見出し画像

アヤトビト 第3章


第3章 漂流者たち



 肌を撫でる秋風が心地良い、よく晴れ上がった日のことです。

「ダメだ、やっぱ何買えばいいのか分かんねえ」
「プレゼント選びって難しいですよね」
 この日は日曜日。学校も部活もありません。町で一番大きな古本屋さんにやって来た私と香山先輩は途方に暮れてしまっていました。
「そもそも、持丸先輩ってどんな本を読むんですか?」
「なに読んでんだろうな、ぜんぜん知らねえ。興味もねえ。無謀だったかなあ」
 私たちの町に住む人なら誰でも知っているこの古本屋さんは、きっと百年ぐらい前にすごいお金持ちが住んでいたのだろうと想像できるような、広大で立派な日本家屋。けれど、手入れがなされず老朽化の著しい外観や、導線などまったく考えずにぎちぎちに並べられた本棚のせいでむしろ店内が狭いのもあって、不気味がられてしまっています。私たちも入るのは初めてで、複雑に入り組んだ店内を身体を小さくして進んでいきます。

「お嬢さんたち、慣れていないのにあんまり奥に行くと迷子になるからね」
「そんなに奥まで続いているんですか?」
「そうだよ。迷子になったまま帰って来られなくなって、そのまま住み着いているお客さんが多くて困るんだよ」
 入店した際に、入り口近くのカウンターからお店の方が声を掛けてくれました。つるっと光る頭に白く長いひげを貯えたその男性は、店主さんでしょうか。冗談かと思いましたが、確かにお店は迷路のような作りをしています。

「やっぱり普通の本屋に行って参考書でも買うか。うちらは受験生だから実用的だし。持丸だし」
「そんなのつまらないですよ。せっかく来たんですし、持丸先輩にぴったりな雰囲気のある本を見つけましょう」
 そう言って励ましますが、香山先輩の気持ちもよくわかります。少し店内を歩いただけで目にする、一生かけても到底読み切れないであろう量の本に私も圧倒されていました。
「もっと読書に励む人生を送ってくるべきでした。もう何が何だか」
「お前、持丸ごときのために人生を悔いるなよ……」

 私たちの身長よりはるかに高い、本棚という本棚にびっしりと詰まれた書籍の数々。それぞれに作家さんがあーでもないこーでもないと頭をひねって生み出された物語があると思うと、私は宇宙を想います。作家さんという太陽の周りを囲う、著作の名を冠した惑星の数々。この古本屋さんは、そんな太陽系が無限に散らばる宇宙のよう。そして私と香山先輩は、裸当然な装備でフワフワと宇宙を漂っている漂流者。はたして、こんな私たちが持丸先輩にぴったりの一冊と出会えるのでしょうか。



 それは数日前、お昼休みの最中のこと。中庭のベンチで一緒にご飯を食べていた香山先輩から持丸先輩への誕生日プレゼントを探すのを手伝ってほしいと言われた時、なぜか私が顔を真っ赤にしてしまいました。
「違う違う、先にあいつがくれたんだよ。急に誕生日プレゼントなんかよこしやがって。だから返さないと、後でネチネチ言われそうだろ?」
 香山先輩の誕生日は一か月ほど前。持丸先輩からプレゼントを贈られていたとは知りませんでした。なんと微笑ましい。仲良しだとは思っていましたが、いつの間にそんな関係になっていたのでしょう。
「もちろんお手伝いしますけど、先輩は何を貰ったんです?」
「あいつ本が好きだよな? しかもよくわからん古そうな本。あのボロい本屋に行ってみようと思ってるから、付き合ってくれよ」
 香山先輩は私の質問に答えてくれませんでしたが、私は気が付いていました。ここ最近、先輩の鞄に見慣れない小さな青いクマのぬいぐるみがぶら下がっているのを。
「なんだその顔。ぶっ飛ばすぞ」
 顔にニチャっとした笑みが浮かんでしまうのを、私は止められませんでした。



「そもそも、まったく本を読まねえ私たちが古本屋に来たのが間違いだろ」
「でも、駅前の本屋さんとかよりもここの方が持丸先輩っぽいですよ」
 ずっと後ろ向きなことばかり言っている香山先輩ですが、本棚に向ける眼差しは真剣そのもの。鼻筋のすーっと通ったその美しい横顔を見ていると、なぜか後輩の青木くんが思い浮かびます。

 よく稽古が終わるとすぐに、どたどたと私の元へ走ってくる彼。そして、酷くささくれていたり、割れていたりする竹刀の修理を依頼されます。そんなに難しいことではありませので、やろうと思えば自分で出来るはずなのに、彼は私にやってほしいそう。先輩として、自分でやりなさいとここで突っぱねるべきかもしれませんが、なぜか嬉しそうにしている顔を見ると断ることができません。
 竹刀を分解する私の手元をじっと見ている青木くん。便利に使われてしまっているような気もしますが、この時間が嫌いではありません。それに尊敬する香山先輩と持丸先輩はすでに剣道部を引退していますが、青木くんがこうして構ってくれるおかげで淋しい気持ちが和らぎます。
 もし彼にプレゼントするなら、どんな本がいいでしょう。香山先輩のプレゼント探しを手伝いに来たはずなのに、そんな考えばかりが頭に浮かんでいました。

 香山先輩と一緒に真剣に本棚を眺めていると、やがて一冊の青い本が目に留まりました。手に取ってみれば、表紙に描かれているのは赤白のボーダー柄のシルクハットを被って、首に赤い蝶ネクタイを巻いた猫のイラスト。
 「キャット・イン・ザ・ハット」というタイトルのその絵本に、胸が懐かしい気持ちでいっぱいになります。それは私がまだ幼い頃、お母さんがよく読み聞かせてくれた絵本。おもちゃ箱をひっくり返したみたいなワクワクする展開の連続に、毎晩のように読み聞かせをせがんで、自分で読めるようになってからも飽きずに何度も読み返したのを思い出します。あんなに大好きだったはずが、今の今まで存在を忘れてしまっていました。

 こうして再び出会えるなんて、なんて幸運なのでしょう。はやる気持ちを抑えながらゆっくりと表紙をめくります。ところが、本扉に書かれているのは「世界愛猫全集 第八集」というタイトル。そのままページをめくっても、内容は絵本ではありません。いくらめくっても猫の写真ばかりで、併せてその子たちの名前や生年月日、好物や趣味が記載されています。どうやらこの本には世界の飼い猫が図鑑のように纏められているようですが、表紙は確かに「キャット・イン・ザ・ハット」。これは何かのいたずらか間違いでしょうか。困惑する私の様子に気付いた香山先輩が手元を覗き込みます。
「なに読んでんだ?」
「珍奇な本を見つけまして」
「ほお、すげーなこの本。ばあちゃん家の猫とか載ってないかな」
「世の中にはいろんな本があるんですね」
 とても興味深い本ではありますが、なんだか肩透かしを食らったような気分。それでも何となくパラパラとページをめくっていたら、見慣れた猫の写真に指が止まります。  

 グレーの美しい毛並みに赤い首輪、そして翡翠のような目。その特徴は私が以前飼っていたビトという名の猫と一致しています。というか、写真の下に「ビト」と名前が書かれています。
「こいつ、彩が飼ってた猫じゃねえの? 背景とか完全に彩の家じゃん」
「いやいや、こんな本の取材なんて受けたことありませんよ。でも確かに我が家としか思えませんね」
 窓際でお腹を広げて日向ぼっこをしているその子。記載されている生年月日も好物も完全にうちのビトと一致しています。いつの間にか、私の知らないところで家族が取材を受けていたのでしょうか。食い入るようにそのページを見ていたら突然、写真の向こうにいるビトがこちらを見て鳴きました。
「ニャッ」
「「ぎょえええええええ」」
 びっくりした私たちは、揃って奇声を発しながら腰を抜かしてしまいます。とっさに投げてしまった本が床に落ちると、中から仕掛け絵本のように飛び出したビト。私と目が合うと、すぐに古本屋さんの奥へ走り去ってしまいました。

「追うぞ、彩!」
「先輩、待ってください!」
 すぐに立ち上がった香山先輩は私の言葉に聞く耳を持たず、ビトを追って狭い店内を駆けていきます。慌てて後を追いますが、入り組んだ店内に行くてを阻まれ、あっという間にその後ろ姿を見失ってしまいました。



「香山せんぱーい。どこですかー」
 いくら呼び掛けても返事はありません。外観からは想像もつかないぐらい奥まで続く店内を、私は香山先輩を探してひたすら歩きます。
 自分が店内のどの辺りにいるのかは、とっくに分からなくなっていました。歩けど歩けど、目に入るのは無秩序に本が詰められた棚ばかり。広大な宇宙で一人ぼっちになってしまった私は途方に暮れてしまいます。
 と言いつつ、厳密に言えば一人ぼっちではありません。店内を歩いていると、ちょこちょこ他のお客さんを見かけます。声をお掛けして現在地や香山先輩の行方を尋ねるべきなのかもしれませんが、残念ながらその気にはなれません。なぜなら、身なりにあまり清潔さが感じられない方々ばかりなのです。
 導線の狭い店内ですから、食い入るように本棚を見つめる皆さまとは互いに身体が触れそうな程に距離が近づくこともありますが、その都度、目を開けていられないほどの酷い体臭に涙がこぼれます。揃いも揃って長らくお風呂に入ってない様子で、髪も髭も伸ばしっぱなし。正直に言って、そんな方々とあまり関わり合いたくありません。
 それなのに、皆さま近くを通ると決まって私が手にしている本を覗き込みます。それから少し距離を置いて、後ろを付いて来るのです。香山先輩を探して店内を彷徨い歩く内にそんな出会いが何件も続き、いつしか私の背後には不潔な方々による長蛇の列ができていました。

「あの、何か御用ですか?」
 覚悟を決めた私は立ち止まり、振り返って声を掛けます。突然のことに一様に動揺している様子ですが、やがて一人が尋ねました。
「おい、その手にしている本は『世界ナメクジ全集』じゃないか?」
「違います。これは『世界愛猫全集』か『キャット・イン・ザ・ハット』のどちらかです」
「なんだそれは、どういうことだ」
「私にもよくわかりません」
「おい、本当に『世界愛猫全集』ならお宝だぞ」
「でも今からそれも集め出したらキリがないよな」
「いまさら何を言ってんだ、キリもクソもあるか」
「『世界水虫全集』だったらなあ」
「いけない、もはや『全集』という言葉に身体が勝手に反応してしまう」
 一斉に口を開きだす皆さま。身なりの整っていない大人たちが、何やらよくわからないことをごにょごにょとしゃべっている様子があまりに不審で、私は思わず逃げ出してしまいました。狭い通路を無理矢理走りって、さらに店内の奥へと進みます。

「おい、逃げたぞ!」
「逃げるってことはやっぱり希少本だな!」
「追え! 殺っちまえ!」
 物騒な言葉を皮切りに、皆さまは私を追って店内を器用に走ります。とても運動が得意そうにも体力がありそうにも見えないのに、現役運動部員の私が全力で走っても、なかなか引き離すことができません。親の仇でも目にしたようなその形相は、捕まればただではすまないでしょう。私はひたすら走りますが、奥へと進むにつれて混沌さを増し、やがて狭い床にまで本が積まれるようになっていく店内。蹴ってしまわないようにと気を使っている内に、これまた器用に飛ぶようにして足元の本を避けて走る皆様。徐々に距離を詰められ、焦った私はやがて盛大にすっ転んでしまいました。
「ぐえっ」
「転んだ! 転んだ!」
「よし奪え!」
「あれは俺の本だ!」
 咄嗟に起き上がろうとするも、追手がすぐそこまで迫っています。こうなったら仕方ない。未練は残りますが背に腹は代えられません。この本が欲しいのならくれてやりましょう。私は手にしていた本を放り投げようと腕を上げます。

 ところがその時です。私たちと皆さまの間で本棚が道を塞ぐように勢いよく倒れ、最上段に数十年単位で積もっていたであろう、煙のように巻き上がった大量のホコリが私たちの視界を覆います。
「なんだあ、くそっ」
「ゴホッ、ゴホッ」
「おい、お前ら。落ちた本を踏むんじゃねえ。お宝かもしれないんだぞ!」  
 どうやら皆さまは足止めされてしまった様子。振り上げた腕を下ろしてホコリの中で目を凝らしていると、やがて見慣れたお餅のような笑顔が浮かび上がりました。

「なにやら騒がしいと思ったら、奇遇だね」
 それは尊敬する持丸先輩の笑顔でした。



「持丸先輩! どうしてここに!」
「彩さん、それはこっちのセリフだよ」
 崩れた本棚を背に、私たちはさらに店内を走ります。
「ここには一人で来たのかい?」
「いえ、香山先輩と一緒だったのですが、はぐれてしまって……」
「そうか。それは困ったねえ」
 持丸先輩は柔らかそうなほっぺのお肉を自分でぷにぷにと触りますが、その表情からはいつもの笑顔が消えていました。
「君たちはあまり読書をしないだろうに。ここは初心者が来ていい場所じゃないよ」
「先輩はこのお店のことをよく知っているんですか?」
「うん、よく来るよ。もともと常軌を逸した愛好家の多い店だけど、今日は輪を掛けてひどいね。まるでゾンビじゃないか」

 後方から聞こえる、持丸先輩が言うところの私を追っていたゾンビたちの呻き声は次第に遠くなります。十分に距離を置いたところで足を止め、その場に座り込んでしまう私。どれだけ走ったでしょう。疲労感が重りとなって足に纏わりつき、息も絶え絶えです。

「それはそうと彩さん、おもしろそうな本を持っているね」
 私と違ってまだまだ余裕がありそうな持丸先輩は、私が抱えている本を指差して尋ねます。
「やっぱり先輩も気になりますか?」
「そうだね。彼らのように追って奪おうとは思わないけれど、彩さんがどんな本を見つけたのかは気になるねえ。見せてもらってもいいかな?」
「どうぞ。でもこの本、おかしいんです。表紙と中身がまったくの別物で」
「どれどれ。おお、表紙の絵本はともかく、中身は『世界愛猫全集』じゃないか。しかもこの八集は伝説の存在とされる希少な一冊。まさかこんな風にカモフラージュされていたとは」
「そんなに貴重なんですか? この本」
「うん。然るべき場所で競売にでも掛ければ億は下らないね」
「先輩、私のこと馬鹿にしてますよね?」
「そんなわけないじゃないか、本当の話だよ。きっと愛好家たちは死に物狂いで手に入れようとするから、気を付けた方がいい」
 あんな風に追いかけられるぐらいなら、その辺の本棚に戻してしまいたいところ。しかし億と言われてしまうとなかなか手放す気になれません。いや、それよりこの本から飛び出したビトや彼を追って消えてしまった香山先輩はどうなってしまうのでしょう。持丸先輩に返してもらった本を腕に抱いて、私は立ち上がります。
「持丸先輩、香山先輩を探すのを手伝ってください」
「もちろん。歩いても埒が明かないから、高い所から探そう」
 そう言って持丸先輩は側の本棚に手と足を掛けると、青木くんより遥かに背の高そうな本棚を猿のように簡単に登ってしまいます。
「彩さんもおいで。意外と棚がしっかりしているから大丈夫だよ」
 躊躇していた私も、持丸先輩の言葉に意を決して登り始めます。すると疲れ切っていたはずが、重力が弱まったかのように簡単に上がる足。最後は持丸先輩に手を引いてもらって登り切って、本棚の上に立ちます。

 見上げればいつの間にか古本屋さんの天井は消え、代わりに広がる満天の星空。あまりにも星々がはっきりと、そして近くに見えるので、まるで本当に宇宙にいるよう。
 片や目線を下げると、地平線の彼方まで続くのは巨大迷路のように連なる大量の本棚。この光景には、お店から出てこられない人がたくさんいるというお話にも納得です。香山先輩と一緒に古本屋さんに入店したのが、もうはるか遠い昔のことに思えてしまいます。

「おや、香山さんはあそこにいるんじゃないかな」
 私が光景に圧倒されている内に、周囲を見渡して何かを見つけた様子の持丸先輩。その視線の先へ私も目を凝らすと、バタバタと本棚が倒れ、まるで狼煙のようにホコリが舞い上がっているのが見えました。



「香山先輩! こっちこっち!」
 頭上から聞こえる私の声に、顔を上げる香山先輩。その目には瞬く間に涙が浮かんでいきます。
「彩、どこいたんだよ、探してたんだぞ! それに持丸、お前はなんでいるだ!」
「それはこちらのセリフなんだよなあ」

 手当たり次第に周囲の本棚をなぎ倒していた香山先輩はまさに今、私と持丸先輩が登っている本棚に手を掛けたところでした。倒れた本棚とそこから崩れ落ちた大量の本で辺り一帯の床は埋まってしまい、足の踏み場もありません。さすがの膂力。竹刀で打たれると防具の上からでも痛いからと、男女問わず部員みんなから稽古で組むのを嫌がられていただけあります。

 持丸先輩が差し出した手を掴み、本棚を登った香山先輩は私を抱きしめます。
「うううう、もう彩に会えないかと思った」
「もう大丈夫ですよ、怖かったですよね」
 こんな状況ではありますし、アバラが折れそうな程に抱きしめられてとても痛いのですが、香山先輩の甘い香りが心地良くて少しホッとしてしまいます。
「この店の客、どっかおかしいんじゃねーか? 私がたまたま見つけた本をよこせって、血相変えて追っかけてきやがる」
「やっぱり本棚を倒していたのは逃げるためだね。ということは、香山さんも珍しい本を見つけたのかな?」
「さああな、お前には教えねーよ! 彩、ごめんな。あの猫は捕まえられなかった」
「いいんですよ、そんな」

 私と持丸先輩は本棚を登ったり下りたりしながら、塀の上を歩く猫のように香山先輩の元までやって来ました。高さがあって幅も狭いのに、地面を歩いているかのような速度で進んでしまう持丸先輩。付いて行くのもやっとでしたが、なんとか合流できました。あとはここから脱出するだけです。

「あーあ、この有様じゃあ本がかわいそうだ」
「しょうがねえだろ、追われてたんだから」
「それより持丸先輩、出口がどこにあるか分かりますか?」
「すまないがわからん。いつもと店内の様子が違いすぎて、僕も迷子だ」
「こいつをあてにすんなって」
「とりあえず、ここから移動しましょうよ」
「うん、それがよさそうだ。あれをご覧」

 持丸先輩が指差す先で、床も見えない程に辺り一面に散らばった本。それらを掻き分けるようにして、埋もれていた不潔なお客さんたちが姿を現します。その光景はまさに墓場から蘇るゾンビ。
「ガキ共、なんてことしやがる」
「お宝がどこに眠っているかわからないんだぞ」
「お前らごときにその本はもったいない、よこせ!」
 わらわらと湧き出してきたゾンビのみなさまは大変お怒りのご様子で、その数は先ほど私が追いかけられた時の比ではありません。
「ほら、あんなことをするから怒っているじゃないか」
「だからしょうがなかったって言ってんだろ!」
「持丸先輩も私を助けるために本棚を倒しませんでした?」
「僕はあんなに倒してないよ。一緒にしないでくれ」

 迫り来る、辺りを覆いつくすようなゾンビの大群。すぐに逃げ出そうとしますが、香山先輩は動けなくなってしまいます。
「こんな高いところで走れるかよ! 落ちたらどうすんだ!」
「香山さん、ここにいたらもっと危ないよ」
 香山先輩の身体を支えて何とか進もうとしますが、足の速いゾンビたちにあっという間に周りを囲まれます。
「香山先輩、しっかり!」
「嫌だ! 私には無理だ!」
 ゾンビが登ってこようとするので、私は足元の本棚から本を抜いて、彼らの顔に目がけて投げつけます。
「やめろ! だから本を粗末にするな!」
「いてえ、いてえよお」
 なんとか食い止めようとしても、周りで別の本棚に登ったゾンビたちが前からも後ろからも迫るので、あっという間に私たちの進路は断たれてしまいました。
「くせえ! こいつらほんとくせえ!」
「香山さん、彼らは君が見つけた本を目がけて追ってくるのだろう? くれてやったらどうだい。このままでは三人とも襲われてしまう」
「嫌だね、これは私が買うんだよ!」
「君は本を読まないだろうに」
 息をする余裕もなさそうなぐらいに、私たちの下ではゾンビたちが悪臭を放ちながらひしめき合っています。数百人、いや、数千人規模でしょうか。このまま掴まって大群に呑まれるかと思うと、申し訳ありませんが吐き気を催します。
 そこでなんとか状況を打開しようと覚悟を決めた私は、大事に抱えていた本を頭上に高々と掲げました。



「みなさま、落ち着いてください。私の手元には今、『世界愛猫全集』があります」
 ゾンビの大群に向かって、私は精一杯声を張り上げます。
「どうした、彩! おかしくなっちまったのか!」
「香山さん、静かに」

 動きを止めるゾンビたちですが、間もなくどこからか声が上がります。
「でたらめを言うな、その表紙は違うだろう!」
「でたらめではありません。確かに表紙は『キャット・イン・ザ・ハット』ですが、中身は『世界愛猫全集』に間違いありません。ご覧ください」
 表紙を開いて中身を掲げた瞬間、一斉に感嘆の声が上がります。
「おい、それをどこで見つけた!」
「幻の第八集じゃないか。なんであのガキが」
「だから今まで見つけられなかったのか、くそっ!」
「それもよこせっ!」
 再び襲い掛かろうとしますが、私はさらに声を張り上げます。
「いいですか、みなさん。私たちに近づこうとするなら、この本を破いてしまいます。然るべき場所で競売に掛ければ億は下らない本ですよ。私は本気です!」
「やめろ! それは困る!」
「そんなことをされたら二度と出会えないかもしれないじゃないか!」
「でも億は言い過ぎじゃないか」
「うーん、このままあの子のモノになるのもなあ」

 力強い私の宣言に、再び動きを止める彼ら。オロオロとしながらお互いの顔を見合うばかりで、動揺しているのは明らかです。
「二人とも、今のうちです」
 本を掲げたままゆっくりと歩みを進めると、本棚の上で私たちの進路を妨害していたゾンビたちが後ずさります。未だ出口がどこにあるのかはわかりませんが、とりあえずこのまま進むしかありません。

 ところがです。そうやってしばらく進むと私たち三人は突然、スポットライトで照らされたように光に包まれます。明るいようで、眩いほどではない。そんなどこか温かみのある光。
「ゾンビの次はUFOかあ。まいったね」
 そう言って上を見る持丸先輩に釣られて見上げた私は、口を開けて固まってしまいます。降り注ぐ光の向こう、数十メートルほど上空には、天を覆うほどの巨大な銀のお皿が浮いていました。いつからそこにあったのでしょう。底の部分にわずかに穴が開いているのが見えて、そこから私たちに向かって光が放たれています。

 あまりに突飛で言葉も出てきませんが、視線を落とせばゾンビたちも皆同じ様子。その場にいる全員が、あられもない表情で宇宙に浮いたお皿を見上げていました。



 持丸先輩はUFOと言いますが、どうしても私にはお皿に見えてしまいます。
 しかもそれは、かつてビトの餌やりに使っていたステンレス製のお皿にそっくり。窪んだ下部の側面には窓のようなものがあって、よくよく見れば、そこから一匹の猫がこちらを覗いています。目が合うと、お皿の中にいるその子は口を開きました。
「ニャッ」
「ビト!」
「あれ、さっきの猫じゃねえか」

 本を掲げたまま光に照らされる私はやがてふわりと宙に浮いて、お皿へと吸い上げられてしまいます。
「おい、待てよ!」
 持丸先輩と香山先輩は引き留めようと身体を掴んでくれますが、二人の身体も一緒に浮かび上がってしまいます。そのままぐんぐんと吸い上げられてしまう私たち。
「あのゾンビたちに取り込まれるよりはマシかなあ」
「バカ野郎、UFOに誘拐されんだぞ、大差ねえよ!」
「持丸先輩、香山先輩、たぶん大丈夫ですよ。このまま身を任せましょう」
 あっけにとられていたゾンビたち。やがて我に返って慌てて私たちに飛び掛かろうとしますが、もうその手は届きません。
「逃げるな! そいつをよこせ!」
「というか、俺も連れて行ってくれ!」
「もうこんなところ、うんざりだ! 家に帰りたい!」
「ずるい、ずるいぞ!」

 やがて足元ではゾンビたちが重なり合って蟻塚のような形を成し、上昇を続ける私たちの足元になんとか手を伸ばそうとしますが、もはやそれも遥か下方。上っていくにつれて、見渡す限り延々と広がる本棚の迷宮に改めて圧倒されます。本棚の上より遥かに高い場所に来ましたが、やはり終わりが見えません。どんな言語、ジャンルの本を探していても、ここでならきっと見つけられるのでしょう。
「あの大群に巻き込まれたらと思うとゾッとしますね」
「本当に。あれはもう病気みたいなものだね」
「早く降ろしてくれ…… むり、むり……」
 お皿のすぐ下まで吸い上げられて来ましたが、やっぱりUFOはビトのお皿にしか見えません。光を放っている穴は、ちょうど私たちが通れるぐらいの大きさです。そこに吸い込まれるようにして中に入っていくと足元が塞がり、すぐに視界が真っ暗になりました。



「だから言ったじゃないか、あまり奥まで行ってはダメだって」
「本当にすみませんでした……」
「まったく。無事でよかったよ」
 眉間に深い皺を寄せた古本屋さんの店主に、ひたすら頭を下げる私と香山先輩。私たちはそれぞれ紙袋を手にしています。

「それで、あまり本を読まない君たちがどうして古本屋さんに来たのかな?」
 古本屋さんから出てきた私たちに、外で待ってくれていた持丸先輩が尋ねます。
「仕方ねーな。ほら、もうすぐ誕生日だろ」
 舌打ちをして、紙袋を投げつけるように持丸先輩に渡す香山先輩。中を覗いた持丸先輩はとても嬉しそうで、もちもちとしたお顔がさらに柔らかくなって、もうとろけそうなほどです。
「おお、モームの『月と六ペンス』じゃないか。美しい名著だよね。しかも中野好夫による最初の翻訳版だ、これは初めて読むよ。どうしてこの本を?」
「なんとなくだよ」
「やっぱり香山さんの直感は素晴らしいね。見返りを期待していたわけじゃないが、あのぬいぐるみをプレゼントした甲斐があったよ。ありがとう」
「お前、彩の前でそれを言うんじゃねえ!」

 お皿の中に吸い込まれた後。それから視界が開けたと思ったら、目の前に店主の顔がありました。私たちは三人は古本屋さんの奥で本棚を倒してしまい、落ちてきた本の山に埋もれてしまっていたところを店主に助け出されたそう。大変におかんむりな様子でしたが、片付けと掃除、それから私と香山先輩が抱えていた本を購入して、なんとか許していただいたのです。

 古本屋さんを出て前を歩くお二人の背中を見ていると、次第に私の胸が締め付けられていきます。結局、UFOの中でビトと再会することはできませんでしたが、思い返せば保健室の前や焼き鳥屋さんでも、私は彼の姿を見かけていました。今までの不思議な出来事とビトに関係があるのなら、私がお二人や青木くんに迷惑をかけているのでしょうか。

 ふと、歩きながら手にしていた紙袋を開けて絵本を取り出します。「キャット・イン・ザ・ハット」と書かれた表紙を開くと、中身はもう「世界愛猫全集」ではありません。幼い頃に慣れ親しんだ、奇妙で可愛らしい世界。ただ、すぐに一枚の写真が挟まれているのに気付きます。
 そこに写るのはたくさんの猫。よく晴れた青い空の元、広い原っぱの上でじゃれたり、丸くなったり、お腹を広げて横になったりと、それぞれみんな幸せそうに過ごしています。「世界愛猫全集」に載っていた子たちでしょうか。

 そしてその中には、身体を伸ばして大きなあくびをするビトの姿もありました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?