エリック・ホッファー
在野の研究者 独学の社会哲学者
〈目次〉
1.エリック・ホッファーの生涯
2.主な著作(著作の写真)
(1)大衆運動
(2)波止場日記
(3)現代という時代の気質
(4)エリック・ホッファー自伝
(5)魂の錬金術
1.エリック・ホッファーの生涯
エリック・ホッファー(Eric Hoffer, 1902年7月25日 - 1983年5月20日)は、アメリカ合衆国の独学の社会哲学者である。
ドイツ系移民の子としてニューヨークのブロンクスに生まれた。
7歳にして母親と死別し、同年視力を失ってしまいました。その後、15歳で奇跡的に視力を回復した。以来、再びの失明の恐怖から、貪るように読書に励んだ。
しかし正規の学校教育は一切受けていない。18歳の頃、唯一の肉親である父親が逝去し、天涯孤独の身となった。
それを機にロサンゼルスの貧民窟でその日暮らしの生活を始めることになった。
28歳の時、多量のシュウ酸を飲み自殺を試みるが未遂に終わった。
それをきっかけにロサンゼルスを去り、カリフォルニアで季節労働者として農園を渡り歩いた。
労働の合間に図書館へ通い、大学レベルの物理学と数学をマスターした。
農園の生活を通して興味は植物学へと向き、農園をやめてまで植物学の勉強に没頭し、またも独学でマスターすることになった。
ある日、勤務先のレストランでカリフォルニア大学バークレー校柑橘類研究所所長のスティルトン教授と出会い、給仕の合間に彼が頭を悩ませていたドイツ語で書かれた植物学の文献を翻訳した。
彼はホッファーが植物学にもドイツ語にも精通していることを知り、研究所で勤務することを持ちかけた。
研究所でしばらく働いたホッファーは、当時カリフォルニア州で流行していたレモンの白化現象の原因を突き止めた功績が認められ、正式な研究員のポストが与えられるが、それを断り気ままな放浪生活へと舞い戻った。
哲学者、著述家としての転機は、1936年、ホッファーが34歳の時で、アドルフ・ヒトラーが台頭した時期であった。
その冬、砂金掘りの仕事でひと冬を雪山で過ごすことになり、その暇つぶしとして道中の古本屋で購入したモンテーニュの『エセー』との出会いによって思索、とりわけ「書く」という行為を意識し始めた。
エセーはその冬で三度読み返し、最後には大部分を暗記してしまったという。
1941年より、サンフランシスコで沖仲仕(※)として働き始めた。
(※)沖仲仕(おきなかし): 船舶内で貨物の積み降ろし作業に従事する港湾労働者。船内荷役 (にやく) 作業員。
1951年に最初の著書『大衆運動』を上梓。沖仲仕の仕事のかたわら執筆活動を続けたことから、「沖仲仕の哲学者」と呼ばれるようになった。
1964年にカリフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授になったが、沖仲仕の仕事は65歳になるまでやめなかった。
また、沖仲仕を含む港湾労働者の労働組合幹部を長く続けていた。
ホッファーは「沖仲仕ほど自由と運動と閑暇と収入が適度に調和した仕事はなかった」と述懐している。
バークレーでは週に一度のオフィスアワーを持ち、1972年まで続けた。
1967年にCBSで放送されたエリック・セヴァライドとの対談番組が、全米各地で大きな反響を呼んだ。再放送も人気だったことから、以来年に一度出演した。
ベトナム戦争に際しての兵役拒否、ヒッピー、マリファナ、学生運動の時代である1970年代になると、ある種の知的カリスマとして高い知名度を持つにいたった。
だが、ホッファー自身はヒッピーを「甘やかされた子供」と捉え、ヒッピーと対照的な立場とされているスクウェア(一般的な意味とやや異なり、本人はブルーカラーのような勤労青年を指して呼んだ)を支持していた。
また、ホッファーはベトナム戦争を肯定的に評価していた。
1983年2月、当時の大統領ロナルド・レーガンは大統領自由勲章を送った。同年5月、老衰のため、80歳でその生涯を終えた。
2.主な著作(著作の写真)
(1)大衆運動
(2)波止場日記
(3)現代という時代の気質
(4)エリック・ホッファー自伝
(5)魂の錬金術
参照元: 「ウィキペディア」、「各著作の出版社」
以上