その記憶
※三浦綾子著 氷点・続氷点の二次創作になります。
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「北原さん!」
北大からほど近い喫茶店の隅にある少し薄暗い席だった。
北原は陽子を見つけ手を上げ、松葉杖をつきながらゆっくりとそちらへ向かった。
陽子から会えないかと手紙を貰ったのだった。
「陽子さん。久しぶり」
「こちらよ。わざわざごめんなさい」
「いいんだ。嬉しいよ」
「ここまで来るの大変だったでしょう…」
陽子は足が不自由な北原のために向かい側の椅子を引いてやった。
「いいや、最近はもう何でも自分で一人でやるようにしてるんだよ」
久しぶり会う北原はいつもの様子で、なんの気まずさも気恥ずかしさもないようだった。椅子に掛ける北原を見て陽子は思った。
(北原さんはわたしの弟のために、いえわたしのために片足を犠牲にしてしまった。人間はなんと筆舌に尽くし難いほど愚かなのだろうと思ってきたけれど、でも…
北原さんは何も怒っていなければ誰も憎んでいない…)
北原はウェイターにコーヒーを1つ頼んで陽子に向かい合った。
「もう会って頂けないかと思っていました」
「そんな…わたしには責任が、ありますもの」
「またそういうことを言う、それって僕ちょっと寂しいですよ」
「あ…ごめん…なさい」
「いやいや。ええと、今日はどうしたかな。手紙を頂いて。どうもありがとう」
北原が微笑みかけた。北原は話しやすい雰囲気を作ろうと意識しているようだ。
陽子は北原に感謝した。
自分の感ずるまま、話していくしかないと思った。
「北原さん…わたし、この前網走へ流氷を見に行きました」
陽子はおずおずと話し始めた。
「ああ、ついに行きましたか。見れたんですね、どうでした。良かったでしょう」
「はい、とっても…。」
「お待たせいたしました」
その時ウェイターが北原の注文したコーヒーを持ってきた。陽子は続けるタイミングを失ってしまいやや狼狽した。
北原は一口含んでから、
「陽子さんどうです。あんな凄いもの見たら、この世はもっともっと広いって思いません?」
と聞いた。陽子はドキとした。それは、この足の事故の為に自分を選ぶのをおよしなさいと言っているように陽子には聞こえた。だが、今の陽子はそんな北原の思いもわかるような気がした。
「思いました、自分は…とても小さな何も知らない存在にすぎないって…」
「これからなんですよ陽子さんは」
陽子は間をおいて言った。
「でも北原さん。他にも分かったことがあるんです」
「おや?」
「わたしは…陽子は思い上がった人間だったということです」
「…」
陽子は言うのがやっとで北原を見ることが出来なかった。こんな突拍子のないことを言って北原はどんな顔をしただろうか、何か続きを言わなくてはと口を開きかけたその時。
「だった、と言ったね。陽子さんは今は違うのかな」
北原が言った。陽子は北原がきちんと関心を示してくれたことに少し心が和らいだ。陽子は懸命に続けた。
「違う…というわけではありません。ただそのような自分だと知らなかったのです、分かっていなかった。だから自分が不義の子ということが、とても罪ある汚らわしいものと…。それに小樽のお母さんにも冷たく当たっていたし、北原さんにはずっと済まないという思いでした」
陽子は続けた。
「そんな風にこれからも生きていくのは、辛いことです…」
「うん…そうかもしれないね…」
陽子は網走で見た燃える流氷を思い出していた。あの時、人間よりも遥かに大きなものの実在を感じて自分がちっぽけな一人の人間であること、それを自覚した時はじめて自分が許しと救いを得た感覚が蘇った。
陽子は北原を信じてその時の光景と気持ちを語った。
「わたしは…やっぱり心のどこかで自分のすることが正しいと思っていました。
でもだからといってお母さんを責める資格があるのでしょうか。自分が申し訳ないという気持ちでいれば北原さんが許してくれるとでもいうのでしょうか」
「…」
「わたしは人を傷つけていただけかもしれないと思うと…」
北原は神妙な顔で陽子の話を聞いていた。
「それで、あの日、網走から小樽へ電話をしました。お母さんにはこれからも陽子のお母さんでいてほしいと…お母さんはわたしを受け入れてくれました」
「そうなんだ…それは本当に良かったよ…」
「ええ。そして北原さんにも…話をしたいと…。わたしは、その、改めてお礼がしたいと思ったのです…」
「お礼?」
北原は少し驚いた。陽子は事故以来何度も何度も北原に謝罪の言葉を述べた。あれ以来あまり笑わず、いつも北原の顔色を窺うようなそんな不安の色を浮かべていたように思う。
お礼をしたい、というには程遠い様子に思われていた。
「わたしは…毎日北原さんに心の中で済まないと侘びながら接してきました。それに責任をとってあなたと結婚することも考えていました」
「うん…」
「でもそれは本当に真実こもった行動なのかしらと考えるようになりましたの」
陽子は北原と結婚することを嫌だとは思ってない。それどころか結婚したら、明るい家庭を築いて北原を一生介助してゆくことができるだろうとも思っていた。
だからこれは決して結婚を回避したいということへの口実ではないと自分で強く思った。
「わたし、あなたがあの日わたしや達也ちゃんに何をしてくれたか考えたことがなかった。
北原さんが追いかけてくれなかったらわたしはずっと恐怖に怯えていたし吹雪の中どうなっていたかも分かりません。達也ちゃんも冷静さを失っていましたし…うまく小樽まで行けたとしてもそのあとどんな騒ぎになったかわからないのです…。それを考えたら恐ろしくって…。
ああ北原さんはそのことから全部救ってくれたのだわ、と思いました…」
「僕は…ただ夢中で…。そんな」
「大げさに聞こえるでしょうか。私は北原さんおかげであの日の自分は無事に終えました。そこには北原さんの気持ちがこもっていたのですね。それがどんなに大変なことか、気づいたのです」
「陽子さん…」
陽子は顔を上げて北原をしっかりと見た。一生懸命な表情だった。
陽子はおそらく辛かったのだ、もう詫びることでしか北原と結びつかないであろう自分が。
そんな関係は悲しかった。
自分にとって北原は得難い友人で理解者だ。
しかし自分は責を負っている、これからは全てが違う。
詫びることは自分の殻に入り自分を守ることであった。
陽子は自分の苦悩を思うが故知らずに北原の心とすれ違ってしまったのかもしれない。
苦悩が陽子を追い詰めた。徹への気持ちには蓋をして、自分がこの十字架を背負うしかない、と。
そして流氷を見るまで気づかなかった。北原は自分に何をしてくれていたのか。
「本当にありがとう北原さん」
北原はポカンとして黙っていた。陽子はそんな北原を見てなんとも恥ずかしくなり黙ってしまった。
周りの客が喋るボソボソした声や、カチャカチャと食器を片付ける音が聞こえてくる。陽子は小さな声で言った。
「…わたし、今日はそれだけ伝えたくって。その…これからは…」
すると北原が穏やかに口を開いた。
「もしかしたらそう言って貰えるのが一番の供養かなぁ。こいつの」
北原はそう言って失くした片足の腿に視線を向けた。
陽子はハッとして意外な様子で北原を見つめた。北原はいつもの優しげな目で陽子を見た。
「前にも言ったけど僕はね、僕の足のことで陽子さんを縛り付けたいわけじゃないんだ、そもそも事故だからね。何か目的があって失くしたわけじゃない。でもこの足のことひっくるめてあの日のこと、陽子さんのためになれたんなら良かったと思ってたんだ。」
北原はなんだか照れくさそうに言った。
北原は恨み言一つもないどころか陽子のためになれて良かったと言う、陽子は信じられない気持ちになった。同時に北原という人間の大きな愛を感じた。
「でも、そういうの自己満足っていうのかな。僕はそう思ってても君は自分を責めてるようだったから、なんて言ったら良いかわからなくてね…僕は君に責苦を負わせて、君に迷惑を掛けてしまったかもしれない、いっそ僕のことを忘れてくれたらとも思ったよ」
「そんな」
「流氷を見に行くことを勧めたけれど、本当に僕のことを忘れて帰ってきたらどうしようなんて不安だったんだ。
だから…良かった、陽子さんがそんな風に話してくれて…。
僕のしたことは、ただの自己満足じゃなくなった、ちゃんと意味が生まれた。これでこの足は浮かばれる、ありがとう陽子さん。
本当にたくさん悩ませてしまったね。でもこれは本当に誰の責任では無いんだ。それだけは分かってほしい」
「はい…」
「さあもうこの足のことは成仏したからね、陽子さん。
そのつもりでこれからは僕とはまた友だちでいてくれるね?
北原はニカッを笑顔を見せた。
陽子は自分の認識不足だったことを伝えて出来れば今までのように何のわだかまりなく接し、北原が望むなら結婚しても良いと思っていた。
「北原さん…一つ伺っていいかしら」
「なんだろう?」
「私はまだあなたのお友達でいられるのかしら」
「ええ?」
北原はちょっと素っ頓狂な声を出した。
「わたしはあなたのものにならなくても…?」
「陽子さんのことを決めるのは僕じゃあない。これからだって辻口のライバルのつもりですよ」
「まあ北原さんてば…」
北原は何の見返りもいらないのだ。
「何か…何かあなたの為に出来ることがあれば良いわ」
「陽子さんは1ヶ月も僕の付添をやってくれたじゃないですか」
「ええ、でもそれは申し訳なさから…。許されるのならこれからは対等に」
「陽子さん。そうですね、これからも対等でゆきましょう。
陽子さん。僕は君を信じています。」
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