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アヤトビト 第4章


第4章 夢見る惑星


 こうやって白い天井を眺めているだけの時間が、どれぐらい経ったでしょう。お昼休みにご飯も食べず保健室にやって来た私は、もうずっとベッドの上で横になったまま。どうしても身体に力が入らなくて、今日は剣道部の稽古に行く気も起きません。クリスマスにお正月と、心が躍るようなイベントが続くはずの十二月。私の心は濁ってばかりで、残念ながら周囲の煌めきとは無縁です。
 私以外には生徒のいない、静かで暖房がとてもよく利いた保健室のベッド。とても快適なはずなのに、横になっていても眠気は一向にやって来ません。時折、ベッド脇のパイプ椅子に置かれた通学鞄を見てはため息をついて、また天井を見る。もうずっとそんなことを繰り返しています。

 鞄の中には教科書や文房具と一緒に、一冊の絵本が入っていました。先日、古本屋さんで購入した「キャット・イン・ザ・ハット」。幼い頃に大好きだった思い出の一冊。尊敬する香山先輩が同じく尊敬する持丸先輩に本を贈るのを見た時、なぜか私もこの絵本を後輩の青木くんに贈ろうと思ったのです。
 けれど、よくよく考えればそれはあまりに無謀。同じ剣道部員という関係性以上に友人としてとても仲良くしてもらっていますが、それでも急に先輩から本を渡されたら困ってしまうでしょう。しかも子供が読むような絵本です。なんだこの女はと、引かれてしまうに決まっています。
 そんなどうしようもないことで頭を悩ましていると、鉛を飲んだように重くなってしまう身体。今日は特に酷くて、こうして保健室で動けなくなっていました。

 うだうだと保健室のベッドで過ごす自堕落な午後。すると突然、ベッドを覆っていたカーテンが開きます。開いた先に目をやると、そこにいるのはいつもの保健室の先生ではありません。白衣を纏う、すらっと背の伸びた女性。その黒髪は眩しいほどの光沢を放っています。
「久しぶりじゃない」
 思わず見蕩れてしまう程に美しいこのお方は、確か白石先生。春先にここで持丸先輩の足をちょん切り、青木くんの頭に穴を開けたあの人です。当時の恐怖がフラッシュバックして固まる私の様子など気にも留めず、彼女は私が横になるベッドの端に腰掛けました。
「なんだか煮詰まっているみたいね。話、聞こうか?」
「いえ、結構です」
 できることなら今後一切関わりたくはありません。けっこう冷たく返事をしたつもりですが、なぜか嬉しそうな様子の彼女。女性の私でもドキドキしてしまいそうなぐらい整ったその笑顔は、手にする電動ドリルのせいで台無し。背筋が凍りそうになります。
「そう、あまり考えすぎは良くないわよ。よかったらその頭に穴を開けてあげましょうか。風通しが良くなって前向きになれるわよ」
 トリガーを引き、モーター音を鳴らして楽しそうにする彼女。どうお答えしたものかと逡巡していると、再びカーテンの開く音が聞こえます。

「白石先生、こんなところにいたのか。探したよ」
 黒ぶち眼鏡を掛けた、聡明そうな雰囲気のその男性は確か鈴木先生。そういえば二人は恋人同士だったはず。白石先生は慌てて立ち上がり、彼の元へと駆け寄ります。
「あら、ごめんなさい。私、やっぱりここが好きみたい。落ち着くの」
「長い間ここにいたからだろう、わかるよ。でも急にいなくなられたらこっちは心配になるよ」
「ごめんなさい。でも大丈夫よ、安心して。私たちはずっと一緒だから」
 いくつか言葉を交わしてから身を寄せ合うと、すぐに始まってしまう濃厚なお二人の時間。私のことも、ここが一応学校であることもすっかり忘れてしまった様子で、あまりの熱々っぷりにこちらが火傷してしまいそう。というか火だるまになりそう。私は仕方なくベッドから起き上がって、お二人の邪魔にならないようにと、重い身体を引きずるようにして保健室を出ます。
 すると廊下には炭火の香ばしい匂いが漂っていて、急に猛烈な空腹感に襲われます。そういえば、私はまだお昼ご飯を食べていません。あれだけ重かった身体は正直で、匂いを辿って勝手に動き出してしまうのでした。



 匂いに導かれた私は、やがて購買にたどり着きました。もうお昼休みはとっくに終わっている時間なのに、購買前に設置された大きなテーブルを囲うようにして人だかりができています。そのテーブルにはお昼休みになると学校近くのパン屋さんから運ばれる大量の調理パンが並ぶのですが、なぜか今日は煙が上がっています。
「いらっしゃい、いらっしゃい。おいしい焼き鳥だよ」
 煙をかき消すような張りのある声。人だかりの向こうには洋子お姉ちゃんの姿がありました。テーブルの上にはパンの代わりに巨大な焼き鳥機が置かれ、「ほり江」の店主が一心不乱に串を焼いています。

 昔、家の近所にあった焼き鳥屋さん「ほり江」。店主の一人娘である洋子お姉ちゃんには大変優しくしていただきましたが、お店は事故で全焼してしまったはず。それなのに、なぜか私の通う学校で営業を再開しています。
「まだまだいっぱいあるから、押さないでね」
「もっとくれ、早くくれ!」
「うめえ、うめえ」
「焼き鳥ってこんなにうまかったのか」
「古びたカビ臭い本を探し続けるより、おいしいものを食べた方が幸せかもしれん」
「今さらそんなことを言うんじゃない。俺の人生なんだったんだ」
 群がるお客さんたちをよく見れば、いつか古本屋さんで遭遇した愛好家のみなさんではありませんか。まるでゾンビのように古本を求めて彷徨っていた彼らです。あの迷宮のような古本屋さんから脱出できたのでしょうか。相変わらず清潔感とは程遠い身なりをされていますが、今は店主の焼き鳥に夢中な様子で、洋子お姉ちゃんに声を掛けたくても彼らが壁となって近づくことができません。
 さらには、お店のように換気の設備が整っていないせいか、店主の手元から延々と立ち上がり続ける煙はやがて濃霧のようにあたり一帯を覆い、次第に洋子お姉ちゃんや愛好家のみなさんの姿は見えなくなってしまいます。

「彩さん、ここにいたのか」
 煙に飲まれて立ち止まっていると、突然背後から名前を呼ばれます。振り替えると、煙の中から持丸先輩の姿が現れました。
「持丸先輩!」
「なんだか久しぶりな気がするね。元気かい?」
 先輩のおっしゃる通り、そのもちもちとした笑顔が懐かしく思えます。
「元気は元気ですよ。ただ、先輩がいない部活は寂しくてたまりません」
「またまた。僕なんていようがいまいが同じようなものだよ」
「そんなことありません! 持丸先輩も香山先輩も、ずっと剣道部にいてくれたよかったのに」
「そうなのかい? 近頃めっきり会わないから、避けられているのかと思っていたよ」
 いじわるっぽく笑みを浮かべる持丸先輩からの返しに、思わず顔がこわばってしまいます。持丸先輩も香山先輩も剣道部をすでに引退して受験生なのですから、会えなくなって当然。でも、会えなくなってしまった理由はそれだけではありません。

「ごめん、ごめん。冗談だよ。そんな顔しないでおくれ。香山さんも寂しがっていたから、ちょっと意地悪してしまったよ」
「ごめんなさい。ただ、私はお二人に迷惑かけたくなくて」
「その配慮はありがたいけれども、彩さんが思うより、僕や香山さんは君たちとの時間を楽しんでいるよ。きっと青木くんも。だから、そんなに気にしなくていいんだよ」
「でも、先輩たちにとって大切な時期ですから、何かあっては……」
「まあまあ。その話は今度にしよう。今は香山さんが探しているから付いておいで」
 持丸先輩とお話する間に煙はさらに濃くなってしまいます。もう持丸先輩以外に周囲は何も見えませんが、煙の向こうから洋子お姉ちゃんや愛好家のみなさんの声がします。焼き鳥屋さんはまだまだ賑わっている様子。後ろ髪を引かれますが、洋子お姉ちゃんにはまた後で会いに来ましょう。持丸先輩は煙の中でくるりと踵を返して歩いて行ってしまうので、私はすぐに後を追いかけます。



「おーい、連れて来たよ」
「おう、彩。おせーぞ。寒いってのによ」
 香山先輩は校舎の中庭にいました。相変わらずの可憐なお顔立ちですが、その眉間にはしわが寄っています。それがまた可愛らしい。
「香山先輩、どうしましたか?」
「それがさあ、あれを見ろよ」
 香山先輩が指差すのは、中庭に植えられた一本の樹。三階建ての校舎と同じぐらいの高さに、太い幹と老人の肌のように深く皺の刻まれた樹肌が特徴的で、生徒からは「ゾウの足」だとか「ばばあ樹」などと呼ばれています。
「この樹がどうかしましたか?」
「よく見ろよ。ほら、あそこ」
 すっかり葉は落ち切ってしまっていますが、複雑に絡み合うように伸びた無数の裸の枝が四方八方に広がり、天を覆うようにして日差しを遮ります。今日はなんだかいつもより大きく見えて、禍々しさすら覚えるほど。
「確かに、こんなにアバンギャルドな見た目でしたっけ」
「何を言ってんだ。だからあそこだよ」
 香山先輩が指さしてくれた方をよくよく見ると、一箇所、枝の上で何やら動くものが見えます。より樹に近づいて目を凝らせば、それはグレーの毛玉のような物体。
「あれって……」
「さっき廊下で見つけたんだ。捕まえようとしたら逃げて樹に登っちまって。そしたら降りられないみたいでよ」
 その毛玉は赤い首輪をしているのが見えます。真下に来た私に気付いた様子で、こちらを見下ろすようにして口を開きました。
「ニャッ」
 まぎれもなく、その子はかつての私の愛猫、ビトでした。



「あいつ、いつか古本屋で見かけた猫に似てるよな」
「そうですかね? もうあんまり覚えてないなあ」
 我ながらとぼけるのが下手くそです。声が上ずり、冷や汗が止まりません。
「ふーん。まあ、あのままだとかわいそうだからさ。助けてやらねえと」
「猫ですから。放っておけばそのうち降りてきますよ」
「お前、そんなこと言う奴だっけ?」

 実際、ビトなら降りられないこともない高さだと思うのですが、先ほどから私を見てずっと鳴き続けています。どうやら本当に助けを求めている様子。
「助けるって言っても、あんな高いところからどうやって助けるんですか?」
「それは僕に任せたまえ」
 後ろにいた持丸先輩はそう言うと、両手で自身の右足を掴んで引っ張ります。カショッという音と共にそれは外れ、左足も同じように外してしまいます。両足の外れた持丸先輩は気の抜けたようなエンジン音と共に宙を漂っていました。
「いつか出会った保健室の先生のおかげで、地に足をつけようがつけまいが、どちらでも生きていけそうな身体になってしまった。これで彩さんを猫の元まで運んであげよう」
 持丸先輩は私の周りをスイスイと飛び回り、その様子は人魚が水の中を泳ぐよう。
「あの、すいません。それなら持丸先輩がご自身で猫を助ければ良いのでは……?」
「それがね、僕は動物が苦手なのだよ。手で掴むなんてもってのほかさ」
「ええ……」
「私は高い所が苦手だろ。だから頼むよ、彩」
「むむむむ……」
 あまり腑に落ちませんが、尊敬するお二人から頼まれたとあっては断れません。それにもう死んでいるはずとはいえ、ビトが困っているのであればやっぱり放っておけません。私はここで腹を括ることにしました。




 持丸先輩は私をお姫様抱っこのように抱えて飛ぶので、恥ずかしくてたまりません。他の生徒の視線が無いのがせめてもの救いです。そういえば、私は保健室を出てからお二人以外の生徒と遭遇していませんでした。
 抱えられて上昇していくと、私はいつかの古本屋さんでUFOに吸い上げられた時のことを思い出します。あの時は私の身体に持丸先輩と香山先輩がしがみついていました。二か月ほど前の出来事ですが、もうずっと昔の事のよう。

 複雑に伸びた枝の合間を縫うように上昇し、やがて樹の中腹あたりにいるビトの元へたどり着きます。
「ほら、こっちにおいで」
 枝の上で小さくなっているビトは、近くまで来た私を見て鳴くばかり。声を掛けても動こうとしません。
「持丸先輩、もうすこし近付いてください」
「了解した」
 助けを求めるように鳴いていたくせに、私と持丸先輩のことを怖がるビト。昔からそう。私を呼ぶようにこっちを見て鳴くのに、触ろうとすると逃げてしまう。
 手の届く距離まで近付いた私は、がっしりとその柔らかなお腹を掴みます。
「よし、捕まえました!」
 ところがです。彼は身をよじっていとも簡単に手からすり抜けると、そのまま枝から身を投げてしまいます。
「ビト! だめ!」
 落ちていくビトに手を伸ばそうと、思わず身を乗り出した私は持丸先輩の腕を離れ、後を追って落下してしまいます。
「彩さん!」

 持丸先輩の声も虚しく、落ちていく私とビト。とはいえ、そう高い場所から落ちたわけではありません。私はただでは済まないかもしれませんが、ビトなら難なく着地できる高さのはず。それなのに、いつまで経っても私たちが地面に着地することはありません。
 それもそのはず。落ちていく私の目に映るのは、ミニチュアサイズになってしまった私たちの町と、ずっと遠くまで続く地平線が輝く様。

 中庭の樹にいたはずの私とビトはいつの間にか、遥か上空を落下していました。



 ビトの病気がわかったのは、私が高校一年生の時。右目が開きにくくなっていることに気付いて、それが始まりでした。それからすぐ銀色のお皿に大好きだったエサを残すようになって、やがて右目が完全に開かなくなってしまいます。病院で頭に腫瘍があると言われても、私にしてあげられることはほとんどありませんでした。自力ではエサを食べられなくなってしまった彼に、シリンジで喉に流動食を流し込んであげるくらい。
 物心のついた頃からずっと一緒にいたせいで、いてくれることが当たり前すぎて、もうすぐお別れだという事実をなかなか受け止められません。それでも日に日に弱っていく彼。美しかった毛並みはボロボロになり、リビングの窓際で横たわったまま、ほとんど動かなくなってしまいます。
 そしてあっという間にその日はやってきました。部活を終えて帰宅すると、涙を流して出迎えてくれるお母さん。ずっと一緒だったのに、最期の最期で私はちゃんとビトにお別れを言うことができませんでした。



 オレンジ色に染まった空に染み入るように、輝いていた地平線の向こうから夜が広がりはじめています。スカイダイビングのように上空から落下している私と、手足をジタバタと動かしているビト。
 私より少し先を落ちていく彼に追いつこうと、大の字に広げていた身体をビトに向けて真っすぐに伸ばしてみます。速度が上がった私の身体は矢のようにビトへと向かい、すぐにそのお腹を掴みました。
「今度こそ捕まえた!」
 真っすぐに伸ばしていた身体を、ビトを包み込むようにして丸めます。すると先ほどまでの勢いのせいか、そのままタイヤのようにぐるぐると回転してしまい、体勢を戻すことができません。
「大丈夫、もう離さないから!」
 激しい回転に三半規管はすぐにおかしくなって、上下も左右も落ちていく感覚も、何もわからなくなってしまいます。ただ確かなのは、腕の中にある温もり。

 寝ようとすると部屋にやって来て、ベッドに入った私のお腹に乗っかると、撫でろと言わんばかりに鳴き声を上げる彼。その頭を擦りながら、その温もりを手に感じながら、やがて眠りの落ちた日々。

 いつ地面に着地して潰れたトマトのようになってもおかしくない状況なのに、恐怖を覚えるわけでもなく、そんな懐かしい日々を思い出してしまいます。そのままどれぐらいの時間を落ち続けたのでしょうか。しばらくして何か柔らかなものにぶつかると回転は止まり、私の身体がスーパーボールのように跳ねて浮き上がるのを感じました。

 それから再び落ちていく私の身体は、すぐにまた柔らかな感触の上に着地します。そのまま横になっていたくなるような肌触り。私は巨大なクッションの上に落ちていました。
「おい、彩! 無事か!」
「香山先輩! たぶん無事です!」
 どこからか香山先輩の声がしますが、クッションに埋もれているせいで周囲の状況がわかりません。私の身体の何十倍もありそうな大きさに、沈むような柔らかさ。私はビトを抱いたまま身動きが取れなくなっていました。

「彩さん、よかった」
 声と共に気の抜けた様なエンジン音がして見上げれば、深みの増した夕焼け空の向こうから持丸先輩が近付いてきます。
「僕の身体では落下のスピードに追い付けなくてね。ごめんよ」
 そう言って持丸先輩は私を再び抱えて、ゆっくりと上昇していきます。やがて辺り一帯を見渡せるようになってわかりましたが、私を受け止めてくれたのはクッションではなく、青いクマのぬいぐるみ。子供の頃に遊んだ、中がトランポリンになった巨大バルーンのように大きなクマは学校の校庭で仰向けになり、真ん丸なお腹で私を受け止めてくれていました。そして、その横に小さな人影が見えます。
「彩! また後でなー!」
「香山先輩、ありがとうございます!」
 両手を大きく振ってくれる香山先輩。私はそのまま持丸先輩に校舎の方へと運ばれていきます。ビトはよっぽど怖かったのか、周囲をきょろきょろと見回しながらも私の腕の中で大人しくしています。

「さあ、着いたよ」
 持丸先輩に抱えられたまま、校舎の一角で空いていた窓から中へ入ると、そこは保健室。持丸先輩は私をベッドの上に降ろし、すぐに寝かしつけるように布団を掛けてくれます。
「大変な一日だったね。疲れたろうから、もう寝なさい」
「いやいや、ここは家じゃありませんよ。今寝ちゃったらマズいです。もう帰らないと」
「大丈夫。きっともうすぐ青木くんが迎えに来るから、それまで寝ているといいよ」
「青木くん? どうしてですか?」
「僕が呼んでおいた。渡したいものがあるんだろう。後は頑張りたまえ」
「そんな、急に言われても心の準備が……」
「もう十分に準備期間はあったろう。後で後悔したって遅いんだよ。その子もそう言っている」
 布団の中で抱かれたままのビトはいつの間にかリラックスした様子で、私のお腹の上でだらしなく伸びてしまっています。そんな彼を無理やり布団から引き寄せて、小さな顔に頬ずりをすると、どっと淋しさが押し寄せます。
「持丸先輩、また会えますか?」
「そんなこと聞くまでもないよ。大丈夫、きっとその子にだってまた会える。結果はあとで教えておくれよ。香山さんと楽しみにしているから」
 持丸先輩はそう言って私の目に手をかざすと、すぐに意識がまどろんでしまいます。

「ではまた後ほど」



「彩先輩、おはようございます」

 保健室のベッドで目を覚ますと、さっきまで白い天井しかなかったはずの視界には青木くんの顔がありました。
「おはよう、青木くん」
 私の返事に、不安そうな表情で私の顔を覗き込んでいた青木くんは、すこしホッとした様子です。
「稽古に来ないから心配しましたよ。風邪ですか?」
「ううん。ちょっと考えごとしていたら、いつの間にか寝ちゃったみたい。稽古はもう終わったの?」
「はい。今日、また竹刀を組んでもらおうと思っていたんです。それなのに彩先輩がいないから困りましたよ」
「自分でもできるようになりなさい」
 青木くんは少し笑って、私のお腹あたりに視線を移して指を差します。
「その絵本、とてもかわいいですね」
 その言われて顔を上げると、私は「キャット・イン・ザ・ハット」を腕に抱えて横になっていました。

「青木くん、この本あげる。受け取って」
 身体を起こした私は、そのままの勢いで青木くんに絵本を差し出します。
「えっ、いいんですか?」
「うん、いいの。私の大好きが詰まった一冊。青木くんに持っていてほしいの」
 急な出来事にすこし驚いている様子の青木くん。当然でしょう。部活をサボって保健室で寝ていた先輩が突然、得体のしれない絵本を受け取ってほしいと迫るのです。ヤベー女と思われても仕方がありません。
 それでも、面食らったような青木くんの表情はあっという間にいつもの優しい笑顔に戻ります。
「ありがとうございます。大事に読ませていただきます。うん、確かに、表紙の雰囲気がもう既に彩先輩らしいです」
「うそ、私ってこんな感じ?」
 わずかに笑い声を上げる青木くんは、受け取った絵本を大切そうに抱えてくれていました。



「その猫、きっと淋しくなって彩先輩に会いに来たんですよ」
「本当にそんなかわいい理由なのかなあ」

 二人で校舎を出ると、すっかり辺りは暗くなっていました。それから校門までの道を歩く最中、私は青木くんにビトの話をしました。ずっと一緒に育ったこと。死に目に会えなかったこと。死んでしまったはずなのに、たびたび遭遇しては不思議な目にあっていること。
 荒唐無稽な私の話を、青木くんは腰を折ることなく最後まで聞いてくれました。彼も当事者だった出来事もあるので、飲み込みやすかったのかもしれません。他人にここまでビトの話をするのは初めてでした。

「猫も最期に先輩と会えなくて心残りがあったんじゃないでしょうか。だから会いに来てくれたんですよ。余計なものまでついてきちゃったみたいですけどね」
「うーん、腑に落ちるような、落ちないような」
「そういえば、先輩たちと古本屋さんに行った話は初耳なんですが、どうして俺も誘ってくれなかったんですか?」
「ええと、あれは香山先輩と二人のはずだったから。持丸先輩と会ったのはたまたまだよ」
「ふーん。俺も行ってみたかったなあ、そのB級SF映画みたいな本屋さん」
「今度は一緒に行こうよ。多分もうあんな風には迷わないから」
「はい、よろしくお願いします」
 背の高い青木くんと会話をするといつも見上げるようになってしまうのですが、なぜか今日はその顔がとても近く思えます。

「おせーよ彩、何してたんだよ」
 やがて校門まで来ると、真ん中で腕を組んで仁王立ちしている香山先輩がいました。怒ったような表情をしていますが、それがまた可愛らしくて、抱き寄せて頬ずりしたくなるような衝動に駆られます。
「香山先輩、どうしたんですか?」
「どうしたじゃねーよ。彩が部活に来ねえし、最近様子がおかしくて心配だって青木が連絡してきたから、顔を見ようと思ってよ」
「部活もないのにこんな時間まで待っていてくれたんですか? すみません……」
「持丸に付き合って自習してたんだよ、な?」
 すると校門の陰からひょっこりと姿を現す持丸先輩。そのもちもちとした笑顔は暗闇の中でも光りそうなほどに艶やかです。
「うん。まあ香山さんから、最近彩さんが構ってくれなくて淋しい、という愚痴を聞かされてばかりで、あまり集中できなかったけれどね」
「てめえ、余計なこと言うんじゃねえ!」
 相変わらずなお二人のやり取りがやっぱり心地良くて、私はニヤニヤが止まりません。

「四人が揃うのも久々だし、せっかくだから焼き鳥でも食べに行こうか」
「いいですね。行きましょうよ」
「この四人で焼き鳥っていったらもうトラウマみたいなもんじゃねえか」
「いやあ、なぜか身体が焼き鳥を欲しているんだ。どこかで炭火の煙にでも当てられたかな」
 焼き鳥を求めて、近くのコンビニに向かって歩き出す私たち四人。すると、持丸先輩が私に耳打ちをします。
「ちゃんと絵本は渡せたみたいだね。よかったよ」
「あれ。その話し、持丸先輩にしましたっけ?」
「さあ、どうだったっけね」




エピローグ


 今日という日ほど、自分がファッションに無頓着であったことを呪った日はありません。まったく興味が無かったわけではないのですが、かわいいと思ったアイテムを単体で買ってしまうだけで、あまり組み合わせを意識したことがありませんでした。
 しかも今は十二月。以前買ったお気に入りのワンピースを着てみても、合わせるアウターが無いことに気付いて絶望します。さんざん頭を悩ませた挙句、上は少しオーバーサイズな黒いクルーネックのセーター。下はベージュのスラックス。足元はハイカットのスニーカーで上着に学校指定のダッフルコートを羽織るという、なんとも普段通りの私が出来上がっていました。男受けも女受けも皆無でしょう。
 着替えを終え慌てて家を出ましたが、最寄りの駅には待ち合わせの時間より三十分も早く着いてしまいました。私は駅に併設された商業施設の中にある、チェーン店のカフェに入ってココアを注文します。

 今日は日曜日。部活はお休みで、これから青木くんと会うことになっていました。待ち合わせ場所はこのカフェ。ここですこしお茶をした後、電車に乗って剣道具店に向かう予定です。この辺りには無い、大型の専門店。青木くんは小手の新調を考えていて、私に選ぶのを手伝ってほしいとのことです。
 注文したココアを受け取って席についた私は、ここ数日の間に頭を悩ませていた難題と改めて向き合います。これは所謂「デート」なのでしょうか。それとも、ただの部活動の延長なのでしょうか。
 約十七年間、こうしたイベントとほとんど無縁な人生を送ってきた私にはやはり答えが出せませんし、出せるはずもありません。それなのに、この期に及んでも思案に暮れてしまいます。

 待っている時間は永遠のよう。ココアから立つ湯気を眺めるだけで、せっかく注文したのに口を付ける気にはなれません。ノーベル賞ものの難題と向き合う内に私の集中力は研ぎ澄まされ、次第にカフェのBGMも、他のお客さんの会話も、周囲の雑音が全て遠のいていきます。
 代わりに聞こえてきたのは、かすかな鈴の音。聞き覚えのある、どこからともなく響く音に、ふと思いついた私はバッグを開けて手帳を取り出します。そこに挟まれる一枚の写真。青空の元、草原の上で思い思いにのんびりと過ごすたくさんの猫が収められた一枚。いつか古本屋さんで絵本を買った時に挟まれていたものです。
 私が飼っていたビトもその中に混ざって、大きなあくびをしている姿が収められていました。それなのに、いたはずの場所が今はぽっかりと空いてしまっています。
 徐々に近付く鈴の音。思わず写真を指で擦りながら、目を瞑ってその音に耳を集中させます。

「ニャッ」

 突然の鳴き声に目を開けると、いつの間にかテーブルの向かいに青木くんが座っていました。
 心配そうな面持ちで私を見る彼。目が合った瞬間、さっきまで頭を悩ませていた時間がくだらなく思えてしまう、とても前向きなエネルギーが私の中で湧き上がるのを感じて顔が熱くなってしまいます。
「彩先輩、大丈夫ですか? 声を掛けても全然反応が無かったですよ」
「ごめん、ぼーっとしちゃってた。大丈夫」
 すでに鈴の音は消えてしまっていました。手にしていた写真を手帳に戻そうとすると、いなくなっていたビトが元の場所で写真に収まっているのに気付きます。彼はもうあくびをしていません。

 こちらを向いて、まるで手を振るように長い尻尾を揺らしていました。




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