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「戊辰戦争」は、どのような戦争だったのでしょうか?

「戊辰戦争」の勃発〜集結まで解説いたします。



「戊辰戦争」とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月、「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、15代将軍「徳川慶喜」を擁する「旧幕府軍」と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」で争われた一連の戦争のことです。


戊辰戦争は、「鳥羽・伏見の戦い」から始まり、「江戸城無血開城」「上野戦争」「長岡城の戦い」「会津戦争」と1年以上続き、1869年(明治2年)の「箱館戦争」(五稜郭の戦い)にて終結しました。

この終結により、国内は新政府によって統一され、新しい時代が始まることになるのです。


〈目次〉
1.戊辰戦争の背景
2.鳥羽・伏見の戦い
3.江戸城無血開城
4.会津戦争
5. 箱館戦争と戊辰戦争の終結


1.戊辰戦争の背景
1867年(慶応3年)11月、「大政奉還」が行なわれ、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上しましたが、依然として幕府が強大な権力を持っていました。

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜

これに対し、倒幕派だった薩摩藩、長州藩と「岩倉具視」(公家)らは、徳川慶喜を政権から排除し、天皇を中心とする新政府を樹立しようと朝廷を動かします。

そして同年12月、「王政復古の大号令」の発令により、徳川家が担っていた政権は天皇に返上し、200年以上続いた徳川幕府はその幕を下ろすことになりました。

この大号令に伴い、徳川慶喜に対して「辞官納地」(役職を返上し、領地を差し出すこと)を要求しますが、この倒幕派の強引なやり方に対し、徳川慶喜は拒否。

また、旧幕府の怒りや諸藩の同情を買い、次第に王政復古の大号令に対して撤回を求める動きが見え始めます。

このため、薩摩浪士達らは、わざと旧幕府の怒りを買うために、各地で騒乱を画策。その挑発に乗った旧幕府は、薩摩藩邸を襲撃し、完全に対立状態となります。

その後、徳川慶喜は、15,000人もの旧幕府軍を結成し、1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦いによって、戊辰戦争の幕が切って落とされたのです。


2.鳥羽・伏見の戦い
1868年(慶応4年/明治元年)、戊辰戦争の初戦となる鳥羽・伏見の戦いが起こります。

旧幕府軍の兵力が約15,000人だったのに対し、薩摩藩を中心とする新政府軍の兵力は約4,000~5,000人と、兵力では圧倒的に旧幕府軍が有利でした。

それにもかかわらず、「薩英戦争」(薩摩藩とイギリスの戦い)や、「下関戦争」(長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの戦い)を経て、外国の技術や武器を積極的に取り入れていた薩摩藩の軍事力は、旧幕府軍の想像を遥かに超えており、薩摩軍の新兵器を前に為す術もなく、旧幕府軍は惨敗。

徳川慶喜は江戸に逃れることとなりました。

鳥羽・伏見の戦いを伝える錦絵


3.江戸城無血開城
鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、江戸に戻って上野の寛永寺で謹慎し、新政府に対して恭順の意を示すものの、新政府方では徳川慶喜の責任を問う声や、旧幕府方では徹底抗戦を唱える者も見られました。

しかし、このまま江戸を戦場にすれば多くの犠牲が出ることは必至でした。

そこで、「勝海舟」と「西郷隆盛」は、旧幕府方と薩摩藩という両極の立場でしたが、戦いを避けたいという思いは同じでした。

そのため、両者は江戸城総攻撃の前日の会談で、「江戸城を明け渡すことで攻撃をしない」という条件で双方同意に至ったのです。 

江戸時代から残る富士見櫓(やぐら、武器庫)。明暦の火災で天守が失われた後、天守の代用とされた


4.会津戦争
京都守護職など旧幕府の要的存在として活躍していた会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)
は、鳥羽・伏見の戦いのあと、徳川慶喜にならって新政府へ恭順の意を示していました。

しかし、新政府は、旧幕府軍の「ナンバー2」と言われた松平容保を討つため、1868年(慶応4年/明治元年)、陸奥国(現在の福島県)を舞台に会津戦争が起こります。

新政府軍と会津藩との戦闘は、1868年(慶応4年)の白河小峰城攻防戦で端を開きます。

戦いは激戦となり、「土方歳三」が率いる新選組が奮闘したものの、新式の小銃や大砲を装備した新政府軍に対して会津藩は次第に劣勢となり、戦火は会津藩の本拠地である「会津若松城」(鶴ヶ城)に迫ります。

会津藩は、会津若松城に籠城した一方、新政府軍が会津若松城を包囲し、城内に50発の砲弾を打ち込むという激しい戦いでした。

これに対抗するため、婦女子や少年兵も戦闘に参加し、少年であった「白虎隊」(びゃっこたい:16~17歳の武家男子だけで構成された部隊)が応戦しましたが、1ヵ月に及ぶ籠城戦の末、会津藩の戦力は消耗し、白虎隊の少年兵は次々に自害へと追い込まれ、ついに松平容保も降伏

松平容保の代わりに「家老」(家臣の長)が切腹することで、戦いは終わりました。

会津若松城 本丸跡


5.箱館戦争と戊辰戦争の終結
新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いとなったのが、1869年(明治2年)5月の箱館戦争です(江戸時代まで「函館」は「箱館」と表記されていた)。舞台は「五稜郭」(ごりょうかく:現在の北海道函館市)だったことから、「五稜郭の戦い」とも呼ばれています。

五稜郭

新政府は旧幕府に対し、駿河、遠江70万石へ減封することを決定します。

これによって、約8万人の幕臣を養うことが困難となったことから、旧幕臣で海軍副総裁であった「榎本武揚」(えのもとたけあき)は、東北に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策します。

しかし、これは表向きの話で、実際は新選組の土方歳三「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」の中で旧幕府と戦う者を引き連れて、東北で軍備を整えるためでした。

その後、1869年(明治2年)、新政府軍と旧幕府軍の最後の戦い箱館戦争が始まり、海戦と陸戦で、一進一退の攻防が続きます。

土方歳三が率いる旧幕府軍は五稜郭に立て籠もりますが、新政府軍の箱館総攻撃を受け、旧幕府軍はついに陥落。

旧幕府軍の最大の砦であった弁天台場が壊滅状態となり、その救援に向かった土方歳三は、「一本木関門」付近で銃に撃たれ、35歳(数え年)の若さでこの世を去りました。

土方歳三が戦死したあと、榎本武揚が降伏。この箱館戦争の終結と同時に、旧幕府軍と新政府軍との長い戦い戊辰戦争は終結することとなりました。

土方歳三


参照元: 「刀剣ワールド」Webワールド

以上

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