「新実在論の神学的転回」

「新実在論の神学的転回」

プロテスタントの、特にたかだか数百年の歴史しかない自由主義神学に立った、中途半端な「科学主義」思想の観点から、

パレスチナにイエスという人物が「いた」事くらいは信じていても、その属性や言動はあたかも神話やおとぎ話の中の出来事のように平気で語れる人を見ると、私は正直ゾッとします。

聖書に書かれている事もただの高潔な道徳を現代に適用させるための「御託」のように捉えている考え方自体に対しても。

私が「新実在論」に直観的に着目してきたのもまさに「この」ためです。

「物理学の意味の場」では、水上歩行や6日創造はその対象領域において「あり得ない」(つまり現象しない=存在しない)事だと主張したとしても、

(中途半端な、私などから見ても噴飯ものの、安直で文系的で素人的な純朴で無批判的な「科学(万能)主義」「唯物論的還元主義」者は、まさに、マルクス・ガブリエルが「世界は存在しない」という驚天動地のやいばで一刀両断してみせた、当の「自然主義」に、無自覚に「神学」をかしずかせてしまおうと企てていることになる訳ですが)

「信仰の意味の場」では、いえ、ただ「信じれば何でもあり得る」という、安っぽい「信心話」ではもはやなく、

私が本当に最終的に企図しているのは、「形而上学的な意味の場」、「神学の意味の場」において、

究極的には、人間の知の地平には「存在」し得ない(被造物全体の、創造された天地万物全体を包摂する)「世界」において、

すなわち、「神のまなざし」「キリストのまなざし」において、水上歩行や6日創造は、確かに「実在」し、

よって「使徒的証言」「初代教会での証し」「それらの記録の集積である諸信条や旧新約聖書」の意味の場においては、

水上歩行や6日創造は、確実に「実在」するのだと、

他のおよそいかなる意味の場にも遠慮したり影響されたりすることなく断定的に宣言できる立場に立つ、

「新実在論」の「キリスト教神学的転回」です。

その延長にあっては、私は「6日創造説」も当然信じていますし、

さらには、「イエスのまなざし」における限り、つまり、「初代教会の使徒的証言」の意味の場にある限り、今もいやしや預言などの、御霊の賜物は「実在」しているし、

なかなか評判の良くない「携挙」という事態も、使徒的証言の記録文書である限りにおける「聖書」が記述しているそのままとして、私は信じています。

また、「聖書の逐語霊感」、すなわち、「聖書は唯一の啓示の書であり、その原典において、誤りなき神のことばである」ことを信じています。

それは、「反-知性」などという「近代的知性」のおまけの産物でしかないのような、何にも言及できず何をも記述できない、力ない知的態度ではなく、

「神学」は、初代教会の使徒の働きに接続する限りにおいて、何ものの意味の場にも制約されずに、

神や、キリストや、聖霊や、三位一体の奥義や、教会の権威や、救いや、聖餐の秘儀や、イスラエルの救いや、天の都や、永遠のいのちや、終末のリバイバルや、いやし・預言などの御霊の賜物の働きや、五職の使徒団などの「存在」は「実在」する、と主の前に、告白し、広く世に宣言する者です。

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