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玉川上水


江戸へ飲み水を供給した上水道


江戸時代につくられた「玉川上水」について、あまり知られていない逸話をまじえて、サクッと説明します。お楽しみいただければ幸いです。

玉川上水がつくらたのは、1653年(承応2年)である。徳川家康が江戸幕府を開いてから50年ほど後のことだ。

当時の江戸にはすでに「神田上水」があったが、人口が増えたため、水が足りなくなってしまった。

そこで、幕府は、庄右衛門、清右衛門の兄弟に新しい用水路を造るよう命じた。

まず、羽村(今の羽村市あたり)に、水のとり入れ口をつくり、多摩川の水を引き、江戸の四谷に至るまで43Kmほど、地下に路を掘りこんだ。

さらに、この先は水門をつくり、江戸城や武家地、町人地にも排水され、主に飲み水に利用された。

二人の兄弟は、幕府から「玉川」という名字をもらうことになった。

玉川兄弟を中心として、多摩川ぞいの村の農民たちは昼も夜も働き続けた。そして、なんと8か月という速さで玉川用水を完成させた。まさに突貫工事である。

玉川兄弟はもともと江戸の町人だったという話や、 多摩川ぞいの村の農民だった、また、羽村の出身だったという逸話があるが定かなことはわかっていない。

また、玉川兄弟の子孫が書き残した文書には、幕府から与えられたお金6,000両は工事の途中で使いきってしまった。そこで二人は、自分たちの家屋敷を売ってお金をつくり、工事をやりとげたとされている。はたして本当だろうか?

そして、玉川上水の工事は2回にわたって、失敗したということも伝えられている。はじめは、現在の国立市から掘り始めたが失敗し、次は福生から掘り始めたが、これも失敗した。いよいよ3回目。羽村から掘り始めたところ、今度は成功したとのことだ。

福生での失敗は、上水に水を流したら熊川村(今の福生市熊川あたり)で水が残らず地中に吸い込まれてしまったらしい。  

開始から完了まで8か月は驚きであり、本当だとするとまさに偉業である。


以上

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