エゾカンゾウ

※三浦綾子著 天北原野の二次創作物になります。

ずっと大事にしているものがある。
それは、思い出も面影も、貴乃の全てだった。
暮れ時、孝介は昨年肺結核でこの世を去った貴乃を想い、海辺を見渡せる自宅の窓辺に腰掛けていた。
結局、貴乃と自分は結ばれることはなかった。
もっと早く、行動していれば…そう思わなくもない。彼女のことをずっと苦しませてきたに違いないのだ。出来ることはしてきたつもりではあるが、同時にとてつも無く甘えていたような気がする。

だが今更そんな事を考えてどうする…。
どうにもならない無力感が思考を止めた。


フッと息を漏らした。
孝介は立ち上がり、一階に降りて外へ出た。

あたりはもう夕方。
孝介は今も漁場の網本の仕事を持ち毎日たんたんと働いていた。
経営は順調だった。
仲間うちでは困った者悩んでいる者には惜しみ無く心を砕いて向き合ってきた。

それでも…

それでも身を投げてしまいそうな位の虚しさが自分を襲う時がある。
孝介は残される者のことを考えれば身勝手に人生を終わらせることは出来ないこともよくよく分かっていた。

足は自然とサロベツで見たエゾカンゾウの咲く浜へと向かった。
夕暮れ時のオレンジ色に照らされながらもエゾカンゾウは可憐にしかし少し項垂れながら群生していた。そろそろ咲き終わりの頃なのだろう。
足元を囲むエゾカンゾウを見て港介は、やはり貴乃を思い出していた。 

貴乃はかつてサロベツで見た自然の荘厳さを孝介に語っていた。
そしてその時からだろうか。貴乃の中から悲しみや憎しみ、虚しさといったものが消えたように感じたのは。
余命わずかだとは言え、不思議であった。さらに最期の貴乃にはそれまでの人生の疲れや澱のようなものを感じさせなかったのだ。

…苦しまなくて良かった。

孝介は目を閉じ貴乃の心のうちを思う。
だが貴乃に何が起きていたのか今もって孝介にはわからなかった。

ふと暗がりを感じ海の方を見やると、夕陽が沈みかけ辺りが段々と暗くなってきていた。陽炎のようにサハリン島がゆらりと燃え、海面に光が反射して白く輝いていた。空はオレンジ色から紫色、紺色へ変化してゆく。
広大なオホーツクの海に太陽が沈む様はとてもまばゆかった。自然の決して揺らぐことのない雄美さが一帯の空間を支配した。
孝介は圧倒される。

この夕陽を…あの時も…

孝介はサロベツで美しい夕陽を見たことを思い出していた。
あの時、貴乃は何かに支配されたかのように夕陽のかかった利尻富士のほうを見ていた。その横顔と瞳を忘れてはいない。

お貴乃さんの記憶全てが自分にとって大事なものだ。
でも本当は…
あれから少しあなたを遠く感じていたんだ。

貴乃を理解し切れなかった自分が情けなかった。
彼女はどれだけの人生の理不尽に、1人ぽっちで耐えたのだろう。

気がつけばあたりはすっかり暗くなった。じきに気温が下がる。
そろそろ帰らねば。
いつまでもここに居たいが明日の準備がある。
自分の毎日はこれからも続いていく。

エゾカンゾウを見やると、花たちはただただジッと群れている。
まるで貴乃の代わりにそこで静かに生きているような気がした。

来るさ。
また何度でも。

そう心で呟いて孝介は浜辺をあとにした。

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