拡張家族と孤独と子供の自殺

タイトルから、「拡張家族こそが子供の自殺を防ぐ」という主張の記事だと勘違いされそうだけど、むしろ真逆の内容です。

ひょんな事から、拡張家族の社会実験の事を知って、少し調べて出てきた情報に不穏なものを感じてしまった。


伝統的家族観が現代にマッチしていないというのはその通りなのだけど、だからといって「サザエさん的家族像」を呪いと一刀両断する事もないはず。伝統的な家族形態も、その恩恵を受けなかった人や、むしろそれで苦しんだ人もいるけど、多くの人間を育み助けてきた仕組みであって。

石山氏が社会実験として推し進めている「拡張家族」の形態は、そこに参加するにあたって、ある意味「人間性」で選別を受けるのだから(※1)、これこそがあるべき姿として推し進めれば伝統的家族観なんかよりもよほど呪いなり、凄まじい分断を生む事は想像にかたくない。各々が好きにやる分には問題ないだろうけど。

石山氏の「拡張家族」についてNHKで放送された特集の感想、twitterでクロ現と調べると、ほとんどが否定的な感想だった。
皆、共通して言うのは「不利さ(病気・高齢とか)を持つものは、ここには参加出来ないだろう」という事。私もそう思う。これは令和の長屋ではなく、人間性と有利さで選別された「ゲーテッド・コミュニティ」だと感じた。

そして選別対象がマスであればあるほど、「家族になるための競争」は激化し疲弊する人が続出する。石山氏がそれを主導しなくとも、仕組みさえ出来てしまえばそうなってしまうだろう。
マッチングアプリ化してしまうという事だ。
私は以前から、沖縄では子供食堂は機能するが、内地では機能せずに、有料で閉鎖的な育児シェアコミュニティとなってしまうだろうと思っていた。石山氏主導の「azmama」を見た時は、ああ、これだ‥と思った。母親同士でさえ、マス相手の競争原理を取り込んだ価値観にさらされながら「マッチング」されるのだ。



こう思えば、閉鎖的で排他的な繋がりの象徴ともいえる地縁は、場所で縛りながら、その中で様々な有利不利を持つ人を包摂するのだから「拡張家族」よりは多様性があり、繋がりの機会において平等なのだろう。
私は、生まれ育った地域のせいで苦労した方だから、地縁こそ素晴らしいなどとはけして主張しないのだけど、「拡張家族」の取り組みを見てそういう側面に思い至った。

家族といえる程の繋がりを持つとは、ある意味他の繋がりを排除して自身のリソースをそこに集中させるという事だ。地縁なら場所をボーダーにしてリソース流出を制限している。
よく言われる、「現代は繋がりが広がったのに、人はより孤独を感じている」という事について、本来、繋がるための労力や、人が他人に持てる関心は有限なのに、現代では、繋がる範囲と量が増えて、質が保てなくなったという事じゃないだろうか。ひとつひとつの繋がりが機能出来る程の質じゃない、つまり、使い物にならない。

更に、大人達の繋がりの恩恵を受けるはずの子供達が、大人がそんな機能しない繋がりばかり持っているから、子供にとっては量も質も足らず、子供自身の主体性で繋がりを得るしかなく、まあそれは無理がある。だから、子供の狭い世界の中で絶望し、自殺してしまうのではないか。

ただ、際限なく広がって薄くなった繋がりの恩恵も大きくて、これは目の届かない場所、それこそ閉鎖的排他的な共同体で行われる理不尽、暴力、私刑に対する抑止力となっているはずだ。
警察の様な、使命として閉鎖性を余儀なくされる組織ではその恩恵にあずかれないから、拳銃自殺が続くのだろう。
現代、みんなが孤独を感じる事を代償に、守られている平和があるのかもしれない。



※1人間性を評価する事の罪深さは、リーマンショック下の就職不況を思い出す。
今は実力といえば、具体的なスキルを指すだろうけど、10年くらい前は、実力=人間性と読みかえる時代があった。そこで、単に就職不況で就職出来なかっただけの事なのに、人間性を否定された事になる人達が多く出た。
それで、その時面接官をやっていたような人事の高齢男性達の思う人間性とは「面接で俺と楽しく話できる事」程度のものだったと思う。
茶番と思えばぬるい時代だったが、真面目な人達が精神を病む時代でもあった。
そういうつらい時代のつらさを増大させる事に貢献してきたリクルートなどは、そのうち拡張家族マッチングサービスをやるのかもしれない。

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