ユーゴスラビア紛争
ユーゴスラビア解体にあたって発生した一連の内戦
〈目次〉
1.はじめに
2.背景
3.スロベニア独立戦争(十日間戦争)
4.クロアチア紛争
5.ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
6.コソボ問題/コソボ紛争
7.まとめ
1.はじめに
ユーゴスラビアは、南東ヨーロッパのバルカン半島に存在し、現在のスロベニア・クロアチア・セルビア・モンテネグロ・ボスニアヘルツェゴビナ・コソボ・マケドニアの領土を有した国家だった。
ユーゴスラビアが解体するにあたっては、民族対立によって内戦が発生し、いくつかの紛争をともなった。
今回は、ユーゴスラビア紛争について解説してみたい。
2.背景
ユーゴスラビア紛争が起きた背景には、指導者ティトーの死去・東欧革命の波及・民族対立がある。
ヨシップ・ブロズ・ティトーは、第二次世界大戦でナチスドイツに勝利し、その後ユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦を建国した。
ティトーはユーゴスラヴィア共産党指導者となり、非同盟主義でソ連に従属しない政策を取り、自主管理社会主義という体制を構築した。
第二次世界大戦からユーゴスラビアを率いてきた強力な指導者ティトーが1980年に死去したことで、ユーゴスラビア連邦の体制が揺らぎ始めた。
さらに、東欧革命の影響がユーゴスラビアにも波及したことで、ユーゴスラビア連邦内でも自由を求める動きが活発になった。
ティトーの死と東欧革命の波及に加え、連邦内の複雑な民族対立が紛争に繋がった。
連邦内には、スロヴェニア人やクロアチア人、セルビア人といった様々な民族が暮らしており、それぞれの民族が独立を目指して動き出します。
3.スロベニア独立戦争(十日間戦争)
ユーゴスラビア連邦内で最も早く独立に乗り出したのは、スロベニアである。
スロベニアは、連邦内でも経済水準と民族の均一性が比較的高かったことや西欧との経済交流があったこと、ナショナリズムの気運が高まったことから、独立を求める動きが活発になった。
1988年、ジャーナリストであるヤネス・ヤンシャが不当に逮捕されたヤンシャ事件をきっかけに、独立に向けて本格的に動き出した。
1991年、スロベニアが発表した独立宣言に対し、国境の管理を巡ってユーゴスラビア軍とスロベニア軍が衝突した。
この戦闘は10日間でスロベニアが勝利し、事実上の独立が認められる形となった。そのため、スロベニア独立戦争は十日間戦争とも呼ばれている。
4.クロアチア紛争
スロベニアに次いで、クロアチアも同時期に独立を宣言した。
しかし、クロアチア内にはクロアチア人だけではなく、セルビア人が1/3を占めていた。
クロアチア内のセルビア人は、独立に反対して民族自決の原則を主張し、クロアチア内に「クライナ・セルビア人共和国」というセルビア人国家の独立を宣言した。
クロアチアの独立をEC(ヨーロッパ共同体)が承認したことに対し、ユーゴスラビアはセルビア人を保護するという名目で軍隊を派遣した。
クロアチア軍とユーゴスラビア軍の衝突の結果、国連の介入で停戦となったクロアチアは、クライナ・セルビア人共和国を武力で制圧し、クロアチアとして独立した。
また、同時期の1991年、マケドニアも社会主義を脱し、マケドニア共和国としてユーゴスラビアから独立しました。
5.ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
スロベニア、クロアチアについで、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。
しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ内はセルビア人、クロアチア人、ムスリム人という3つの民族が拮抗して存在している状態であった。
クロアチア人とムスリム人は共にユーゴスラビアからの独立を主張したが、セルビア人がそれに反対した。
ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に反対していたセルビアは、モンテネグロと新ユーゴスラヴィア連邦を結成し、独立に対抗した。
ボスニア・ヘルツェゴビナ内では、民族間での対立が激化し、民族浄化と呼ばれる集団虐殺まで行われるまでに発展した。
特に1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のスレブレニツァという町で約7000〜8000人のムスリム人がセルビア人によって虐殺されるという事件が起きた(スレブレニツァの虐殺)。
このようなセルビア人の残虐な行為に対し、NATOが空爆を行って制裁を加えた。その結果セルビア人は停戦に合意してボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平合意(デイトン合意)が成立し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはユーゴスラビアから独立した。
このように、ユーゴスラビアは各国の独立によって解体し、新ユーゴスラヴィア連邦がセルビア・モンテネグロという二国連合に変更したことで、ユーゴスラビアは消滅した。
なお、セルビア・モンテネグロも2006年連合を解消し、それぞれの国家として独立した。
6.コソボ問題/コソボ紛争
ユーゴスラビア紛争の過程で、セルビアのコソボ自治州が独立を巡って紛争が起きた。
1991年にコソボは独立を宣言したが、セルビアはそれを承認しなかった。
その間にスロベニアやクロアチアの独立によってユーゴスラビアの解体が進んでいった。1998年、セルビアのミロシェヴィッチ大統領は、コソボの独立を阻止するために軍を派遣した。
セルビア軍の残虐な弾圧に対し、NATOは人道的介入として空爆を行い、和平が成立したが、独立は認められませんでした。
2008年にコソボは再び独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ諸国がそれを承認した。
しかし、セルビアやロシアは反対しており、国連への加盟も実現していない。コソボ紛争は、2001年にマケドニア紛争に飛び火するなど、民族間の対立は根深いと言える。
7.まとめ
複雑な「ユーゴスラビア紛争」を簡素にまとめてみた。
背景:
ティトーの死・東欧革命の波及・民族対立。
①スロベニア独立戦争(十日間戦争)
②クロアチア紛争:
クロアチア人とセルビア人の対立。
③ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争:
セルビア人・クロアチア人・ムスリム人の対立。
④コソボ問題:
コソボ独立をめぐるセルビアとの対立。
以上