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「生きる」を大切にしない国の障がい者雇用

最近読んだ本の中で、歌人でエッセイストの穂村弘さんが、「ぼくらは二重に生きている」と再三述べられていた。
「生きのびる」世界と「生きる」世界がその二つだと言う。

少々説明を要すると思うので、若干例示すると、眼鏡とか、お金は、「生きのびる」ためにそれがないと困ると、皆が思っている。しかし、私たちは、「生きのびる」ために生まれたわけではない。
根源的には「生きる」ために生まれてきたというべきか、そこのところは人によって違うし、あまり明快には言えないが、まあ、そういうことである。

「生きのびる」世界と「生きる」世界は相反するものではないのだが、「生きのびる」ということが、「ご飯を食べる」・「睡眠をとる」みたいに、生命体としてサバイバルするという目的のために明確であるのに対し、「生きる」世界の価値観は、原初的とでもいうか、「生きのびる」ことを顧みない純粋な魂の輝きを取り戻すとでもいうか、不明瞭で分かりにくい。
二つの世界を生きている私たちのうちの、片方の「生きのびる」世界の私たちが、全員で合意して、ルールや仕組みを二十一世紀用に作ったことで、世の中は機能的かつ便利にはなったが、それに派生して現れた言語的強制力が、「生きる」世界の私たちを圧倒している。
だからと言って、「生きのびる」世界では、組織防衛の観点から、課長が不在の折には、課長補佐や課長代理がいるのが当然でも、「生きる」世界において、家に夫の代理が控えているのは困りものだろう。
まあ、ざっとこんな趣旨であった。

実は、これを聞いてハッとした。
私が障がい者の雇用相談に与るとき、企業等の言うことに、しばしば大きな違和感を持つのは、これかと思ったからだ。
というのも、そこが障害者雇用に積極的で実績もある会社であったとしても、いや、あればあるほど、担当者やその部署が、そこで働く障がい者に、「生きのびる」価値観を強制していることが多いように、ずっと感じていた。

まあ、それでも民間企業なら、経営管理上「仕方ないか」とも思うのだが、現実は行政もまったく変わらない。困ったものである。
行政なら、障がい者、特に精神・発達障害者の「生きる」世界を、もっと理解する努力をするべきだと思う。
曰く " 役所とはいえ、職場なんだから、「生きのびる」世界に適合てきる人材に対応するところだ " と、疑念に答える言い訳らしきものは散々聞いてきたが、障害者雇用のデメリットばかりに焦点を当てた徹底的なリスク回避の意識が、彼らの「生きのびる」ことに、無言のプレッシャーを与えている点は拭えない。

最近、発達障害の分野で頻繁に取沙汰される「ニューロダイバーシティ」の概念とは、「脳や神経の多様性を理解・尊重し、それぞれの持つ違いを社会の中で活かす」ということである。
もはや、現代の障害者雇用において、「生きのびる」価値観を教えるだけでは不十分、という認識かあって然るべきだろう。
つまり、社会には、「健常者と障害者しかいない」と相反的に捉えるのではなく、世界には「いろんな種類の人がいる」という認識を持ち、共に生きる姿勢が求められているのだ。

ところが、行政というものは、とかく柔軟性に欠ける。
規則やルール、不文律は、現状に照らし合わせて、「建設的対話」のもとに、積極的に書き換えていくべきなのに、" 前例がない "  " そこまでやるのは大変だ " と、結局スティグマを維持する方向で先送りする例が多く見られる。

人事とは「人間の事」である。人間は個々に違うし、一人ひとりの「生きる」世界がある。
障害者雇用に関わる者たちは、もっとそのことを真剣に考え、実行してもらいたいと思うのは無理だろうか。


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