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プロデューサーはペテン師か?

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九州、大分、日田。田舎に暮らしつつ、全国で多様な分野のプロデュース。そんな日々の問わず語りを13年、1300話以上のブログを書いてきた。noteにも徐々に新旧記事を転載中。htt…
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2020年4月の記事一覧

コロナは啓示? 2020.4.19

まずます深刻化するこの問題については、1回の投稿ではとても足りない。「コロナは摂理?」の続き。今回の騒動は、いくつかの象徴的な特徴を持っている。これまで、人類が積み上げてきた主要な方法論が、通用しなくなっている。このままじゃダメだよと。 そのひとつが、誰かのせいにできず、すべての人に等しく害が及ぶ可能性があること。近代は、政府や行政に対して要求が集中し、結果複雑な状況を生み、社会的コストを引き上げた時代だと感じているが、今回の発生と広がりについてはその限りではない。他人の中

花は桜木。 2020.4.13

今年も桜を見送った。三寒四温のリズムが早まり始める頃、山桜が花弁を開く。ソメイヨシノほど桃色は強くなく、ほぼ白に近い品のいい花が咲いて、いよいよ春の到来。毎年毎年、胸の奥からざわついてきて、ここからしばらくは、陶然と焦燥の日々が続く。悩ましい。 なぜ、これほど桜に惹かれるのかわからない。僕に限らず、多くの日本人が桜に魅入られてきた。花は桜木、人は武士。最上の生き様を謳った好きな古諺だ。満開となった途端に散る潔さは、先の戦争では悪意で汚されたりもしたが、桜花の散り様はただ純粋

コロナは摂理? 2020.4.7

年明け、危機はほぼ突然に訪れた。中国武漢から始まった新型コロナウィルス。その後の世界への拡散と混乱は周知の通り。これほど静かで、これほど例外なく、誰もが被害者になり得る災厄など、戦争以外であっただろうか?いや、戦争以上かも知れない。前代未聞。 さまざまな解説を聞く中で、最も腑に落ちるのは、これは経済的南北問題であるという説。富める北の国々が、南の資源を収奪し、その開発の余波で、局地的だった風土病が外に解放される。確かに、AIDSも新型コロナウィルスも媒介したのは野生動物だ。

あるがまま舎閉店。 2020.4.1

寝耳に水だった。20年程通った蕎麦屋。ヤマメ釣りなどで度々訪れる大分県九重町の飯田高原。標高1000mのこの地に、あるがまま舎はある。蕎麦屋だが、珈琲も飲める。マフィンもある。町から離れた釣りの合間にこのメニューは有り難かった。それが閉店。 3月のヤマメ解禁とともに、訪問頻度が上がる。ところが、今年はLINEかなにかで突然驚きの情報が飛び込んできた。なんでも、今月いっぱいで店を閉める由。数日後、半ば疑いながら立ち寄ってみた。常連が詰めかける店内は、いつもとは異なる空気が満ち

朝陽に透ける。 2020.3.27

逆光を好む傾向にある。毎朝、散歩に出掛ける。手にはいつもカメラ。いや、少し前からiPhone11Proに取って代わった。高性能に撮影熱は更に高まる。超広角も接写もいけるので、同じ被写体の再トライを重ねているが、朝陽は特に逆光が相応しい気がする。 横から差す光が、さまざまなものを照らすと、自ずと透ける被写体に惹かれていく。逆光は順光より生命感が伝わるように思える。人体だって光を通す。太陽に掌をかざした経験は、誰しも持っているだろう。温かさもあり、静かな鼓動もあり、胸の奥の方に

草花の春 2/2020.3.21

勢いづく春。三寒四温を繰り返し、季節は着実に気温を上げていく。咲く花も種類を増やし、毎朝の散歩がいつも以上に楽しくなる頃。春夏秋冬、美しさも楽しさも、四季それぞれにあるけれど、中でも春の訪れは、ひときわ特別な高揚がある。春はますます。 ふきのとうが群生するポイントの西側に、時期をずらしてショカッサイの花畑が現れる。諸葛孔明が飢饉対策に植えたと言われる野草。可憐な紫の花の根が食用だなんて頼もしい。早春から地表にポツリポツリと株を散らすスミレが落ち着いた頃、淡いブルーのトキワハ

草花の春 1/2020.3.15

白い秋が終わり、玄い冬が居座る。落葉樹は葉を落とし、風景は色を失い、枯れ野が広がる。木枯らしが舞い、時に雪が積もり、幾度も霜が降りる。自然の命の鼓動は音を潜め、気配さえ消えてしまう。そんな中、枯れ草と落ち葉の隙間から緑が現れる。早春。 最初に色を添えるのは、オオイヌノフグリ。可憐なブルーの小さな花。別名瑠璃唐草。草花では、この花が最も美しいと思っている。ほぼ時を同じくして、薄紫のホトケノザが現れる。どちらも次々に花を付けるが、季節はまだ冬の終わり。度々霜に、時には雪に見舞わ

森を見ている。 2020.3.9

全体という仕事がある。甚だ残念なことに、これは時に見えない。木を見て森を見ず、という諺がある。実に言い得て妙。一般に個々の木に目は行きがちだけど、僕らは木の存在に加えて、森という存在に気づかなければならない。つまりこれは、森という全体のお話。 俯瞰するとか、鳥の目とか、言い方はいくつかあるが、部分だけ見てちゃダメだよ。部分だけじゃなく総体を意識しよう、と時折誰かが叫ぶ。個々を見ておけば、自ずと全体に作用すると思いがちだが、部分と全体は、別々に捉えるべきだと考えている。そして