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柳田國男の人生(短編)

日本民俗学の創始者


「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962)は、明治8年7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川と いう農村の医者・国学者であった父松岡操の六男として生まれた。

幼少期に体験した飢饉、故郷を離れて見聞きした庶民の暮らしや間引き慣習の悲惨さを思い、「経世済民の学」を志向、東京帝国大学法科大学(現東京大学)で農政学を学んだ。

大学卒業後、「農政官僚」となり、明治34年に信州飯田藩出身の柳田家の養嗣子となった。視察や講演旅行で日本各地の実情に触れ、普通の人々への関心を深め、文書に書かれた政治や事件が中心の従来の歴史学を批判、名もなき庶民(常民)の歴史や文化を明らかにしたいと考え、「常民文化の探求」と「郷土研究」 の必要性を説いた。それが、人々の現実の悩みに応え得る途と思ったからである。

官界では、「貴族院書記官長」(大3~8)という要職を得るが辞任、旅を条件に東京朝日新聞社客員になった。その後、「国際連盟委任統治委員」(大 10~12)に就任したが、関東大震災を機に辞任して、新たなる学問を興すための活動を開始した。

昭和初期に砧村(現成城)に家を建て、そこを拠点として日本人の口頭伝承・伝統ことば・固有信仰の収集と研究、出版活動などを精力的に行った。特に戦後は、次代を担う若者達のため、日本人のアイデンティティ確立をめざした活動を行い、稲の問題や沖縄研究、さらに教育問題にも情熱を注いだ。また私財を投じて民俗学研究の中核機関「(財)民俗学研究所」(昭 23~32)も設立した。研究所解散後には、蔵書類を関係の深かった成城大学へ寄託(逝去後、遺言により寄贈)した。

青年時代に抒情詩人としても注目された柳田の文章は、文学作品としての評価も高いが、日本人の生活慣習や歴史伝承、民俗信仰を記した『遠野物語』『明治大正史 世相編』『郷土生活の研究法』『日本の祭』、戦後日本人のアイデンティティ再構築のために書いた『先祖の話』、日本人の源流を求めた最後の著作『海上の道』等百数十冊に及ぶ著作は、日本文化史研究上の広範な礎となっている。 

「日本民俗学」創設と普及の功により、昭和15年度の第12回朝日文化賞を受賞、また帝国芸術院会員(昭22)・日本学士院会員(昭24)となり、昭和26年11月には第10回文化勲章という栄誉も受けている。

生涯をかけ「世のため人のための学問」を追求した柳田國男は、国家の近代化の担い手として活躍し、後に伝統文化の擁護者として明治・大正・昭和の激動の時代を生き、昭和37年8月 8日波乱に満ちた生涯を閉じた。享年87歳。


以上




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