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アストロン

 3ヶ月くらい積んでいた「私の百合はお仕事です!」を読み切った。キャラ心情役回り、エピソードの絡ませ方、どれをとっても一級品でかつ、それらがきれいに組み立てられたすごい漫画だったと思う。
それから、あとおもしろかったのは「R15+じゃだめですか?」。ずっときになってて読み始めて、案の定良かった、これの話ばっかしたいくらいに。ただ、単行本が売っていない。
これらの漫画を読んで、著しい充足感に満たされた後、ふと、自分が鈍化していることが頭によぎる。暗礁は案外すぐそばにあって、たいがいいつも、気づかないうちに、突然乗り上げるものだ。

 わたゆりの登場人物も、15+の登場人物も、それぞれ自分の過去の経験や、思春期特有の悩みまで、目の前の問題に真剣に、まっすぐに向き合って、自分と対話して、他人の力も時には借りて、そこに正解はない答えをだすために必死であった。人間が他人との交わりについて真剣に悩み、考え続けることはすごく自然で、だからこそ面白く、共感性も高く、一人一人のキャラクター性が浮きだつ。本当に誰もかれもが必死で、応援したくなり、胸が締め付けられた。その真剣さが一コマ一コマからにじみ出ていた。そうしてやがて思い至るのは、結局自分のこと、自分は最近、真剣に自己と、他人と、向き合っていただろうか。
否である。

 この数年で大きく変わったことは、他人をあきらめるようになってしまったこと、限られたリソースのことが先行し、面倒ごとやストレスを、明らか過度に避けるようになったことだ。かつては誰とでも仲良くしたいと思っていたがそんな自分はもういなく、嫌われるのなら、関わらないようにする、自分からも退く。そんな風になってしまった。自分の感情を経験則でラベリングし、それ以上の深堀はよしておく。人と争いになりそうなことは、なるべくしない、言わない。適当な流し。ちょっと嫌な事を言われても適当に流す。
「大人」になるってたぶんそういうことも含まれていくんだけど、そうやって自分の皮が厚くなって、鈍くなって、愚鈍になっていくありさまが、ひどく怖くなる。十代の頃もっていた、多感な時期だからこその研ぎ澄まされた感情の機微、一つの情報も取りこぼさないようにする注意深さとアンテナ、あるいはその逆の、脇目もふらぬ没頭。そういうものは、たぶんもう、どこかへ行ってしまった。それが恐ろしく、苦しい。漫画の中の登場人物でさえ、真剣に自分の思いに向き合っている。勇気ある行動で、まぶしい。自分は。

 これも浅い程度のラベリングだが、結局自分の漫画はいつも「人と人が向き合う事」が一貫してどこかにおさめられており、その根底は結局自分の中のありものの、経験や感情を引っ張り出したりつぎはぎにしたりして、コンパチを出し続けているに過ぎないと思う。じゃあ鈍くなった今は?もう堆積しない経験は、すなわち燃料の底を表す。きっとそのうち、描けることが、思い出せることが、なくなってしまう。あるいは、昔もっていたはずの気持ちを見失ったら??空っぽの自分がいつかそういう中身のない創作をすると思うと、こころは冷え切って、震える身体を柔らかな布団で温めることすらままならなくなる。

 家にいる、仕事をする、少し創作する。ほぼ同じ毎日。多数の男女がぶつかりあう環境はもう自動的に用意されないし、立ち返ることすら敵わない。大学で自由を与えられた自分は、少しの光明をたよりに結局暗がりをあるいてしまった(器用な人間ではないので、これは間違いだったとは思わないが)。環境を変えることすらできない。もうあのような、感情の揺れ動き、悩み、そういったものを抱えてもがくことはなくなるのだろうか。

 どうにも世界は輝いている。それがフィクションであればなおさらに。目を細めて、わからないふりをして、鈍く錆びていく人生を内々で混ぜながら、結局皮を厚くすることしかできない自分がみじめでむごたらしいと思う。でも変えられはしないと思う。真剣に人と、感情と向き合うしんどさもまだ、記憶の中に残っていて、認識できるから。
 せめて転がってきた機会には、真摯に向き合いたいものだが。


 今日も漫画を読みながら、目を細めて、そういうことばかり考える。
どこまで行っても、隣の芝は青くて、他人はみな、まぶしい。

(1758文字)


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