ始めて。そういう仕事を続けていきたいと思ったところにひとりでいろんな人に会って、やっていけるかなって思って。それが早くフリーになったきっかけなんですね。
それで、今おっしゃったのは……。
佐村キチン。
小池堀内さんの会社の社長さんというのが無類のファッション好きで、もう一方にね、講談社なんかの女性誌のファッションページを請け負ってきて、私なんかも、特訓で何ページもすごい勢いでファッションページを作るような仕事をさせられたんです。
服好きなところはファッション・エディターの真似事に活かすことができて、それを自分で続けて仕事にできるかもしれないと思って。意識的に、ファッションの勉強を独学で始めながら書いていたんです。

それから、ほとんど同じ頃なんですけれども、フリーになってからの仕事で「田中一光(たなか いっこう)さんというアート・ディレクターがすごいらしい」というのを聞いて。それで無謀にも、早稲田の仲間と一緒にしていた小さなフリーのスタジオで、ある大きな印刷業界のクライアントが私たちに仕事をくれるということになって。それで、田中一光さんとの出会いになるわけね。

アート・ディレクターのすごさっていうのはいろいろあるんですが、堀内誠一さんでまず私は第一の洗礼を受けるわけです。

そのあと、江島任(えじま たもつ)さんという、文化出版の『ミセス』や『装苑』をずっとやっていらしたディレクターとも仕事をしながら、「自分たちの作るものがあるといいな」と思っていました。

一緒に組んだ早稲田時代からの友達と、印刷インキ工業会というのがありまして、そこのPR誌をやらせてもらうことがあって。
このとき私たちが飢えていたのは、インキがたれるばかりの厚い大判のグラビアで――今の方々、特に若い人はなかなかご存知ないと思いますが、アメリカの『LIFE Magazine』っていう大きな雑誌があったんですよ。「そんな世界を私たちも作れるかしら」っていう野望があって、田中一光さんがフリーになられたすぐの時、そういう大判のものを作ることにしたんです。

編集企画やページネーション(ページ割り)を、田中さんと全部一緒にさせてもらって、「これから日本でデザインをするとしたら力を発揮しそうな、若い人を探そうよ」ということで、その人たちの座談会をしましょうという企画を立てて。
「ファッションの分野で誰か」と思って、そのときの仕事仲間だったスター・モデルのお姉さんたちに「ファッション・デザインで若い人で、面白い人いないかしら」なんて聞いたら、「三宅一生(みやけ いっせい)っていう子が多摩美(多摩美術大学)にいて、なかなかだよ」って言われて。
それでお願いに行ったのが、私の三宅さんとの出会いの始まりですね。

だから、田中一光さんがアート・ディレクターで、私が編集で、座談会に出てもらった三宅さん……なぜかみんな「一(いち)」がつくのよね。「一光(いっこう)」と、「一生(いっせい)」「いちこ」と…(場内笑)。
佐村(笑)いやぁ、本当にこれは面白い。「一光(いっこう)」「一生(いっせい)」「一子(いちこ)」……あと「一六(いちろく)」があったらよかったな(場内笑)。
小池本当に不思議なめぐり逢いで、とっても気が合って、三宅さんのほうが私よりも2歳下だし、田中さんは私より7歳上だし、ちょっとずつ違うんですけど。
でも3人ですごい時間、熱く語り合ったのが、いまいろんな仕事に反映しているんですね。
そういうことの中で——…。
ちょっと長くなっちゃうけどいいですか?
佐村ええどうぞ。
小池私今日ね、こちらの記念館で時間を過ごさせていただいて、今この話ができないくらい——もういっぱいになってしまって。なんかね、「素晴らしいところに伺ったな」って、一言で言えばその思いで。
伊丹さんのすごさということと、やっぱり中村好文さんの建物への愛情、内容に対する愛情とすべてで、いっぱいになっちゃってるんですけれども。


展示をご覧になる様子

小池それでなんでしたっけ。キチンについての質問……。
佐村伊丹さんとは、小池さんはほぼ同世代というか、小池さんのほうが3つ歳下ですかね。ですから、今日見たものの中に感じるものが、時代的にもいっぱいあったんじゃないかと思います。
小池そうですね。


小池ちょっとさっきのお話に戻ると、服好きということをどういうふうに自分の仕事に組み込んでいくかということでは、三宅さんとの仕事は“デザインの実施”ですよね。私は、最初からボランティアみたいに三宅さんに伴走して、彼の表現をもっと広げたいということで、直接会社の関係なんかには入らないで、友人としてずっとやってきたんですけれども。

その中で、私が美術館の仕事をするようになった一番最初のきっかけの展覧会(「現代衣服の源流」展、1975年)が、京都国立近代美術館です。その向かいにある京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)は、青木淳さん・西澤徹夫さん設計の建物に変わりましたけれども、京都国立近代美術館のほうは今もまだ前の建物のままで、そちらでの展覧会でした。

20世紀の衣服の最もいい仕事をまとめる展覧会というのが、ニューヨークのメトロポリタン美術館で起こりました。
それまでファッション・マガジンの『VOGUE(ヴォーグ)』、『Harper's BAZAAR(ハーパース・バザー)』などの編集長を歴任したすごい大御所がいまして、ダイアナ・ヴリーランドっていう人なんですけど、その人がまとめた展覧会を京都に持ってくるという話を、三宅さんが中心になって進めることができたんです。

それは1975年のことなんですけど、その展覧会のタイトルが素敵なんですよ。「Inventive Clothes(インヴェンティブ・クローズ)」というのね。ファッションが日本で大きな動きになってくる直前の頃なんですけれども。

みんながオートクチュールやモードっていうことを非常に騒いでいた時期でもあり、新しい既製服産業を——オートクチュールではない、プレタポルテ(高級既製品)の世界で日本でもたくさんの才能も会社も生まれていたわけですけど、まず20世紀の技術革新と生活の変化の中で、優れた仕事がどのように生まれたか。
それは簡単に言うと、いまでいうオートクチュールのデザイナーたちの仕事なんですね。一番もとになっているポール・ポワレというオートクチュールの元祖がいるんですが、それからマドレーヌ・ヴィオネ、シャネル、スキャパレリというような人たちの仕事をまとめた展覧会を、ニューヨークのメトロポリタン美術館でファッション・エディターであった方がまとめられた。非常に凝縮された、いい展覧会だったんです。

「Inventive Clothes」は、「1909-1939」という副題があるんですよ。ということは、いわば20世紀前半。インヴェンティブは革新的、革命的という意味をもっている。
そして1908年ぐらいから、パリがすばらしいデザイン、あらゆる文化の中心になっていくわけだけれども、その時代特にロシア・バレエの人たちの仕事っていうのが非常に大きな嵐を作ったんです。それに影響されて、衣装とかモードも、どんどん面白いものが生まれていく。
同時に、技術革新について言うと——一番象徴的な言葉としては、シャネルの「私はメトロに乗って働きにいく女性のためにデザインするわ」、そういう時代背景ですよね。

そのときの冬休みに、恒例の旅で、三宅さんともう一人の友達、テキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんとあちこち行ってたんです。73年の冬でしたか、アメリカに行ったときに、三宅さんはもうカリフォルニアに飽きちゃって、すぐ「つまらないからニューヨークに行く」と言って。
そうしたら、三宅さんから電話かかってきて、カリフォルニアの気持ちのいい太陽の下で魔鬼子さんと陽を浴びていたところに、「すぐにニューヨークに来なさい」って。そんなお金ないじゃないですか。そうしたら、ちょうど泊まっていたギャラリーのお友だちから「何かあるんだから、貸してあげるから行きなさい」って言われて、ニューヨークに行きました。

それがメトロポリタン美術館の展覧会でした。「これは我々が見て、日本に持って行かなきゃならないよ」と。そういうところってあるんですよね、私たち。
私は、それはモダニズムで育った癖だと思うんだけど。

私たちが一緒にいた時間っていうのは、ロンドンが元気になってきていた頃で、「でも、結局日本のファッションデザインというのは外の国で起きることをコピーしている」ということに飽き飽きしていました。
何か意味のある展覧会がもし日本で開けるんだったらね——なんていうことを思いつついたところに、ガンと、すばらしい革新的な衣服、モード、ファッションの言葉のない展覧会がますます気に入りまして。

それを見て、幸いなことに、三宅さんはスッと彗星のようにでてきた若いデザイナーでしたし、ファッションの会社の関係でいうと、ワコールの当時の経営者の塚本幸一さんが京都の商工会議所の会頭で、展覧会について相談すると、すぐ「京都も何かをすることが必要なんだ」と、見事に受け皿を作ってくださったんですね。ファッション産業特別委員会というのを商工会議所の中に作り、市にも府にも呼びかけて。
京都国立博物館の方たちも、日本の衣服史というもののすばらしい復刻コレクションを作れるからというので協力してくださいました。

京都国立近代美術館で20世紀の最前の展覧会をし、そして京都国立博物館のほうでは、日本の衣装の歴史の復刻の展覧会(「完全復刻による日本の衣装史」展)をしたこと。そういう画期的なことをさせてもらったということが、原点となった時期の、一番ありがたい仕事とのめぐりあいだったと思うんですね。

そうしたら、ここでこういう展覧会をするなら、ニューヨークの展覧会とはまるで違うっていうか――内容は同じなんですけれども、いわばキャンペーン全体、それから展覧会の展示デザイン、そういうものに至るまでのアートディレクションを徹底的に田中さんにやっていただくっていうルートをつけたので、それを評価してもらうことになった。ハワイにあった研究機関(東西文化研究所)に半年の留学招待で行かせてもらうことになるんですね。

それで、戻ってきてから作った会社の名前は、「イニシャルのKを取るとして、どんな言葉がいいかなぁ」って考えて。
ベルトルト・ブレヒトっていう、東ドイツに居続けた劇作家が「東ドイツではみんな台所で話すんだよ」と、「キチン」という言葉を使っていたのを思い出して、それで「K」のイニシャルで「キチン」としたのが1976年ですね。

その展覧会の仕事をしたために、また素晴らしい方たちにお会いできて。
衣服を見せる時って、マネキンがすごく大事なんです。そのマネキンのデザインを監修されたのが、武蔵美(武蔵野美術大学)の空間演出デザインという学科を作られた向井良吉さんという彫刻家なんです。武蔵美に行くようになったのは、1975年の衣服の展覧会があったからでした。
帰った時に選んだ言葉が「キチン」。私の仕事でいうと、これは素材料理屋っていうつもりです。
佐村私の場合、「ナンバーワン・デザイン・オフィス」という名前は、この伊丹十三賞第1回受賞者の糸井重里さんにつけてもらったんですよ。彼が言うには「60年代後半、70年代というのはマイナーがカッコいいとされていて、一番とかメジャーっていうのはカッコ悪い」という時代がずーっとあったんですが、私が田中一光さんのところの事務所から独立して、自分の事務所を始めたのが1980年。「佐村君、今からはね、やっぱり“メジャー”だよ」「“一番”みたいなので名前にしましょう」ということで、糸井さんがつけてくれた。

確かに彼が言うように、80年代になると非常に華やかで、アンダーグラウンド的な時代がもう変わってきたというのが実感としてありましたね。だからネーミングというのも、よく伺ってみると、それなりの背景・必然性というか——面白いなぁと思いました。


佐村そのあと、小池さんは「佐賀町(さがちょう/東京都江東区)エキジビット・スペース」のギャラリーで、今度はアートのほうに“オルタナティブ”な仕掛けをしたと私は思っているんです。
今までの、世の中にある美術館とかギャラリーとかの考えではない、“新しい空間”といいますか発表の場を、小池さんがなさってきたと思いますが、その辺りの話をちょっと。

小池そうですね、今までの話の中でも関係があるところがいくつかあるんですけれど——

書いたり、編集したり、デザインの仕事に関わったりしていく中で、やっぱり「海外でどんなことが起きているか」っていうことが私の中で大きくなっていきました。
そこで思ったのが、私はビジュアルな仕事に関わることは好きなんだけど——そしてデザインの中ですばらしい出会いが生まれて楽しんでいるんだけれど、ビジュアル・アートの中での“現代の創造”というものを考えたら、現代美術というものがとても大事なんじゃないかっていうふうにずっと思っていたんです。
それで、1968年にパリで起きた大きなデモンストレーションや五月革命というのがひとつの時代を作ったと思いますが、そのあたりで世界が変わっていって。

私は英語しかできないからロンドンに行くことが多かったんです。
親たちは「イギリスに行くんだったらこれぐらいのマナーがなきゃだめ」と言い出すもので、友達はみんなそういうことで困っていたんですけど、うちはもうのんきな家だったからあまりそういう縛りはなくて、それでも、いわゆる“英国的なるもの”とか“ヨーロッパ的なるもの”というものへの、ある種の気構えはありました。

でも、行った先ではビートルズの前に大きな演劇運動があった。怒れる若者たちの、劇場改革があって。
だから、そういうロンドンの町で出ているフリーペーパーとかなんかは、私が知っているイギリス文化では全然ない、すごく生き生きとした新しいものでした。その中でたくさん、ミニスカートとかファッションの変化が起きているんです。
それで、「そうか、これはもう一つのイギリスで、我々が教わってきたものと全然違うじゃない」と思っている中で、“オルタナティブ”という考え方——今までに否定されたり尊重されたりしてきた考え方の他に、「もう一つ、こういう方法があるよ」という意味でのオルタナティブですね。それを感じとっていたんです。

ビジュアルな表現の中で、じゃあ私は、もし何か場を持つとしたらどうするのか。日本でギャラリーをするといっても、銀座のギャラリーなんて、エスタブリッシュされた人だけを扱っていたんです。若い人に空間を貸してお金を取るって……これはもう、海外じゃジョークみたいな話だな、と思うような経験もいくつかしていたんですね。だって若いアーティストは推し出してあげなきゃ!

私はもしビジュアル・アートで現代美術をやるとなったら、美術館に勤めるのか、ギャラリーをするのか——ギャラリーの考え方は今はもうずいぶん変わっていますが、その時は私も、いわゆる画商の世界というのは全く分からなかった。
美術館でもない、ギャラリーでもないといえば、「もうひとつ何か自分で作るしかない」と、“オルタナティブ・スペース”というものの研究をしたんです。

ニューヨーク市の水道局担当だった女性でアラナ・ハイスという面白い人がいて、ブルックリンにあった空いた小学校を「文化の場に」というのをその人が急に思い立って、パブリックスクール(Public School)——頭文字をとってPS1というのを作ったんです。私がもやもやっと何かを始めようかと思っていたときにPS1の創始者に会えたっていうのも、すごい幸運なんですけれど。
「そういうのはね、“オルタナティブな場所を作る”っていう考え方なのよ」っていうのを、彼女の言葉ではっきり聞いたんです。美術館でもない、商業ギャラリーでもない、っていうのかな、そういう場所。

だって、芸術の価値っていうのは見つける人のものだし、それをどう育てていくかっていう仕事の連続であるし。そういう意味ではオルタナティブ・スペースっていうこともあり得るかなぁと思って。

その時には、私の頭文字をとったキチンの事務所では、デザインのスタジオを持って、西武百貨店系の印刷物や広告の仕事をやっていたわけですけれども、やっぱり日本の美術館では、若い人たちの展覧会を全然やっていないし……それで、第三の道っていうか。

アーティストで一人、面白い人とパリで出会ったんです。
ルネ・マグリットをご存知ですよね?「これはマグリットじゃない」という展覧会(「マグリットと広告」)をした、ベルギー出身のキュレーターがいるんです。
なぜかというと、マグリットは画家になる前にデザインをしていたのね。その時に作った作品があるんだけれども、今の世界のデザインの傾向をみると、画家になったマグリットの模倣的なアイデアが満ちている、と。
確かにそうですよね、例えば石を描いたりそういう巨視化というのかな、そういういろんな発想があるわけですが。それで博士論文取っちゃった人なんですよ。

その人の展覧会をパリ広告美術館でしていて、すごく面白いなと思ったんです。マグリットがデザインし、アンドレ・ブルトンがコピーライティングをしていたベルギーのチョコレートの広告とか。

「デザインからアートに足をひとつ踏み出そうかな」と思っていた時にそんな展覧会があったので、「だったら私も」と。転機にもいいし面白いと思ったんです。
彼のコレクションと、彼自身に参加してもらって展覧会を開いたのが、ちょうどその時に見つけた、お米の業者たちが使っていた「食糧ビル」というビルなんです。

「昔の旦那衆というのはいいことしていたな」と思うんだけれど、とてもこぢんまりした昭和2年の建物で、でも明らかにデザインとかいろいろ勉強した方たちでしょう、その頃でいえば“棟梁”たちの作ったビルを見つけてしまったもんですから、そこで展覧会場を作りたいと思ってしまって。

ビルの中には、その旦那衆が新年会や講演会をする講堂があって、そこは柱のない空間なんですよ。誰もそういう大きい所は使えないで空いていたんですが、これがエキシビジョン・スペースになったらすばらしい、と思って、1980年頃に見つけたこのビルをリニューアルして、そこを展示場にするということをちょっとしてみたくなったんです。デザインの仕事でみんなでせっせと働いて安給料でやってきて、その時までに少し貯まってたお金を費用にして、仲間でありすばらしい空間デザイナーの杉本貴志さんに相談して改装しました。

人々が使ってきた床。私、ギャラリーは本当に床が大事だと思うんですね。鉄の大きな彫刻にしても、台を据えずに置ける、直に使える床というのがとても大事なんです。天井高が5mぐらいあり、ぼろぼろで使われてなかったんですけど、「眠れる森の美女」だと思って。杉本さんの監修で、思い切ってそこに改装費をかけて始めたんです。

どういう名前にするかというのも決まっていないぐらいのときに、「マグリットじゃない」という展覧会をしたということはつまり、オリジナルのマグリットのチョコレートの広告は貸していただけることになったんですよ、ヨーロッパのコレクターから。だけどその学者、キュレーターのコレクションしたものは、世界中の広告がマグリット的であるということで集めた巨大なポスターなんです。そういうものを持ってきてもらって、それから「名前をどうしようか」ということになって。

というのは、コレクターから作品をお借りする時に、美術館のカテゴリーを持っていないわけだから、どういう資格で美術の場を作るのかというのを説明ができることが必要でした。それをベルギーの学者といろいろやりとりして「エキジビット・スペースだったら大丈夫だよ」と言われたんです。

“佐賀”というのは、たぶん、佐賀藩の参勤交代のお家がその辺りにあったということで、昔から佐賀町っていう場所だった。それが日本の役所の名称変更で「町」を取っちゃってたんです。隅田川の永代橋の際なんですけど、私は「町だったんだから『佐賀町エキジビット・スペース』にしよう」と、その最初の展覧会を作りながら決めて。佐賀町というのはないから、それもちょっとシュールリアルでいいので、ずっと使い続けています。
お話が長くなっちゃったんですけど、大丈夫?
佐村そんなことないです。
伊丹さんの映画『タンポポ』の中に、「カマンベールの老婆」が食料品店にやって来るシーンがあって、外観は、「佐賀町」の1階のカフェで撮影しているんですよ。店内はどこかのスーパーを借りて撮影したんです。
伊丹さんがクランクインすると、2日に1回ぐらいの割合で、朝のちょうど9時に自宅に電話かかってくるんですよ(場内笑)。「明後日のシーンの、スーパーのロゴマークを作ってくれる?」とかって(笑)。

宮本ひどい話ね(笑)。
佐村それはもう慣れてますから。
ただ、今だったらパソコンですぐできるんですけど、(引き受けてから)写植を発注して、私は1点じゃなくて必ず数点は作って、監督に見せて選んでもらって、それを1階のカフェのガラスに貼って撮影……というようなことをずっとやってきたわけです。
そんなことで、佐賀町のカフェにもご縁があります。
小池そうですね。誰っていう有名な建築家が建てたわけでもないのよ。だけど、なんか佇まいがいいっていうんですかね。階段の脇なんかも、昔のお台所によく使われていた、コンクリートに小石が入ったりしていてそれを研ぎ出した、温かい強い素材の——そういう環境でしたね。

そうやって「佐賀町エキジビット・スペース」という名称を作り、自分は経済的な背景も全然ないくせに、「みんながアーティストを一緒に育てていくべきだな」ということを勝手に思っちゃってたものですから。そんな豊かなデザイン事務所でもコピーライターの事務所でもなかったんですけど、必死で家賃を払いながら、「これは」と感じる新しいアーティストに出会っては、それを続けてきたんですね。

それが、80年代後半から90年代あたりまで。日本の現代美術の見え方としては非常にまだ勢いの少なかった頃でしたが、私たちは新しいアーティストとの仕事を繰り返しました。
私が信じていたのは、「個展をしっかりできるということ」。それをアーティストにも頼みたいし、私たちもそれを作ることができなきゃいけない、ということで積み重ねてきました。

そのときに“初めての展覧会をする人”をサポートできたら、と考えると、中途半端に入場料なんか取っても、それほど現代美術に大勢の人が来るわけじゃありませんから。今みたいな状況とは全然違うので。ですから、しょうがないやと思って、ある時は母にも「悪いけど」と言って、家を銀行の抵当に入れてもらって(笑)(場内笑)。

そうしながら、なんだか続けてきたんですね。
その時に展覧会をした人たちが、皆さん本当に力を発揮する方たちなんです。大竹伸朗さんにしても、森村泰昌さんにしても野又穫さんにしても。内藤礼さんとか、みんな初めて会って、その時20代・30代で、すごく力のある人だなと思った方たちが、そのあとご自分の道を続けて、見事な仕事を展開していらっしゃる。
最初の展覧会を仕込んだことの評価ということまでみなさんが掘り下げてくださるようになって、いろんなことで注目していただくようになったのが大きな背景ですけれども。

佐村その後、87年に武蔵美のファッションコースで教授をなさってたんですけど——ファッションというと、ああいう美大であればドレスメイキング、つまり服を作ることが当たり前なんですが、小池さんはファッション・デザイナーではないわけなので、そこでさらにオルタナティブ的な仕掛けをなさっていた、と私は思っているんですね。その辺りの大学教育についてはいかがですか。
小池そうですね、「考えるデザイナーであってほしい」というのがひとつあるかな。
それは、三宅一生さんのような人に私が出会えたという幸運もあるんですけれども。

やはり「ただドレスメイキングをするだけではダメだ」ということは思ったんです。でも、もちろん作るということについての修練というか、それはきちんとできなきゃならない。カリキュラムを作ることで、それをなんとか克服しようとしていました。
イギリスのデザイン学校だと、アシスタントの専門化、ですね。見ること、または作ること。そういう特殊な、服作りのための技能をきちんとアシストする方たちがいます。ただ、そのデザインの構想というものをどういうふうに組み立てていくかは、いろんなカリキュラムがあるわけなので、そういうことを目指した、というのはあります。
佐村さんにも何度も講師として来ていただきました。
佐村私の授業では、グラフィックの専門的なものを教えるというんじゃなくて、例えば、「学生のお母さんが田舎でちょっとブティック持っているとして、それを引き継いだ時にどうするか」みたいな、発注する側の、最低限のグラフィック的な知識程度を教えていました。簡単なロゴマークを作り、雑誌広告、ポスターを作るというようなことの指導を、小池さんの下でずっとやってたんですけれども。
小池佐賀町エキジビット・スペースにも来てくれて。

佐村ところで、伊丹さんとはいつ、どういうきっかけでお会いしてます?
小池私は伊丹さんが書かれた初期の本がすごく好きで、一方的な伊丹ファンだったんですよね。そんな、きちんと話できたことはなかったです。
佐村そうですか。
小池西友の広告デザインを中心に作った『感性時代』という本があるんですが、それで対談をさせていただいたときが初めてだった。
佐村あれが初めてですか。
小池そうです。あ、でも、佐村さんが勇気づけてくださったというか。
佐村あの『感性時代』という本は、小池さんは編集者としても参加なさってたんですよね。
小池はい。
佐村それで、こんなこと言っていいのか分からないけど……
伊丹さんに対して激怒したのは、後にも先にも小池さんだけじゃないかと思うんです。覚えてます?
小池覚えてない。
佐村そうですか。あの対談の後に、おふたりともそれぞれに親しくさせて頂いていたので、「小池さん、伊丹さんとの対談どうでした?」って尋ねたら——
——「あんなに知識を振りかざす人、嫌いよ!」って。
小池本当!?(場内笑)
佐村ここだけの話ですよ。
宮本でも、ね、なるほどと思いますよ(笑)。
小池いえいえ!
佐村私はね、(その本を)持ってますから、読み返してみたんですよ。そんなにね、知識を振りかざすっていう……小池さんが怒り狂うほどのこともないというか。
玉置さん(伊丹十三記念館館長代行・伊丹プロダクション会長)も、「あれは、ちょっと伊丹さんの話が活字になったものの中でも一番ひどいものだ」みたいなことを仰っていたけれども。
宮本喧嘩してるようでしたよね。
佐村いやぁ、伊丹さんは伊丹さんなりの精神分析とかの視点で、今の日本における大量消費社会、生産、流通などを喋ってて……。
宮本面白かったですよ。
佐村面白かったと思いますよ。
小池何かそうですね、「キュレーターの仕事ってどういうことだろう」みたいなことを、伊丹さんが思ってらっしゃるのを聞いたんですよね。それがどこかだったかは覚えてないんだけど、でも、きちんと来てくださって、ゆっくり話していただいて、私はすばらしい体験をしたんです。
宮本(笑)

佐村だいぶ、いろんな話がでましたけど、時間になりました。
最後に、去年の贈呈式のときに、小池さんが「自分は白紙だ」っておっしゃっていた言葉が、私の耳に非常に残っていまして、“太陽と月”のお話を、出来たらこの場でもう一度みなさんにお願いします。
小池つくづく、仕事を続けてきた喜びっていうのは、人に会えた喜びじゃないかなって思うんです。私は“黒子”で仕事をしてきたつもりなんですけれど、作ってきたものに何がしかの力を出したとしたら、それはどういうことなんだろうって思うので。
じゃあ、白紙で、仕事を組む方からあらゆる光も色彩も頂くっていう仕事のあり方があるかなって。そういうことをすごく考えて。だから、太陽のように光を発する母体ではなくて、受けて応えるというか。受けた光の見え方になんらかの、自分なりの感覚というものが加えられたんだったらいいなぁというふうに思うんですね。

すごく思うんですけど、私たちが生まれ落ちるということは親、先祖がいて、いわば縦の関係じゃないですか。子どもができたり孫ができたりということを考えると縦の命っていうもの。それから、幼稚園から、子どもの時から横にある人たち。
「その横のつながりっていうものが、やっぱり人生そのものを作るっていうことなんではないかな」とこの頃思うんですよ。
自分というよりも、自分も、横のつながりの人の中に反映してみるというのかな。そういうことが、コンテンポラリーの、現実の毎日の中で起きていて。それがライフ——生活であり生命でいいんじゃないかな、と思います。
佐村はい、ありがとうございます。時間も迫ってまいりましたので、この辺りで。
宮本どうもありがとうございます(場内拍手)。
佐村どうもありがとうございました。
宮本どうもありがとうございました(立ち上がって小池さんとハグ)。

ずっとお話をうかがっていて、私は何か、言葉はあれですけれども——小池さんは黒子の親分のような気がして。新しい人を発掘して、そして押し出していく。横のつながりをどんどんどんどん枝みたいに広げていくっていう、すばらしいエネルギーをすごく感じました。本当にありがとうございました。

(佐村さんに向かって)佐村さん、ありがとう。
ごめんなさいね、伊丹さんが無茶苦茶なこと言って。突然ね。(場内笑)

本当に今日はありがとうございました。(場内拍手)

【ここで、佐村さんが館長へあるものをお渡し】
宮本あ!これね、小池さん。さっき佐村さんから頂いたんですよ。
(会場に見せながら)皆さんお分かりにならないと思います、絶対に(場内笑)。

『静かな生活』で、イーヨーが作曲しますでしょ?これは映画の中で使ったもの(楽譜ばさみ)です!それを今日頂いたのですっごく嬉しくて。佐村さん、ありがとう!(場内拍手)


佐村さんからプレゼントされた楽譜ばさみ
佐村昔ヨーロッパに行った時に買ってきて、仕事で使っていたんですよ。
宮本きれいね!
佐村(楽譜ばさみを広げながら)ここにこうして挟んで。こっちとこっちに紐がついてますから。きれいなんで、アッと思って、映画の時に小道具で出して。イーヨーが楽譜書いてはここにこう…ちょっと思い出して。
宮本ありがとうございます。
(楽譜ばさみを受け取りながら)……贈呈式?(場内笑)(場内拍手)

どうもありがとうございました。
小池さん――ボス!ありがとうございました。

(場内拍手)
宮本(会場に向けて)皆さまも、本当に今日はありがとうございました。
暗いですし、足元にお気をつけて。転ばないように。お年を召した方、特に転ばないように。
拍手お願いいたしま~す!ありがとうございました。

(場内拍手)



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